とおいひのうた いまというひのうた

自分が感じてきたことを、順不同で、ああでもない、こうでもないと、かきつらねていきたいと思っている。

7割のムダを恐れていては3割のいいものに巡り会えない

2006年05月15日 08時16分40秒 | 読書感想
毅さん、第2弾いきます。長いですよ。

『「頭ひとつ」でうまくいく』森 毅(知的生きかた文庫:三笠書房);

 「ものを食ったり飲んだり、とりとめもなくお喋りをしたり、なんなら一人で
なんということもなく時間が過ぎていく。それを、人生のムダのように言う人も
いる
 きっと、人生というものに、なにかの目的がなければならぬ、と考えている人
だろう。人生に目的(エンド)というものがあるとすれば、それは死に決まって
いる。
 もっとも、死ぬために生きる、などとは思わない。よい死に方などを考えるの
は億劫だ。さしあたり生きているのだから、気持ちよく生きるのがなにより。
 のっぺらぼうでは生きにくいから、ちょっとした目的をもったりはする。でも、
人生を通じての目的などは重荷になる。たいていは目的を達成できないからいい
ようなものの、もしかしてその目的を遂げたりしたら、そのあとどう生きたらい
いのだろう。功なり名遂げた人の晩年が張りを失いがちなのは、そのゆえであろ
う。
 ちょっとした目的であろうと、それをなしとげたあと、いくらか張りをなくし
た気分がないではないが、それはそれで、人生にとってわるいものではない。静
かなよい晩年などと言うが、目的に反するやるせない気分を人生にくみこまず、
成功一筋に進んできた人が、急に穏やかな気分になどなれるはずがない。
 目的達成の効率ということなら、人生の7割ぐらいはムダのようなものだ。そ
うしたムダを生きることで、その人の人格がつくられる。仕事が人間をつくるの
ではなく、暇が人間をつくる。
 (中略)
 前にも書いたが、ぼくは年に数百冊は本を読んでいるだろうが、なにかの役に
立てるためにだけではそんなに読んでいられない。7割がたは、つまらない。百
冊に1冊ぐらい、すごく感心することもある。
 しかし、たいていはムダだから読まないほうがよいと思っていたら、3割のい
い本にも出あわないし、百冊の1冊にも出あえない。いい本だけを読もうとする
のは、読書を人生の役に立てようとする人だろう。つまらない本を読むのが、本
好きというものだ。
 人生の7割はムダな暇だろうが、それが3割の仕事のためにあるとは思わない。
そんなことを考えていては、気持ちよく生きていられない。仕事のために暇があ
るのではなくて、暇のために仕事がある。だって、暇のほうが人生の時間の大部
分を占めているのだから、それを気持ちよく過ごすことのほうが、人生の流れを
支配する」(197~198頁)

「自分の一生を考えてみたって、たぶん7割ぐらいは、ムダに日を過ごしてきた
ような気がする。それが人生の流れであった。そして、ムダなようであっても、
その流れが自分の人生の味をつくってきたような気がする。少なくとも、7割は
3割多いのだから、そのムダな7割を過ごす身のこなしのほうが、自分をつくる
のに大きな影響をもっても不思議はない。伝記でもなんでも、働いた3割のほう
にだけ目を向けるけれど、その人の味は残りの7割から生まれるのかもしれない。
(中略)

いい本だけを読んだり、いい映画だけを見るのは、本好きや映画好きではない。
つまらない本も読むから本好きであり、つまらない映画も見るから映画好きなの
だ。そして、つまらない本が本の世界をつくっているし、つまらない映画が映画
の世界をつくっている。ことわっておくと、いいとかつまらないとかいうのも、
自分にとってだけの話であって、他人は反対の考えをもっているかもしれない。
 大学にいたころに、いい論文だけしか読まないようにしたい、と言う学生がい
た。それでは、今の時代にいる意味がない。
 百年後に、いい論文だったと残るのは少しだけだろう。百年後の学生は、それ
だけを読むかもしれないが、それは百年後の学生にまかせておけばよい。いい論
文かつまらない論文か判断しづらいこともあるが、つまらない論文も読むという
ことが、今の時代に生きているということだ。
 たぶん7割ぐらいのつまらない論文が、今の時代の流れをつくっている。せっ
かくゲームを見るなら、スポーツ・ニュースのダイジェストでないほうがいい。
 大学生が、たよりになる教授がいないとこぼしていたが、自分の役にたつ教授
も3割ぐらいはいるだろう。百人に一人ぐらいは、自分の人生を決めるぐらいの
人に出あうかもしれない。
 人づきあいというのはその程度のもので、つきあいやすい人は3割、心からう
ちとけるのは、せいぜいが百人に一人ぐらいのものだ。しかし、自分にとっては
ムダなような、7割もの人がいるから、世の中は流れている。気に入った3割だ
けに限定していたのでは、今の世に生きていることにならない。
 現にぼくは文章を書いているが、ムダ話と思う人がいたって仕方ない。みんな
に認めてもらおう、なんてのはあつかましい。」
(202~204頁)
「いろんなことに知識があることを、教養のように言うが、僕はそうは考えない。
<教養部>というところにいたが、教養というのは、ほとんどムダのようなとこ
ろがある。
 専門教育は役にたつが、一般教育はムダのように考える学生がいた。確かにそ
の通りである。ただし、役にたつ知識というのは、役にたたなくなるのも早い。
さしあたりの役にたつので使うのだが、使ってしまえば消耗してしまうようなと
ころがある。ムダは使いようがないだけに、かえって長持ちする。」
 本を読んで、ちょっと新しいことを知ると、少しはかしこくなったような気が
して、いくらか嬉しい。しかし、いつまでも嬉しがっておれないし、そのときは
それで満足したにしても、やがて忘れてしまう。知識とは身につけるというより、
忘れるためにあるみたいだ。....人間がコンピュータよりもちょっとは上等なの
は、どんどん記憶してどんどん忘却することができるところ。コンピュータのや
つは、いったんデータになると、消してやらないといつまでも残っている。忘れ
るために知る、というのもムダなようだが、いったん知識にして、そのあとで忘
却したころには、残り香みたいな味が残っている。そちらのほうが、教養という
ものだ。教養は知識の量ではなくて、忘却の量で決まる。ただ困ったことに、忘
れるためには、いったんは知識にせねばならぬ。こうしたムダの量が、その人の
味をつくっていて、それが教養になる。........老学者などで、自分の考えた研
究まで、すっかり忘れてしまっているような人がいる。それでいて、その人の風
格がいかにも風情があって、尊敬したくなったりする。人間、生まれたときは、
なんの知識もなかったはずで、それでいて、その人に風格があるのは、忘れたあ
とに残った、その人の教養というものだろう」
(204~206頁)

これを読んだら、かくーんときましたね。核家族にこうして、すっとぼけてくれる方がいてくださると、助かりますね。もっとも全部忘れてしまうのは、本当の話だと思います。最後まで覚えていらっしゃる方もおりますけどね。
け・せ・ら・せ・ら
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