残月剣 -秘抄- 水本爽涼
《剣聖①》第二十八回
最近では味噌汁の出汁をとる煮干しの入れ加減も覚えたから、左馬介がそう口を挟む必要もなくなった。この一手間が省けると、左馬介も気疲れが失せる。門弟達が朝稽古を終える迄に賄いの準備を終え、整えておくといった要領も鴨下は日に日に掴み、時の無駄は解消されていた。また嘗(かつ)て左馬介がそうであったように、鴨下も少しずつ道場に馴染みつつあるようであった。賄いの準備を終え、朝稽古へ遅れながらも加われるようになったことで、左馬介も内心、胸を撫で下ろしていた。そうなれば、余裕が全てに生じてくる。技を忘れ、初心で望む剣聖への道も、全てが平静となる心の余裕から胎動してくるような気がする左馬介であった。
春の日々も巡り、早や皐月の鯉の吹き流しが葛西の町屋に棚引く候となっていた。ここ、千鳥屋の瓦屋根にも、その光景は見られた。
「蟹谷さん、もう宜しゅうございますよ。あちらに酒肴を準備させておりますので、楽しんでからお帰り下さいまし。…それと、いつものように僅かですが、包んでおきましたので、どうぞ…」
主人の喜平は、薪割りに汗する蟹谷へ、そう優しげな声を掛けた。五郎蔵一家との一件があってからというもの、千鳥屋の堀川道場に対する肩入れは尋常ではない。現にこうして、堀川の蟹谷の小仕事を心よく認めて雇っていたし、丁重な遇(もてな)しまでしていた。