慶喜

心意気
「明日迄の命の気持ちで、人生を!」
「不老不死の気持ちで、知識の習得を!」

木村草太・若手憲法学者の「お花畑」理論

2018年12月24日 | 有名人
大学教授が教壇やマスコミで護憲から基地反対や住民投票まで促しているが

 ☆木村氏は新たな米軍基地を建設するなら、辺野古基地設置法のような法律を制定すべしという
 *憲法95条(住民の投票)で、地方自治体の住民による住民投票が必要になるとも
 ☆「木村理論」は、暴論である
 *辺野古は名護市に位置するから名護市の住民投票が必要
 *沖縄県の自治権にもかかわるので沖縄県の住民投票も必要
 ☆これでは国のあらゆる政策に住民投票が必要になり、国家は大混乱
 ☆頭が良すぎる憲法学者の頭の中は「お花畑でいっぱい」のようである

政府と本土の国民に責任あり
 ☆憲法学者の木村草太氏が『沖縄タイムス』で「憲法の新手」という連載を続けている
 *15年の安保法制国会では「集団的自衛権の行使は憲法違反」などと発言
 *SEALDsの若者などから絶大な信奉を受けてきた
 ☆テレビ朝日『報道ステーション』のコメンテーターを務めていた
 *女性から中高年まで人気が高い
 ☆木村氏は安保法制反対を掲げる学生らの勉強会に積極的に参加
 ☆木村氏は、中央政府や本土の国民に対して過酷な二択を押し付けてきた
 *沖縄が『基地建設を受け入れるか、反対して無視されるか』
 *対話が成立しない原因は、中央政府と本土の国民にある
 *対話のために沖縄が変えるべき点はなく、あくまでも国に問題とも話す
 ☆地元メディアの論調に合わせたコラム
 ☆これではますます沖縄県民を惑わせるだけだ
朝日と組む護憲学者の系列で
 ☆木村氏が立憲主義の擁護を掲げ、集団的自衛権の行使に反対する
 ☆立憲デモクラシーの会の呼びかけ人の一人ともなった理由
 *先輩憲法学者の樋口陽一氏ら著名な学者たちと行動を共にしたから
 ☆若い木村氏は若者の中に入って議論を重ねた
 ☆イケメンでテレビのコメンテーターとしてアピールしたことも大きかった
自治体に政府への異論を煽る
 ☆木村氏は米軍基地問題で「木村理論」と呼ばれる解決案を提示す
 ☆安全保障は国全体の問題だから、自治体が意見をいうのはおかしいと考える人もいるかも?
 *米軍基地設置は、沖縄県や名護市の自治権制限になる
 *意見をいうのは当然だ
 ☆日本国憲法には、地方自治の尊重を定めている
 ☆自治体が憲法に依拠して中央政府に異議を申し立て、強硬な姿勢が改まった事例もある
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、『THEMIS12月号』


大学教授が教壇やマスコミで護憲から基地反対や住民投票まで促しているが
(『THEMIS12月号』記事より画像引用)

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時宗は、日本を蒙古から守るために生まれてきた男

2018年12月23日 | 歴史
鎌倉幕府~応仁の乱2

文永の役
 ☆中国大陸で、チンギス・ハーンに率いられたモンゴル民族が、近隣の諸民族を吸収していった
 *モンゴル高原にいた遊牧民の一部族が、突如として巨大な力を持った
 *モンゴル人は、遊牧民族の国を滅ぼし、宋も滅ぼし、ユーラシア大陸の多くを支配する大帝国を築いた
 *当時の世界人口の半数以上を統治する
 ☆大帝国は後にいくつかの国にわかれる
 ☆中国大陸を支配した元帝国の初代皇帝フビライ・ハーン
 *日本をも服属させようと考えた
 *高麗の使者を介して武力制圧をほのめかした国書を日本に送ってきた
 *朝廷は、蒙古からの国書にどう対応するかおろおろするばかりだった
 ☆北条時宗は、蒙古とは交渉しないという断固たる決定を下した
 *時宗は蒙古の胴喝に萎縮することはなかった
 *日本国を預かる執権として屈辱的な外交はできないという誇りを持っていた
 *時宗は、御家人たちに防御態勢を取れと命じて、蒙古軍の襲来に備える
 ☆フビライは、日本に軍隊を送り込んできた
 *蒙古・高麗軍はまず対馬・壱岐を襲い、多くの島民を虐殺した
 *蒙古・高麗軍の軍船は、2週間で引き上げた
 *日本軍による攻撃で多大の損害を蒙ったためとも考えられている
 *鎌倉武士の決死の戦いが蒙古軍を撤退させたのだ
 ☆蒙古軍の船は高麗に戻る途中、多くが沈み、無事に帰国できたの約1,7万人と伝えられる
 *現代では「台風説」は否定されている
 *蒙古軍は帰還中に大きな時化に巻き込まれた可能性が高い
弘安の役
 ☆鎌倉幕府は蒙古を撃退したが、次の備えとして博多湾沿岸の石塁建設をした
 ☆フビライは日本を服属させるために再び使節団を送ってきたが、時宗はその使者を斬首に処した
 ☆元は再度、日本侵攻のための軍隊を送り込んだ
 *艦隊はそれまでの世界史上最大の規模であった
 *兵士、水夫も約15万人にのぼり、「文永の役」の4倍にもなった
 *フビライが日本との戦いに総力を挙げた
 ☆鎌倉の武士団は一致団結して蒙古軍を迎え撃つ
 *元軍博多湾上陸を試みたが、鎌倉武士団の激しい抵抗にあい上陸を断念する
 *元軍志賀島を占拠して、ここを軍船の停泊地とする
 *日本軍は夜襲をかけて元軍を脅かす
 *日本軍は、壱岐に総攻撃をかけた激戦が数日続き、元軍壱岐から撤退した
 ☆蒙古軍は日本軍の再度の襲来に怯え、軍船同士を鎖で縛って砦のようにした
 ☆九州北部を台風が襲い、蒙古軍の軍船の多くが沈没あるいは損壊した
 ☆軍船の大半を失った蒙古軍の将軍たちは、鷹島に約10万人の兵卒を置き去りにして撤退した
 *残された蒙古軍は、日本軍の掃討戦に遭って、蒙古人と高麗人は皆殺しになった
 *鷹島から本国に逃げ帰ることができた元軍兵士はわずかに二人だという
蒙古軍を襲った台風は、後に「神風」と呼ばれる
 ☆「神国日本には神のご加護がある」という一種の信仰のようなものが生まれた
 ☆台風が来なかったとしても、蒙古軍が日本に勝てたかどうかは疑問である
 ☆蒙古軍は日本軍に苦戦しており、九州上陸が困難だった
 *日本には地の利があり、援軍を送ることも可能だった
 *蒙古軍の兵糧は、1月分を切っており、長期戦になれば持ちこたえられなかった
 ☆「神風信仰」は当時の朝廷によって広められた可能性がある
 *蒙古に勝てたのは武士団の戦いのお陰ではない
 *朝廷の祈祷によるものだとする方が朝廷の権威が高まるからだ
 ☆世界を征服したモンゴル人からの攻撃を二度までも打ち破った国は、日本とベトナムだけ
 *日本人として大いに胸を張ってもいいことだ
 ☆北条時宗は「弘安の役」の三年後、三十二歳の若さで世を去った
鎌倉幕府の衰退と悪党の台頭
 ☆蒙古と戦った鎌倉幕府の御家人は甚大な犠牲を払った
 ☆当主や息子を失った者もいれば、戦の費用を捻出するために、土地や屋敷を売った者もいた
 *日本が守られたのはそのお陰といえる
 ☆元との戦いは防衛戦であったため、日本側が得たもの(戦利品や領地)はなくい
 ☆幕府は御家人に十分な恩賞(土地や金)を与えることができなかつた
 ☆幕府は御家人に異国警固番役などを命じたため、御家人の暮らしぶりは一層悪化した
 ☆窮した御家人は商人から金を借り、その利子と返済に苦しむようになった
 ☆幕府は御家人を救うために、史上初の「徳政令」を出した
 ☆以降、商人は金を貸さなくなり、結果として御家人の窮乏が加速した
 ☆北条氏が権力を独占していたため、多くの武士の間に不満が蓄積していった
 ☆社会情勢から治安が乱れ、他人の土地や財産を奪う武士たちの集団「悪党」が生まれた
 *現代でも使われる「悪党」の語源である
 ☆悪党は、朝廷や寺社とも手を結び、荘園領主や幕府と対立する存在となっていく
鎌倉の文化
 ☆鎌倉時代には文化の面でも革命的ともいえる変化が起こった
 *優雅を重んじた平安の貴族文化から質実剛健な武士の文化へと変化した
 ☆文学は、『平家物語』『保元物語』『平治物語』などの軍記物語
 ☆随筆は、『徒然草』『方丈記』など「世の無常」を綴った傑作
 ☆彫刻は、運慶、快慶らが造立した『東大寺南大門金剛力士像』など
 ☆絵画は、『平治物語絵巻』や『蒙古襲来絵詞』など
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 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
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出典、『日本国紀』








時宗は、日本を蒙古から守るために生まれてきた男
(ネットより画像引用)



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安田純平を「人質ビジネ」に使った奴ら

2018年12月23日 | 犯罪
自作自演説もあるが安田氏は駒で身代金を山分けした日本人がいるとも

ジャーナリスト山村氏コメントする
 ☆国際テロ情報収集ユニットが動き解放されで、5~6億円の経費が掛かったとの情報もある
 ☆安田氏ひとりのために、今後、日本国家の外交的動きが制限されかねない
 ☆テレビ局や番組プロダクションのなかには、安田氏と契約を交わしているところもある
 *それらの先は「自己責任論」などは決して口にしない
 ☆「人質ビジネス」で味をしめたテロリストらは再び、日本人ジャーナリストを狙ってくる
「付度会見」でさらに疑問湧く
 ☆フリージャーナリストの安田純平氏が解放され帰国した
 ☆不自然なこと
 *前髪や髭は伸ばしているのに後ろ髪はさっばりと刈り込まれている
 *血色がよくやつれた感じがない
 ☆「ホントに人質だったのか?」と疑問の声が上がり自作自演説まで飛び交った
 ☆安田氏と親しいジャーナリストコメントする
 *テロリストを装った現地人が、自作自演の人質ビジネスに誘ってくることがある
 *まさかとは思うが、今回の事件安田氏脇が甘過ぎる
 *安田氏の監禁生活は、とても人質とは思えない好待遇だった
14年ぶり5回目の解放劇の裏
 ☆安田氏を拘束した組織は、政治目標を持っていない「人質ビジネス」の可能性が大きい
 ☆安田氏がテロ組織と共謀したという自作自演説は消えていない
 ☆ある公安関係者はコメントする
 *安田氏の妻の会話は、夫が生きて帰ってくることが分かっているような話しぶり
 *妻は、安田氏の身を案じる様子がなかった
 ☆安田氏は、03年から04年にかけて、イラク軍やイラク警察、武装農民に計4回、拘束されている
 ☆安田氏ツイートで、日本政府は『自己責任なのだから口や手を出すな』とと咬呵を切る
 *日本を「チキン国家」呼ばわりして、外務省が退避勧告したシリアに入国し拘束された
 ☆このような経緯があろうとも、日本政府は邦人を助ける義務を負わなければならないのだ
 ☆内閣官房関係者はコメントする
 *安田氏を救出するために動いた人員は1千人を超えている
 *カタールやトルコの情報機関関係者らも含めれば、数千人の対テロ組織が動員されている
 *わが国の対テロ体制はベールに包まれているが、ユニットだけでも100人体制の人員が割かれている
 *「身代金」などという以前に、人件費でも国民の税金が使われている
アルジャジーラを通し交渉した
 ☆身代金交渉は日本政府―カタール政府―同国アルジャジーラー武装組織の4者で進められた
 ☆拘束直後は3千万ドル(約34億円)という金額が提示されたとの情報もあった
 ☆政治目的というより、人質ビジネスであることは間違いない
 ☆内閣官房関係者はコメントする
 *今回の300万ドルは、官房機密費からは出していない
 *しかし、カタールやトルコの情報機関外交筋には多大な借りをつくってしまった
 *今後、ODAや石油取引など、関係国に日本政府が穴埋めしていかなければならない
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 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
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出典、『THEMIS12月号』


自作自演説もあるが安田氏は駒で身代金を山分けした日本人がいるとも
(『THEMIS12月号』記事より画像引用)



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『一所懸命』が語源『一生懸命』

2018年12月22日 | 歴史
鎌倉政権1

鎌倉政権誕生
 ☆平氏滅亡の最大の功労者は源義経
 *源氏の棟梁である頼朝はこれを快く思わなかった
 ☆義経が頼朝の許可を得ずに、後白河法皇から位を得た
 ☆法皇の信頼と武士たちの信望を得た義経の謀反を恐れ、頼朝は討伐を決意する
 ☆義経は鎌倉の軍勢に追われ、東北へ逃げ奥州藤原氏に匿われる
 ☆藤原当主の秀衡は、義経を引き渡せという頼朝の命令を拒絶する
 *義経を将軍に立てて鎌倉と一戦交えようと考えた
 ☆秀衡は病没し、息子の泰衡は、頼朝の追討要請に従って義経を殺す
 ☆頼朝は、義経を匿ってきた罪で、奥州藤原氏を滅亡させる
 *頼朝は権力を確固たるものにした
 ☆頼朝の死後、二代将軍の息子の頼家は暗殺され、弟の実朝が三代将軍となる
 *実朝は、頼家の息子の公暁に殺される
 *公暁は執権の北条氏によって討ち取られる
 ☆頼朝の死後20年で頼朝の血筋は絶える
 ☆鎌倉幕府の実権を握ったのは北条氏
承久の乱
 ☆後鳥羽上皇は、頼朝の血筋が絶えたことで、鎌倉幕府の北条義時追討の院宣を発す
 ☆鎌倉政権に不満を持つ武士や僧兵などが挙兵した
 ☆鎌倉幕府は朝廷側の命令に動揺したが、上皇側と戦う決意をする
 ☆鎌倉で上皇の軍勢を迎え撃とうという当初の計画を取りやめて、京都へ攻め上った
 ☆後鳥羽上皇に味方する武士は予想よりも少なく、戦いは鎌倉側の圧勝に終わった
 ☆幕府の処分
 *後鳥羽上皇、同徹上皇、土御門上皇を、隠岐、佐渡、土佐に流した
 *上皇の近臣の貴族や武士たちを処刑し、その所領(土地)を没収した
 ☆鎌倉幕府は、承久の変後、実質的に全国を支配し、完全な鎌倉幕府の時代に入った
 ☆「御成敗式目」が定められ、武士が政権を管理するための法典ができた
 *時代は貴族社会から、武家社会へと大きく変化する
「一所懸命」と「いざ鎌倉」
 ☆鎌倉幕府は全国に御家人を置き、所領を与えた
 ☆御家人はその土地を大切に守りつつ、鎌倉幕府に忠誠を誓った
 ☆現在「一生懸命」と書かれるが、本来は「一所懸命」であった
 *自分の土地は耕し、命を懸けても守り抜くこと
 ☆御家人たちはその土地の名前を苗字として名乗ることも多かった
 *足利尊氏や新田義貞の苗字も地名を取ったもの
 ☆御家人たちは、もし鎌倉幕府に危機が迫れば、鎌倉に馳せ参じる覚悟があった
 *現在も「いざ鎌倉」という言葉として残っている
商業の発達
 ☆鎌倉時代には、貨幣経済が一層進展した
 *鎌倉幕府以前は、米や布が貨幣の代わりに用いられていた
 *鎌倉時代より、様々な物品が貨幣で売買されるようになる
 ☆政治体制が大きく変わったことにより、社会全体に変革が為された
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、『日本国紀』






『一所懸命』が語源『一生懸命』(ネットより画像引用)




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創価学会「たった3人の反乱」で大混乱

2018年12月22日 | 宗教
ポスト池田体制へ向けて邁進するが池田大作氏の私党=公明党の迷走は続く

 ☆憲法改正や外国人労働者の問題で公明党は議員は、足並みがバラバラ
 ☆新幹事長斉藤氏は、改憲について安倍政権にストツプをかける
 ☆消費税10%引き上げ問題
 *「プレミア商品券」導入などのばら撒きを打ち出す
 ☆たった3人の反乱で、創価学会=公明党はさらなる大混乱に陥った

『人間革命』がテレビで初放映
 ☆創価学会は、88回目の創立記念日を迎えたが、池田名誉会長は姿を見せなかった
 ☆池田氏の求心力は日増しに低下しつつある
 ☆原田会長を中心とする創価学会執行部は、会則変更や会憲制定をした
 *「池田後に備えた新体制づくり」で創価学会の実権を完全掌握した
 ☆池田氏がトップを務める創価学会インタナショナル(SGI)
 *創価学会の下部組織に位置づけた
 ☆創価学元幹部はコメントする
 *池田氏が倒れてから、原田会長は自公連立体制強化に邁進してきた
 *今回『人間革命』がテレビで初めて放映された
「創価を憂える同志」も増えて
 ☆ポスト池田への準備を着々と進め、順調に推移している創価学会
 ☆頭の痛い問題が浮上
 *創価学会から除名された元専従職員3人を中心とした「創価を憂える同志」の会が広がり
 *3人は30代後半で、2人は、創価大卒業してすぐに学会の専従職員となった
 ☆敵に回ると創価学会はこれでもかとばかりにかつてのシンパを叩きまくる
 ☆元職員3人以外でも、他の除名者らと連携した元職員以外のネットワークが広がっている
反学会勢力潰しに党から費用
 ☆創価学会元専従職員コメントする
 *池田氏が亡くなれば、次々とこういう元シンパたちが反乱を起こすだろう
 *彼らは学会施設の違法な使われ方や金の流れに精通している
 *極秘文書の種類によっては、創価学会に決定的な打撃を与えるものが出るかもしれない
 ☆公安関係者が指摘する
 *反勢力を潰すため、創価学会はお抱えの調査会社やコンサルタント会社を持っている
 *そんな学会関連会社に公明党が多額の調査・研究費を出している
 ☆公明党からの”原資”は政党助成金であり、私たちの税金である
 ☆国税庁はこうした実態に対してメスを入れるべきだ
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
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出典、『THEMIS12月号』


ポスト池田体制へ向けて邁進するが池田大作氏の私党=公明党の迷走は続く
(『THEMIS12月号』記事より画像引用)






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保元の乱から朝廷の権限明治時代まで失墜

2018年12月21日 | 歴史
平安時代5

院政の時代
 ☆律令制度では譲位した天皇は上皇になり、天皇と同等の権力を有した
 ☆「院政」白河上皇はそれを利用し政治の実権を握った
 ☆貴族たちも上皇についたり天皇についたりする朝廷は権謀術数の場となる
 *「保元の乱」で皇室は逆に権力を失う
保元の乱
 ☆崇徳上皇と後白河天皇(崇徳上皇の甥・弟)の争い
 ☆崇徳上皇は、白河法皇が孫の妻と不倫して生まれた子
 ☆崇徳上皇の動きを察知した後白河天皇
 *武士の源義朝と平清盛を味方につけた
 *敵味方に分かれた源為義と源義朝は親子
 *平忠正と平清盛は叔父と甥の関係
 *崇徳上皇と後白河天皇は兄弟
 ☆この争いは兄弟、親子による骨肉の争いだった
 ☆白河天皇側が夜襲をかけ、崇徳上皇側は一夜にして壊滅
 *藤原頼長は逃げる途中に自害
 *讃岐に流された崇徳上皇は反省を込めて仏教の経典を書き写して都に送る
 *朝廷はこれを受け取らず、怒りに震えた崇徳上皇は自ら舌を噛む
 *崇徳上皇は、怨霊となって、皇室をつぶすと宣言した
 ☆崇徳上皇は、白河上皇による不倫の末に生まれた悲劇の天皇であった
保元の乱の歴史的意味
 ☆地方の武士団が中央の権力争いに顔を出した
 ☆平氏と源氏の力は一挙に膨れ上がる
 ☆「平治の乱」で、朝廷は力を失っていく
 ☆保元の乱こそ、日本史の大きなターニングポイントの一つ
 *もととなったのが白河上皇の不倫
 ☆武家出身の平清盛が天皇や皇族に取って代わって政治の実権を握る
 ☆政権は源氏から鎌倉幕府、室町幕府へと移っていく
 *「民」が「皇」となった
 ☆天皇が政治の実権を回復するのは明治維新
平治の乱
 ☆源義朝は、平清盛が自分よりも重用されたことを恨みに思っていた
 ☆藤原信頼と源義朝は、お互いに組んで謀反を起こす
 ☆それを知った平清盛は、後白河上皇と二条天皇を救い出す
 *兵を挙げ信頼と義朝を攻め、二人を死に追いやつた
 *「平治の乱」
 ☆平清盛は義朝の子供の頼朝を殺そうとした
 *清盛の継母が愛らし頼朝を見て亡くした息子を思い出し、清盛に助命嘆願する
 *清盛は仕方なくそれを受け入れ、頼朝を伊豆に流す
 ☆清盛は頼朝の異母弟である義経も殺そうとする
 *その母を自分の妾にすることで、義経の命を助け、鞍馬寺に預けた。
 ☆後に平氏は源頼朝の命を受けた源義経に滅ぼされることになる
平氏の栄光
 ☆後白河上皇を助けた平清盛は、出世街道をひた走る
 ☆武力を背景にのしあがり、ついに最高位の大政大臣に就く
 ☆貴族たちしかなれなかった太政大臣に武士の清盛が就いたのは異例中の異例
 ☆そしてついに自分の娘(徳子)を高倉天皇の皇后にすることに成功する
 ☆徳子は皇太子を産み、清盛は未来の天皇の祖父となる
 ☆清盛は大軍を擁して後白河法皇を幽閉して、政治の世界から退くように迫った
 *「治承三年の政変」
 ☆長らく続いた院政時代は実質的に終わりを告げた
 ☆清盛は十八歳の高倉天皇を退位させ、自分の孫の安徳天皇(当時一歳)に譲位させた
 *すべての権力は清盛が握った
 ☆清盛は宋と貿易を行ない、富を築いた
 ☆平氏の一族はことごとく高位高官に就き、知行国25ケ国、国守29ケ国
 ☆平氏は、権力と財力のすべてを掌握した
 ☆「平氏にあらざれば人にあらず」といわれるほどになった
平氏の没落
 ☆武家として初めて権力を握った平氏
 ☆手法はそれまでの貴族政権を踏襲したものにすぎなかった
 ☆平氏にやがて全国の武士たちが反発する
 ☆筆頭となったのは源氏
 *源氏の嫡男である頼朝が挙兵し源氏と平氏の戦いが起こった
 *清盛の死後、頼朝の従兄弟にあたる源(木曽)義仲が平氏を攻める
 *京都を支配した義仲は洛中で乱暴狼藉を働く
 ☆後白河法皇は頼朝に義仲追討を命じ、頼朝は弟の義経に義仲を討たせた
 ☆次に後白河法皇は義経に平氏追討を命じる
 *軍事の天才だった義経は、 一ノ谷の戦いや屋島の戦いで、平氏に圧勝
 *壇ノ浦の戦いで、ついに平氏を滅亡させた
 ☆壇ノ浦の戦いの後、平氏の栄光と没落を描いた『平家物語』が生まれた
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、『日本国紀』






保元の乱から朝廷の権限失墜(ネットより画像引用)

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鰐関節症、アルコール依存症

2018年12月21日 | 医療
鰐関節症(鰐の猛烈な痛みで口が開けない

緊張やストレスに敏感に反応する若者の顎
 ☆人間は緊張したり困ったことに出あうと顔がこわばったり、奥歯をかみしめたりする
 *非常に恐ろしい目にあえば、奥歯がガタガタしたりする
 ☆ストレス状態がずっと続くと、顎を動かす筋肉は緊張の連続
 *鰐が本来のスムーズな動きができなくなる
 ☆顎関節症は最近、十代の後半から二十代前半の若者に増加している
 ☆顎の関節の異常が原因で起こるこの病気の原因
 ①顎や噛み合わせが気になって筋肉が緊張し、関節雑音や痛みのために心身症的な症状を合併する
 ②顎の関節が何かの拍子に捻挫を起こす
 ③顎の関節円板の位置がずれて、クッション役をはたさなくなる
 ④関節円板や顎の骨がすり減って変形し、滑りが悪くなる
 ☆最近とくに増加傾向なのが①のストレス性のもの
食物を噛むと音がしたり、痛くて口が開かなくなる
 ☆この病気の患者は、女性が男性の3倍も多い
 ☆顎関節症の初期症状
 *ものを食べようとすと異音がする
 *そのうち音が大きくなり、噛むびに音を立てる
 *やがて顎がひつかかるような感じになり、痛みだす
 ☆進行すると食物が食べられないほど痛み、口を動かすたびに激痛が走る
 ☆治療法
 *精神安定剤の服用と、顎の治療を並行して行なわう
 *顎のずれを治すには、顔に傷を残さない手術法もある

アルコール依存症

家庭の主婦にアル中が急増中なのはなぜ?
 ☆家庭や社会で起こるストレスから逃れるために酒を繰り返して飲み、アルコール中毒になる
 ☆やがては、心身に異常をきたす
 ☆男性の場合は、習慣的な飲酒からアルコール中毒に移行するのに、ほぼ十年はかかるといわれる
 ☆女性の場合はその三分の一程度の短い期間にアル中になるといわれる
 ☆男性は人といっしょに酒を飲む社会的飲酒の期間が長い
 *その後一人で酒に浸る個人的飲酒へと移行する、
 ☆女性の場合は、はじめから酔ってストレスを晴らす「一人酒」になることが多い
 ☆このことが、移行期間の男女差に現われている
治療法
 ☆禁酒以外にはない
 ☆基本的な禁酒の治療と同時に過剰なストレスや葛藤を晴らすことも必要
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
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私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
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出典、『病気のメカニズムがわかる事典』


鰐関節症、アルコール依存症(『病気のメカニズムがわかる事典』記事より画像引用)





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片山さつき・全省庁に嫌われた女の今後

2018年12月21日 | 政治家
首相へ熱烈アピールで初入閣を果たし野党の猛攻撃にもどこ吹く風と

 ☆片山氏いちど掴んだ大臣の地位はそう簡単に手放すわけにはいかない
 ☆彼女は政治家としての成果はほとんどなく、今回も国民にダーティなイメージを振りまいただけ
 ☆このままでは政治家としての大成はない

朝日新聞の入閣内定に官僚慌てる
 ☆片山氏は、内閣改造後、安倍政権の”問題閣僚”として野党に厳しく追及されている
 ☆片山さつき地方創生担当相
 *国税庁への口利き疑惑にはじまる合計700万円の献金
 *選挙資金の虚実記載問題、政治献金を使った自著の買い取り、
 *カレンダー無償配布問題とまさに疑惑のオンパレード
 ☆言い間違い連発の桜田五輪担当相が可愛く見えるほど
 ☆内閣改造前の時点で片山氏が入閣する可能性はほとんどなかった
 ☆唯一の女性閣僚として初入閣を果たした背景
 *所属する二階派の後押しと「異常なまでの押しの強さ」があったという
 ☆片山氏の失脚を誰よりも望んでいるのは、彼女の古巣霞が関の官僚たち(かつての同僚&仲間)
 ☆内閣改造直前、朝日新間が「片山氏が厚労相内定」と誤報を出す
 *厚労官僚たちは慌てふためいた
 ☆財務省キャリア官僚時代の片山氏は「パワハラ番付」の常連
 *退官して政治家になった後も悪名高い
 *各省庁の官僚は、「うちの大臣だけは勘弁してほしい」と戦々恐々だった
党大会では必ず総裁の後ろに
 ☆片山氏は、若い頃から目立ちたがり屋で有名
 *トップクラスの成績で入学した東大在学中は「ミス東大」「東大の山口百恵」などともてはやされた
 ☆旧大蔵省へ入省後も、女性初の主計官になるなどマスコミの注目を集める
 ☆部下への強権ぶりでもその名をとどろかせる
 *省内の「恐竜番付」と呼ばれるパワハラ上司ランキングの上位に名前が挙げられる
 ☆その一方で、選挙には苦労した
女性閣僚なら誰でもよかった
 ☆片山氏が周囲の反感を買う最大の理由は、並外れたプライドの高さだろう
 *自民党の女性議員が親し気に声をかけてきても、「私に話しかけるのは10年早い」とマウントをとる
 *官僚や新聞記者には「模試で全国トップだった」と昔の自慢話を繰り広げる
 ☆片山氏が今回、入閣できたのは、適齢期の女性政治家がいないから
 *以前は小渕優子氏や稲田朋美氏らがいたが、不祥事などで自滅した
 ☆”女性活躍”を掲げる安倍政権『誰でもいいから女性閣僚を登用する』必要があった
 *仕方なく、彼女に自羽の矢が立った
 ☆彼女は首相への売り込み、派閥のトップ二階氏に対してもしつこく口添えを頼み込んだ
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、『THEMIS12月号』


首相へ熱烈アピールで初入閣を果たし野党の猛攻撃にもどこ吹く風と
(『THEMIS12月号』記事より画像引用)


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「死刑」制度を廃止した平安時代(平和ボケ)

2018年12月20日 | 歴史
平安時代3

武士の反乱
 ☆都で藤原氏が我が世の春を謳歌、地方では政治が乱れていた
 *地方役人に、力を持った武士団を抑えることができない
 ☆象徴的な出来事は、「平将門の乱」
 *平将門は、一族の内紛から伯父を殺し、国府を攻め、関東の大半を支配した
 *自ら新皇と称し関東に独立国を建てようとした
 ☆藤原純友の乱(朝廷に反旗を翻した)
 *伊予に役人として赴任、その後海賊の首領となった藤原純友
 ☆将門も純友も統制の取れた軍勢ではなかった
 *朝廷の遣わした武士団に鎮圧された
摂関時代の弊害
 ☆藤原氏は、兄弟同士で戦いに明け暮れていた
 *争いとは、自分の娘を天皇や皇太子に嫁がせ摂政や関白になる事
 *嫁がせた一族の家が、幼い天皇に代わって政治を行なった
 ☆摂政や関白は藤原一族以外からは出なくなっていた
 ☆藤原氏は政治を意のままに動かす
 *自らの持つ荘園の税も朝廷に納めなくなった
 *他の貴族は自分の土地を藤原氏に寄進して、その恩恵に与ろうとした
 *藤原氏は広大な土地を所有する
 ☆朝廷は政府としての機能を果たせない状況でした
「刀伊の入寇」事件
 ☆満洲に住んでいた刀伊が、対馬、壱岐、北九州を襲い、女性や農作物を奪った
 ☆朝廷の行動は常軌を逸したもの
 *武力を用いず、夷狭調伏の祈薦をする
 *政府は、無力になっていた
 ☆刀伊を撃退したのは、大宰府の次官藤原隆家だった
 *隆家は藤原道長の甥
 *道長との折り合いが悪く、若い頃に左遷され出世はしなかった
武士の台頭
 ☆関東で平忠常が乱を起こした(平将門の乱から約九十年後)
 *朝廷は、源氏の源頼信に命じて忠常の乱を鎮圧させる
 *これにより平氏は関東での勢力を失うこととなる
 ☆「前九年合戦」「後三年合戦」
 *東北で、蝦夷の残党が内乱を起こした
 *源氏の武士団によって鎮圧された
 *朝廷は豪族間の私闘と見倣し、恩賞を与えなかった
 *源義家が私財をはたいて家臣たちに恩賞を与えるた
 *東国の武士たちは義家に心酔した
 ☆後の武士独特の忠誠心につながる強い結びつきができる
戦を嫌う平安貴族たち
 ☆朝廷は治安を維持する警察機構のようなものを持たず
 *戦は武士たちに任せきり
 ☆雅を愛する平安貴族たち
 *「戦」を「穢れ」として忌み嫌う
 *貴族は、同じ理由で、自らが手を汚す「死刑」制度も廃止した
 *死刑制度がないには、世界史的に見ても稀有なこと
 ☆死刑制度の廃止 
 *命や人権を重んじてなされたことではない
 *天皇や太政官たちは自分たちが、死刑を宣告する「身が穢れる」と考えたの
 *死刑に処された者が怨霊となって祟ることを恐れた
平安時代末期は警察機構がほとんど機能しない
 ☆経済も立ち行かず、都の通りに餓死者の死体が転がっていた
 ☆朝廷は世の中の嫌な事件や現実には目を瞑る
 *優雅な生活と文化を愛し、権力争いに明け暮れていた
 ☆飛鳥時代の政府(朝廷)は、常に外国からの侵略に備えていた
 *防人制度を作ったり大宰府に水城を築いたりした
 ☆三百年も平和が続くと、朝廷も完全な平和ボケに陥る
 *国を守るという考えが希薄になり、現実的な判断力をも失っていた
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
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 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
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出典、『日本国紀』








「死刑」制度を廃止した平安時代(平和ボケ)(ネットより画像引用)

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うつ病&円形脱毛症

2018年12月20日 | 医療
初老性うつ病(交通事故のより多いうつ病の自殺者)

働き盛りの中高年の男性に多いうつ病
 ☆自殺者の割合は交通事故による死亡者よりも多い
 *中高年の自殺が多くなっている
 ☆初老性のうつ症状は四十代の働き盛りから多発
 *人と会うのが億劫、何もする気がしない、理由もなく不眠の状態が続くなど
 ☆うつ症状が重症になると、自殺をする気力もなくなる
 ☆一般的にうつ症状は女性に多いが、中高年では男性に多い
うつ病の治療
 ☆うつ病は躁鬱病と違い、心を開けば治療できる
 ☆うつ病になるような人は、なかなか自分のことを話したがらない
 ☆ストレスの原因の一つに、腹をわつて話せる友人がいないこと
 ☆うつ症状を重症にしないため
 *ストレスのある環境から離れることが一番
 ☆重症になる前に専門医に相談する
 *信頼のおける人に心の内を聞いてもらうこと
 ☆うつ症状は精神障害の「躁鬱病」とは違うので、心を開くことが大切だ
真面目で責任感が強い人は”我慢慣れ”し、うつ状態になりやすい
 ☆初老期のうつ病になりやすい人には、執着心が強いという特徴がみられる
 ☆責任感が強く、完璧主義で几帳面といった性格は、社会的には評価が高い
 *反面、本人は不安感や焦燥感にさいなまれている
 *心理的な不調のうえに、食欲不振、睡眠障害、とくに早朝に目がさめてしまう
 ☆真面日でがんばり屋の性格の人は我慢する
 *病気の発見が遅れることも少なくない

円形脱毛症(受験期の子どももかかる円型のハゲ)
 ☆性別、年齢に関係なく、直径2~3㎝ほどの円形、楕円形に毛が抜ける
 ☆明確な原因はわからず
 ☆ストレス、アレルギー、自己免疫疾患、自律神経障害、内分泌障害などが原因
 ☆なかでもストレスとの関係が深いとみられている
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、『病気のメカニズムがわかる事典』




うつ病&円形脱毛症(『病気のメカニズムがわかる事典』記事より画像引用)



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政界の内幕(菅、茂木、小渕、小泉氏)

2018年12月20日 | 政治家
政界の内幕

リベートや女性問題も暴かれ菅官房長官「懐刀」が突如退任
 ☆さまざまな憶測
 *空港の委託選定業者からリベートを受け取っていた
 *フランス出張で飲食接待を受けていた
 *出張先で女性との密会や過去のセクハラ騒動まで暴露された
 ☆福田氏の背後に竹中平蔵氏がいるとの噂もある
 ☆早めに彼のクビを切ったのかも
若手記者の小者扱いに茂木経済再生相キレる
 ☆TPP11を日本のリーダーとしてまとめ上げた茂木経済再生担当相
 ☆若手の総理番にキレたことが話題になった
 ☆茂木氏が首相レクのため官邸を訪れた
 *総理番の記者から「後ろにいる官僚は誰ですか?」と聞かれた
 *総理番は、政財界の大物には細心の注意を払う
 *首相と重要な政策決定について話し合ったか聞きだす任務がある
 ☆気安く話しかけられプライドが傷ついた茂木氏
 *「そんなことを俺に聞くなッ!」と怒鳴る
小渕優子氏「表舞台へ復帰」安倍首相の怒りは収まらない
 ☆内閣改造・党役員人事で本格的な復権を狙っている
 ☆首相は、経産相を辞任した際、議員辞職を守ってやったのに恩を仇で返した
 *本当に政局感がないと周囲に憤りを隠さない
 ☆小渕氏が本格的に復権するのは、首相が任期切れを迎える3年後か
小泉進次郎氏に「逆風」
 ☆最近の進次郎は目立つことばかり考えている
 *小泉氏に逆風が吹いている
 *メディアに勝手に情報を流し自分の意見を通そうとすると党内では総スカン
 ☆衆院改革の超党派議連『半成のうちに』
 *改革案を、高市氏が「私も国会改革の私案を準備している」
 *メディアを入れずに話し合いましょうと伝えた
 *小泉氏が、勝手にオール公開にしてしまった
 ☆彼に甘い政治部記者
 *「メディアにも二重に情報を流して反応を見るなど信用できない」と怒った
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私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
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出典、『THEMIS12月号』




政界の内幕(菅、茂木、小渕、小泉氏)
(『THEMIS12月号』記事より画像引用)

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死者が「怨霊」で崇る日本人特有の考え

2018年12月19日 | 歴史
平安時代2

武士の誕生
 ☆土地制度の崩壊とともに、貴族や僧侶による土地の私有化が始まる
 *富裕な貴族や有力な寺が取得した土地は荘園と呼ばれた
 *当時土地の正確な地籍図もなく、土地をめぐる争いは日常茶飯事
 ☆貴族たちは荘園を守るために用心棒のような男たちを雇った
 *彼らは戦いに備えて武装していた
 ☆寺では下級僧侶たちが僧兵として自らを武装していた
 ☆国司として派遣された下級貴族の一部も土地を私物化した
 *それを守るために自ら武装集団化した
 *彼らは、戦闘の専門家となり、家業として受け継がれていく
 *武士と呼ばれる存在となる
 ☆地方に有力な武士が誕生した
 *棟梁と呼ばれる者を頂点とする一族を形成するようになる
 ☆関東を中心として勢力を広げた平氏
 *平氏は、桓武天皇の流れを汲む皇族出身
 ☆摂津を河内を中心に勢力を広げた源氏
 *源氏は、清和天皇の流れを汲む皇族出身
 ☆家格の高さから武士たちの尊敬を集め大きな勢力となる
藤原氏の台頭
 ☆財力を持った貴族が増え、藤原氏の財力はずば抜けていた
 *藤原氏は飛鳥時代の中臣鎌足が始祖
 *鎌足は「乙巳の変」で活躍したことで出世し藤原姓を与えられた
 *藤原氏は、鎌足の子不比等の時代に大きな権力を得た
 ☆藤原氏(北家)は平安時代の中期から、 一族の娘を次々と天皇に嫁がせる
 *天皇の外戚として力を振るう
 *藤原氏の当主は摂政や関白として天皇の代わりに政治を執り行なった
 ☆菅原道真も藤原氏の策略により、九州の大宰府に流された
 ☆藤原氏が最も権勢を振るったのは道長の時代
 *ライバルを次々に失脚させ天下を意のままにした
 ☆藤原道長家に、次々と不幸に見舞われる
 *本人が身体の不調をきたす
 *息子が死に、三人の娘もすべて死ぬ
 ☆藤原道長は、自分が政争で追い落とした者たちの崇りでと恐れた
「崇り」について
 ☆古の日本人は、非業の死を遂げた人は怨霊となって世の中や人に祟ると恐れた
 *疫病が流行ったり、天災が続いたりすると崇りのせいだと考えた
 *怨霊を鎮めるための祭りを行なったり、神社を作ったりした
 ☆怨霊を恐れる思想は、日本人の心の底に根強く残っていて、幕末の頃まで続いていた
 ☆明治維新以後、西洋風の合理主義が入り込んだ
 *現代人は「崇り」や「怨霊」を非科学的なものとして排除するようになった
 ☆明治維新まで、人々の行ないは「祟り」や「怨霊」を恐れたゆえのものであったことが少なくない
平安時代の人々が恐れおののいた「菅原道真の崇り」
 ☆醍醐天皇により、大宰府に流された道真は、2年後に大宰府で亡くなる
 ☆「祟り」は、道真に死後に起きる
 *道真を追い落とした藤原氏の主だった男たちが次々と急死
 *その子供たちも次々と亡くなっていく
 *道真を左遷に追いやった首謀者の藤原時平は、崇りに怯えながら狂い死
 *皇太子までもが亡くなる
 ☆醍醐天皇は道真の怨霊を恐れた
 *道真の左遷を取り消して名誉を回復させたが崇りは収まらなかった
 *醍醐天皇は、朱雀天皇に譲位するが、その7日後に醍醐天皇は崩御する
 ☆朝廷は道真の怨霊を鎮めるために北野天満宮を作る
 *道真の霊を祀って、ようやく祟りは収まった
 ☆その後も、人々は不遇の死を遂げた人物の崇りを恐れた
 *彼らの怨霊を鎮めるために神社を作って、御霊を祀った
 ☆死者が崇るというこの考え方は日本人特有である
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私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
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出典、『日本国紀』








死者が「怨霊」で崇る日本人特有の考え
(ネットより画像引用)



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不安神経症&過敏性大腸症候群

2018年12月19日 | 医療
不安神経症(ストレスが引き金)

真面目だが気分転換が下手な人がターゲット
 ☆有能でやり手、出世街道をまっしぐらの中に気分転換が下手という人も多い
 ☆このような人が不安神経症のターゲット
 ☆不安神経症特徴
 *理由もなく不安感に襲われ、心臓がドキドキして息苦しくなっるなど、過呼吸が特徴
 *発作型(死を予感させるほどの強い発作に襲われる)
 *非発作型(漠然とした不安やイヤな気分のために動悸が続く)
 ☆不安神経症は、各種の神経症の中で多く発症している
 *男性では20~40代
 *女性では20~30代に多い
過剰なストレスや慢性疲労が発作の引き金になる
 ☆不安神経症の発作は、何の前ぶれもなく、何の原因もなく突然起こることが多い
 ☆発作時の症状は、急に心臓がドキドキしはじめたり、呼吸が早くなり息苦しくなる
 ☆なぜ突然に発作が起きるのか原因は解明されていない
 *過重なストレスが蓄積したり、慢性疲労に陥っている場合に起こりやすい
 ☆体に異常はないとはいえ、本人は死を予感するほどに苦しんでいる
 ☆家族や周囲の者が協力体制をとらないとこの病気から抜け出しにくい

過敏性大腸症候群(ストレスが引き金)

ストレスは確実に体の弱点を狙う
 ☆胃に問題があれば胃潰瘍に、腸が弱い人なら過敏性大腸症候群に
 ☆企業のトップにはストレス性の消化性潰瘍患者は意外に少ない
 ☆若い社員や中間管理職の人がストレス性の胃腸の病気などにかかりやすい
心の動きが自律神経を狂わせ、腸の働きを過敏にする
 ☆ストレスにもさまざまな種類がある
 ☆自律神経系に乱れが生じると、腸の運動、分泌、吸収の機能が乱れて便通異常が起きる
 *腹痛や下痢、下痢と便秘が交互に起こるなどの症状が現われる
 ☆過敏性大腸症候群の発症
 *仕事や対人関係からくる悩みから
 *急激な環境の変化、受験への圧迫感、家庭内のトラブルなど
 *過労、睡眠不足、かぜなどの身体的な不調がきっかけ
 ☆特効薬や即効性のある治療法がない
 *症状の改善には時間がかかる
 *ストレスを上手に発散すること
 *消化、吸収のよい食事を規則的にとる
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出典、『病気のメカニズムがわかる事典』


不安神経症&過敏性大腸症候群
(『病気のメカニズムがわかる事典』記事より画像引用)



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宮内庁「小和田氏への招待状」に悩む事情

2018年12月19日 | 皇室
小和田氏天皇陛下主催の食事会を無断欠席の前例がある

 ☆お祝いモードに包まれた皇太子ご夫妻
 ☆親族を巡って、船出は波乱含みである

雅子さまもお心を痛められて
 ☆来年の5月1日に皇太子徳仁殿下が天皇に即位される
 *政府はその日を「即位の日」としてゴルデンウィークは十連休になる
 ☆明治以降、年号が変わるときは、前天皇の崩御を受けて新天皇即位
 *お祝いムードだけということではなかった
 ☆今回は、天皇崩御という哀しみがないのでお祝いの色を出しやすい
 ☆宮内庁は、お祝いムードの中で頭を抱えている(皇室ジャーナリスト談)
 *皇太子殿下が雅子さまとご結婚された翌年の正月、親族のみの新年の食事会がされた
 *通常招待状と返信用のはがきを同封して送り賛否を確認
 *小和田さんの場合は、返信用のはがきも出さなかった
 *陛下の招待状を無視するのはさすがに初めてのことだったようた
 *当日はご夫妻の分も料理を用意し、お席も準備しておいた
 *席は空席のままで食事会の雰囲気が白け切ってしまった
 ☆さまざまな会合に、小和田氏だけが参加しない
戦争責任の話をされては困る
 ☆小和田氏は、国連大使時代から「天皇の戦争責任と謝罪」にこだわっていた
 ☆今回の招待各は約2千6百人の予定だ
 ☆新天皇の即位式典やその後の饗宴の儀
 *小和田氏を招待するのか、宮内庁職員は頭を抱えている
 ☆今まで通り無視してくれるのが最も良い
 *晩餐会などで、他の皇族や旧皇族などから今までの非礼を追及される
 *新皇后が心を痛めるだろうし、戦争責任の話をされては困る
中国も小和田氏の発言を注視
 ☆新天皇即位の後、最初の訪問を受けるのは中国の習近平主席
 ☆中国はこれまで、小和田氏の発言を注視
 *新天皇の中国訪問の約束を引き出そうと画策する
 *小和田氏の影響があるといわれる新天皇の発言
皇太子さまと雅子さまとのご結婚
 ☆雅子さまの母方の祖父が公害企業チッソの社長、会長だった
 *縁談は一時、消えた恰好になったが、皇太子さまは諦めていなかった
 ☆小和田氏に大きな影響力を行使できる外務省の先輩、柳谷氏が動いた
 *柳谷氏が小和田氏を説得するのに数か月かかった
 *雅子さまが柳谷氏の自宅を訪れ、皇太子さまと話し合われ結婚に繋がった
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出典、『THEMIS12月号』


小和田氏天皇陛下主催の食事会を無断欠席の前例がある
(『THEMIS12月号』記事より画像引用)


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日本が韓国にハングル文字を普及させた?

2018年12月18日 | 歴史
平安時代(1)

 ☆征夷大将軍とは朝廷の官職(「蝦夷を征服する将軍」の意味)
 *後に、武家政権の首長を示す称号となっていく
 ☆「幕府」とは、征夷大将軍が天皇に代わって軍の指揮を執る陣地をいう

平安京に遷都した桓武天皇、大胆な政治改革を実施
 *農民に課していた労役義務を半分にし、兵役の義務を廃止した(九州と東北は除く)
 *郡司(有力豪族)の子弟による新しい軍隊を創設(健児制)
 ☆地方政治の乱れを監視するために、勘解由使(かげゆし)を置く
 *国司の不正を取り締まった
 ☆最澄と空海が唐に渡り、仏教の新たな宗派を日本に持ち帰った
 *宗派は貴族の間にも広まったが、大衆化されたものではなかった
 *僧たちも、世の中の平安を祈るよりも、加持祈祷の現世利益に重きを置く
 ☆東北地方は、蝦夷と呼ばれる人々が支配し、朝廷の力が及ばなかった
 *征夷大将軍の坂上田村麻呂が蝦夷のアテルイを降伏させた
 *東北地方一帯を支配し、朝廷はほぼ日本全国を統治下に置いた
成熟の時代へ(国風文化の開花)
 ☆東北を支配下に置いてから百年ほどは日本史に大きな事件は起こっていない
 ☆日本が誕生から成長にかけての波瀾に富んだ時代を終え、成熟の時を迎えた
 *頻繁に行なわれていた遷都も、平安京に移してからはぴたりとやんだ
 *明治維新まで千年以上遷都されなかった(除く南北朝時代)
 ☆平安時代の大きな出来事は、遣唐使の廃止
 *遣隋使が送られて以来、日本はずっと中国の文化や制度を取り入れてきた
 *平安時代には、日本も優れた文化国家となる
 *危険を冒してまで遣唐使を送る必要がなくなっていた
 ☆遣唐使の廃止は、日本が中国の文化を必要としないという自信の表われであった
 ☆遣唐使が廃止されて以降、真に日本らしい傑出した文化が花開く
 ☆一番は仮名文字の発明
 *平仮名の発明は日本語での表現力を飛躍的に発展させた
 *『枕草子』『源氏物語』『蜻蛉(かげろう)日記』『更級日記』などの名作がでる
小中華を自負する朝鮮
 ☆朝鮮が、平仮名にあたる「ハングル」を持ったのは16世紀である
 *当時の学者たちから嫌われ、ほとんど普及しなかった
 ☆ハングルを普及させたのは、二十世紀に大韓帝国を併合した日本である
 ☆戦後、韓国はナショナリズムが昂じ、固有名詞以外では漢字を使わなくなる
 ☆日本語でいえば、すべて平仮名だけで書かれた文章
コラム『源氏物語』
 ☆宮中を舞台に主人公の光源氏の一生を描いた物語
 ☆光源氏の栄光と没落、華麗なる恋が描かれている
 ☆紫式部は、全五十四帖からなる大長編小説を完成させた
 ☆四百字詰め原稿用紙に換算して二千五百枚の長さ
 ☆紫式部は本名ではない
 *彼女の父の役職「式部」に作中の「紫の上」の紫を付けて、呼ばれている
 ☆清少納言も本名ではない
 *彼女の父の清原元輔の「清」の字に役職名である「少納言」を付けただけ
 ☆当時、女房と呼ばれる女性たちは本名をみだりに明かすことはなかった
 *現代でも彼女たちの本名はわからない
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日本が韓国にハングル文字を普及させた?(ネットよ画像引用)


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