2006年2月11日
「無法者どもの襲撃」(抜粋引用)
数日前、私たちはいとこの誕生パーティにおばの家に呼ばれた。Jは16になったところで、おばは私たちを遅い昼食とお茶に招待してくれた。とても小さな集まりだった。私を含む3人のいとこたち、私の両親、隣人でもあるJの親友。
昼食はとてもおいしかった。私たちが大好きなイラク伝統料理、ドルマ(コショウその他の香辛料で味付けした米・肉・タマネギをぶどうの葉で包んだもの)、ベルヤニライス(味付けご飯)、詰め物をした鶏(にわとり)。それにサラダを準備していてくれていた。ケーキは買ったものだったけど、人なつこそうな顔の魚の形だった。Jの父親は彼女が魚座ではなく水瓶座だったことを忘れて選んだのだ。
ロウソクを吹き消すとき、電気が消え、私たちは暗闇で彼女を囲んで立ち、ふたつの違う言葉で「ハッピー・バースディ」を歌った。Jはギュッと目を閉じて短いお願い事をし、一息でロウソクの火を吹き消した。それから贈り物を開けにかかった。クマのパジャマ、男の子のバンドのCD、キラキラ飾りのついたセーター、赤やベージュの通学用バッグなどなど、典型的なティーンエンジャーへの贈り物だった。
でもJを一番喜ばせたのは、父親からのプレゼントだった。
「お父さん、ステキだわ!」
それをガス灯にかざして見せびらかした。それは、コルク抜き、爪切り、栓抜きの全部揃ったスイス製のアーミーナイフだった。
「出歩くとき、護身用にバッグに入れて持ち歩けるだろう」と父親は言った。
私は16歳の誕生日に何をもらったか思い出そうとしたけれど、それがどんな種類のナイフでもなかったことはたしかだわ。
午後8時までに、私の両親とJの隣人は家に帰った。私とTと24歳のいとこは残って一晩一緒に過ごすことにした。Jの小さな弟を寝かしつけて気がついたら2時だった。彼は分を超えてケーキとお菓子を食べ過ぎたため、砂糖が彼を2時間ほど暴れん坊にさせたのだ。
私たちは居間に集まったが、おばと彼女の夫のアンモ・S(Sおじさん)は眠っていた。
みんなの携帯が受信地域外となり、使えなくなっていた。
Jは突然警戒するような表情をし、何かを思い出したように「あー、これは!」と声をあげた。「R、あなたの横にある電話をチェックしてみて」
「発信音が聞こえない......。でも、きょう早い時間にあったわ、私、インターネットにつなげたもの」
Jは、眉をひそめてラジオの音量を下げた。「前にもこういうことがあったわ」と彼女は続けた。「この地区が掃討作戦にあったとき」。部屋は突然静まり返った。なにも聞こえない。犬の遠吠えは聞こえた。でも、ふだんと何も変わらない。
突然、Tが背筋を伸ばして座りなおした。「あれ、聞こえる?」。大きく目を見開いて尋(たず)ねる。最初、私には何も聞こえなかったけれど、そのうち自動車かなにか乗り物の音がゆっくり近づいてくるのがわかった。立ち上がって窓にかけより暗闇に目をこらしたが、あちこちの窓越しに見えるほの暗いランプの光の向こうには何もなかった。
「ここからじゃ、何も見えない。きっと大通りだわ!」Jは跳び上がって彼女の父親を揺りおこしに行った。
「お父さん、お父さん、起きて。この地区に強制捜索が入っているんだと思うの」。Jが両親の部屋に走りながら叫ぶのが聞こえた。アンモ・Sはすぐ目を覚ました。「何時かね」と尋(たず)ねながら、スリッパとロープを探して歩き回るのが聞こえてきた。
そのあいだに、車の音は大きくなってきた。私は2階の窓から近所がいくらか見えるのを思い出した。おじが5種類の鍵を台所のドアからはずしている音が聞こえた。「おじさんは何をしているのかしら?ドアには鍵をかけておくべきじゃないの?」とTが尋ねた。窓の外を見ると、通りの先に照明がきらめいているのが見えた。家々に視界をさえぎられて、彼らがどこから来たのかはっきりとはわからなかったけれど、何か尋常(じんじょう)でないことがこの一帯で起きていることはたしかだった。車の音はますます大きくなってきた。同時にドアをガンガン叩く音が響き、ときたま照明が閃(ひらめ)いた。
私たちがドタドタ階下に降りると、Jとおばが暗闇であわてふためいていた。
「どうすればいい?」。そわそわと手をもみながらTが尋ねた。私は一度だけおじの家で強制捜索に遭(あ)った経験があるが、あれは2003年のことで、アメリカ人によるものだった。イラク人によるものと思われるものに遭遇(そうぐう)するのは、これが初めてだった。
おばは穏やかではあったが、憤慨しているのがわかった。「ろくでなしたちの、この地域での強制捜索は、この2ヶ月で3度目よ。私たちはいつまでたっても平和も静寂もないわ」。
私は寝室のドアの前に立って、おばがベッドを整えるのを見ていた。このあたりは、スンニ派、シーア派、キリスト教徒が入り混じって暮らしている。80年代後半に開けた比較的新しい地域だ。ほとんどの隣人たちは長年見知っている。
「私たちにはあの人たちが何を探しているのかわからないわ.......。ラー イラーハ イッラッラー(神は唯一である)」(どうしていいかわからないときや助けを求めるときなど、イスラーム教徒は無意識にアッラー(神)の名を唱えている)
(私注:日本人だったら?――(老人)なんまいだ なんまいだ?
英語人は?――オー、マイ ゴッド?
仏人だったら――モン ディウ?)
おばたちが準備するのを見ながら、私はぎこちなく立っていた。Jはもう部屋で着替え始めていて、私たちも着替えるようにと叫んでいた。「あいつらが家に入ってきたとき、パジャマ着ていたくないでしょ」
「どうして?やつらはカメラ班でも連れてくるわけ?」Tは弱弱しくほほえみ、冗談を言おうとした。Jは、「ううん、そうじゃないの」と答えた。セーターを着かけているところだったので、声がくぐもっていた。
「この前のとき、やつらは寒いさなかに外で私たちを待たせたのよ」。
私はアンモ・Sが外に出て、道に面した門の大きな南京錠をはずしている音を聞き、「どうして鍵を全部はずしてしまうの、J?」
「もし3秒以内に門を開けなければ、けだものたちがドアを壊すからよ。やつらはその後庭も家のなかも荒らし回るのよ......。この前あいつらは、3軒先のかわいそうなアブー・Hの家のドアをぶち破ったの。アブー・Hは肩を骨折したわ」。Jは完全に着替えを済ませ、ジーンズとセーターの上にローブをはおっていた。寒かった。
おばも着替えをすませ、3歳のいとこのBを運びおろすために2階に行こうとしていた。「騒ぎで目を覚ましてみたら、闇のなかでろくでなしたちに取り囲まれていた、なんてことにはさせたくないからね」
20分後、私たちはみな居間に集まっていた。部屋は暗かった。灯(とも)っているのは石油ストーブの炎と隅の小さなランプだけだった。私たちはみな着替えて毛布にくるまり、不安な気持ちで待っていた。Tと私は床に座った。おばとおじは長椅子に座った。もう午前4時近くだ。
部隊が近づくにつれて、外の騒音はだんだん大きくなってきた。ドアを開けろと怒鳴ったり、ドアを銃でガンガン叩く音がときどき聞こえてきた。
この前おばの地区であった強制捜索では、彼らの住む通りからだけでも4人の男性が連れ去られた。2人は20代初めの学生で、1人は法学部、もう1人は工学部の学生だった。そして3人目は60代初めのおじいさんだった。罪状も告げられなかったし、何かもめたわけでもなかった。ただ外に出るように命令され、白い小型トラックに乗せられ、他の地区からの男の人たちのグループと一緒に連れ去られた。家族はそれ以来彼らの消息を聞くことはなく、彼らが死体で発見されることを予測して、日に何度も死体保管所を訪れている。
「何も問題は起こらないわ」。おばは私たち一人ひとりを見ながら、厳しい表情で唇を噛みしめて言った。「あなたたちが余計なことを言わなければ、入ってきて、見回すだけで行ってしまうでしょう」。彼女の目はアンモ・Sのところで止まった。アンモ・Sは黙っていた。彼はタバコに火をつけ、深く吸い込んだ。Jが言うには、おじは10年もタバコをやめていたのに、2ヶ月前にまた吸い始めたということだった。「書類は持ってる?」。こういうときには、身分証明書類の提示を求められるのだ。彼は声を出さずに静かにうなずいた。
私たちは待った、ただ待った......。(中略)アンモ・Sは台所を歩き回っていた。(中略)おばはまだ長椅子に座り、Bを腕に抱いて優しく揺らし、祈りを唱えていた。Jは最後のチェックをし、言った「前回、やつらはパパの携帯電話を持って行ったわ。あなたたちは携帯電話を身につけていてね」
10分後、彼らがやって来た。ガラガラと大きな音を庭の門で鳴らし、「イフタール(門を開けろ)」と怒鳴り散らしながら。外にいるおじが大声で「開けます、開けます」というのが聞こえた。
つぎの瞬間、彼らは家のなかにいた。突然家は、ドカドカと足を踏み鳴らし、あちこちの部屋に押し入って怒鳴り散らす見知らぬ男たちでいっぱいになった。もうめちゃくちゃだった。庭に軍用懐中電灯が見えたかと思うと、光が玄関から入ってきた。外でおじが家のなかにいるのは彼の妻と「子どもたち」だけだと、大きな声で言っているのが聞こえた。「何を探しているのですか?何か不法行為があったのでしょうか?」とおじは尋ねていた。
突然、2人の男が居間に入ってきた。私たちは全員おばのそばのソファに座っていた。いとこのBは目覚めていて、恐怖に目を見開いていた。男たちは大きな軍用懐中電灯を持っていた。1人が私たちにカラシニコフ銃を向け、「お前らのほかに誰かここにいるか?」と、おばに吠えた。「いいえ、私たちのほかには外であなたたちと一緒にいる夫だけです。家を調べてみればいいわ」。Tがどぎつく輝く軍用懐中電灯の光を遮(さえぎ)ろうと手を挙(あ)げた。が、男の1人が怒鳴りつけたので、その手は弱弱しく膝の上に落ちた。私はまぶしい光に目を細めたが、目が慣れてくると、彼らが覆面をして目と口だけを出していることがわかった。いとこたちをちらりと見て、Tがほとんど息をしていないのに気づいた。Jは凍りついたように座っていて、その目は何も見ていないようだった。私は彼女がセーターをうしろ前に着ているのにぼんやりと気づいた。
男の1人は私たちにカラニシコフ銃を向けて立っていて、もう1人は戸棚を開け、なかをチェックした。私たちは黙っていた。唯一聞こえるのは、おばの震えたささやくような祈りの声と、恐怖に目を見開いた小さなBが指をしゃぶる音。残りの兵士たちが家を歩き回り、タンスやドアや戸棚を開ける音が聞こえた。
外にいるアンモ・Sの声を聞きたかったのだけれど、耳障りなら兵士の声が聞こえてくるだけだった。(中略)
突然外で誰かが大声で何か叫び、それは終わった。侵入してきたのとほぼ同じ速さで彼らは立ち去った。バタンバタンとドアが閉まり、部屋はだんだん暗くなっていった。(中略)動く気力もなく、門の前に2人の男を歩哨に残して男たちが立ち去っていく音を座ったまま聞いていた。
「パパはどこ?」Jの言葉で、私たちは彼のスリッパの音が道から聞こえてくるまで、しばらくのあいだパニックに陥った。「お父さん連れて行かれたの?」彼女の声はうわずっていた。やっと家に戻ってきたおじは憔悴しきっていた。彼の顔は、暗い家のなかで見てもひどく青ざめているのがはっきりわかった。
(中略)
おばは居間に座って静かにすすり泣いていた。
「家はもう誰にとっても、自分たちのものと言えなくなったわ。.....眠ることもできないし、住んでいられないわ。家の中が安全でないっていうんなら、いったい、どこに安全な場所があるっていううの?けだもの!ろくでなし!」
数時間後、私たちは2軒先の隣人が亡くなったことを知った。アブ・サーリフは、70代の男性で、イラク人の傭兵が襲撃したとき、心臓発作を起こしたのだった。彼の孫は祖父をすぐに病院に連れて行くことができなかった。家宅捜索が終わるまで兵士たちが彼らを家から出してくれなかったからだ。孫があとで言ったところによれば、この日襲撃のあいだじゅう、アメリカ軍がこの地区を包囲してやつらを守っていた。これはアメリカ軍との共同作戦だったのだ。
おばの地区だけからでも、少なくとも12人の、19歳から40歳までの男たちが連行された。裏の通りには、50歳以下の男のいる家などひとつもない。弁護士、技術者、学生、ふつうの労働者たちは、みんな新生イラクの「治安部隊」によって連行されてしまった。彼らに共通する唯一の事実は、彼らがスンニ派の家族であることだ(たしかではない2つの場合を除いては)。
私たちは衣類を洋服ダンスに戻したり、なくなったものの検査(腕時計、真鍮のペーパーナイフ、それからウォークマン)をしたり、じゅうたんの泥と土を掃除するのに1日費やした。おばは狂ったように「汚い、汚い、汚い.......」と言いながら、何もかも掃除し消毒していた。Jは、二度と彼女の誕生日を祝わないと誓った。
ほんの1ヶ月前、おもしろいことがあった。私たちは、どこかのアラビヤ衛星テレビの番組――たぶんアル=アラビーヤだわ、でコマーシャルを見ていた。それはイラク治安部隊のコマーシャルで、テロリストの襲撃があった場合、イラク人が通報することになっている電話番号をリストアップしていた。......
強盗や誘拐からあなたを守る警察なら、この番号へ......テロリストからあなたを守る国家警備隊や特殊部隊へは、こちらの番号へ.......って、でもね......。
新生イラクの治安部隊から守ってもらうためには、いったい誰を呼べばいいわけ?
「無法者どもの襲撃」(抜粋引用)
数日前、私たちはいとこの誕生パーティにおばの家に呼ばれた。Jは16になったところで、おばは私たちを遅い昼食とお茶に招待してくれた。とても小さな集まりだった。私を含む3人のいとこたち、私の両親、隣人でもあるJの親友。
昼食はとてもおいしかった。私たちが大好きなイラク伝統料理、ドルマ(コショウその他の香辛料で味付けした米・肉・タマネギをぶどうの葉で包んだもの)、ベルヤニライス(味付けご飯)、詰め物をした鶏(にわとり)。それにサラダを準備していてくれていた。ケーキは買ったものだったけど、人なつこそうな顔の魚の形だった。Jの父親は彼女が魚座ではなく水瓶座だったことを忘れて選んだのだ。
ロウソクを吹き消すとき、電気が消え、私たちは暗闇で彼女を囲んで立ち、ふたつの違う言葉で「ハッピー・バースディ」を歌った。Jはギュッと目を閉じて短いお願い事をし、一息でロウソクの火を吹き消した。それから贈り物を開けにかかった。クマのパジャマ、男の子のバンドのCD、キラキラ飾りのついたセーター、赤やベージュの通学用バッグなどなど、典型的なティーンエンジャーへの贈り物だった。
でもJを一番喜ばせたのは、父親からのプレゼントだった。
「お父さん、ステキだわ!」
それをガス灯にかざして見せびらかした。それは、コルク抜き、爪切り、栓抜きの全部揃ったスイス製のアーミーナイフだった。
「出歩くとき、護身用にバッグに入れて持ち歩けるだろう」と父親は言った。
私は16歳の誕生日に何をもらったか思い出そうとしたけれど、それがどんな種類のナイフでもなかったことはたしかだわ。
午後8時までに、私の両親とJの隣人は家に帰った。私とTと24歳のいとこは残って一晩一緒に過ごすことにした。Jの小さな弟を寝かしつけて気がついたら2時だった。彼は分を超えてケーキとお菓子を食べ過ぎたため、砂糖が彼を2時間ほど暴れん坊にさせたのだ。
私たちは居間に集まったが、おばと彼女の夫のアンモ・S(Sおじさん)は眠っていた。
みんなの携帯が受信地域外となり、使えなくなっていた。
Jは突然警戒するような表情をし、何かを思い出したように「あー、これは!」と声をあげた。「R、あなたの横にある電話をチェックしてみて」
「発信音が聞こえない......。でも、きょう早い時間にあったわ、私、インターネットにつなげたもの」
Jは、眉をひそめてラジオの音量を下げた。「前にもこういうことがあったわ」と彼女は続けた。「この地区が掃討作戦にあったとき」。部屋は突然静まり返った。なにも聞こえない。犬の遠吠えは聞こえた。でも、ふだんと何も変わらない。
突然、Tが背筋を伸ばして座りなおした。「あれ、聞こえる?」。大きく目を見開いて尋(たず)ねる。最初、私には何も聞こえなかったけれど、そのうち自動車かなにか乗り物の音がゆっくり近づいてくるのがわかった。立ち上がって窓にかけより暗闇に目をこらしたが、あちこちの窓越しに見えるほの暗いランプの光の向こうには何もなかった。
「ここからじゃ、何も見えない。きっと大通りだわ!」Jは跳び上がって彼女の父親を揺りおこしに行った。
「お父さん、お父さん、起きて。この地区に強制捜索が入っているんだと思うの」。Jが両親の部屋に走りながら叫ぶのが聞こえた。アンモ・Sはすぐ目を覚ました。「何時かね」と尋(たず)ねながら、スリッパとロープを探して歩き回るのが聞こえてきた。
そのあいだに、車の音は大きくなってきた。私は2階の窓から近所がいくらか見えるのを思い出した。おじが5種類の鍵を台所のドアからはずしている音が聞こえた。「おじさんは何をしているのかしら?ドアには鍵をかけておくべきじゃないの?」とTが尋ねた。窓の外を見ると、通りの先に照明がきらめいているのが見えた。家々に視界をさえぎられて、彼らがどこから来たのかはっきりとはわからなかったけれど、何か尋常(じんじょう)でないことがこの一帯で起きていることはたしかだった。車の音はますます大きくなってきた。同時にドアをガンガン叩く音が響き、ときたま照明が閃(ひらめ)いた。
私たちがドタドタ階下に降りると、Jとおばが暗闇であわてふためいていた。
「どうすればいい?」。そわそわと手をもみながらTが尋ねた。私は一度だけおじの家で強制捜索に遭(あ)った経験があるが、あれは2003年のことで、アメリカ人によるものだった。イラク人によるものと思われるものに遭遇(そうぐう)するのは、これが初めてだった。
おばは穏やかではあったが、憤慨しているのがわかった。「ろくでなしたちの、この地域での強制捜索は、この2ヶ月で3度目よ。私たちはいつまでたっても平和も静寂もないわ」。
私は寝室のドアの前に立って、おばがベッドを整えるのを見ていた。このあたりは、スンニ派、シーア派、キリスト教徒が入り混じって暮らしている。80年代後半に開けた比較的新しい地域だ。ほとんどの隣人たちは長年見知っている。
「私たちにはあの人たちが何を探しているのかわからないわ.......。ラー イラーハ イッラッラー(神は唯一である)」(どうしていいかわからないときや助けを求めるときなど、イスラーム教徒は無意識にアッラー(神)の名を唱えている)
(私注:日本人だったら?――(老人)なんまいだ なんまいだ?
英語人は?――オー、マイ ゴッド?
仏人だったら――モン ディウ?)
おばたちが準備するのを見ながら、私はぎこちなく立っていた。Jはもう部屋で着替え始めていて、私たちも着替えるようにと叫んでいた。「あいつらが家に入ってきたとき、パジャマ着ていたくないでしょ」
「どうして?やつらはカメラ班でも連れてくるわけ?」Tは弱弱しくほほえみ、冗談を言おうとした。Jは、「ううん、そうじゃないの」と答えた。セーターを着かけているところだったので、声がくぐもっていた。
「この前のとき、やつらは寒いさなかに外で私たちを待たせたのよ」。
私はアンモ・Sが外に出て、道に面した門の大きな南京錠をはずしている音を聞き、「どうして鍵を全部はずしてしまうの、J?」
「もし3秒以内に門を開けなければ、けだものたちがドアを壊すからよ。やつらはその後庭も家のなかも荒らし回るのよ......。この前あいつらは、3軒先のかわいそうなアブー・Hの家のドアをぶち破ったの。アブー・Hは肩を骨折したわ」。Jは完全に着替えを済ませ、ジーンズとセーターの上にローブをはおっていた。寒かった。
おばも着替えをすませ、3歳のいとこのBを運びおろすために2階に行こうとしていた。「騒ぎで目を覚ましてみたら、闇のなかでろくでなしたちに取り囲まれていた、なんてことにはさせたくないからね」
20分後、私たちはみな居間に集まっていた。部屋は暗かった。灯(とも)っているのは石油ストーブの炎と隅の小さなランプだけだった。私たちはみな着替えて毛布にくるまり、不安な気持ちで待っていた。Tと私は床に座った。おばとおじは長椅子に座った。もう午前4時近くだ。
部隊が近づくにつれて、外の騒音はだんだん大きくなってきた。ドアを開けろと怒鳴ったり、ドアを銃でガンガン叩く音がときどき聞こえてきた。
この前おばの地区であった強制捜索では、彼らの住む通りからだけでも4人の男性が連れ去られた。2人は20代初めの学生で、1人は法学部、もう1人は工学部の学生だった。そして3人目は60代初めのおじいさんだった。罪状も告げられなかったし、何かもめたわけでもなかった。ただ外に出るように命令され、白い小型トラックに乗せられ、他の地区からの男の人たちのグループと一緒に連れ去られた。家族はそれ以来彼らの消息を聞くことはなく、彼らが死体で発見されることを予測して、日に何度も死体保管所を訪れている。
「何も問題は起こらないわ」。おばは私たち一人ひとりを見ながら、厳しい表情で唇を噛みしめて言った。「あなたたちが余計なことを言わなければ、入ってきて、見回すだけで行ってしまうでしょう」。彼女の目はアンモ・Sのところで止まった。アンモ・Sは黙っていた。彼はタバコに火をつけ、深く吸い込んだ。Jが言うには、おじは10年もタバコをやめていたのに、2ヶ月前にまた吸い始めたということだった。「書類は持ってる?」。こういうときには、身分証明書類の提示を求められるのだ。彼は声を出さずに静かにうなずいた。
私たちは待った、ただ待った......。(中略)アンモ・Sは台所を歩き回っていた。(中略)おばはまだ長椅子に座り、Bを腕に抱いて優しく揺らし、祈りを唱えていた。Jは最後のチェックをし、言った「前回、やつらはパパの携帯電話を持って行ったわ。あなたたちは携帯電話を身につけていてね」
10分後、彼らがやって来た。ガラガラと大きな音を庭の門で鳴らし、「イフタール(門を開けろ)」と怒鳴り散らしながら。外にいるおじが大声で「開けます、開けます」というのが聞こえた。
つぎの瞬間、彼らは家のなかにいた。突然家は、ドカドカと足を踏み鳴らし、あちこちの部屋に押し入って怒鳴り散らす見知らぬ男たちでいっぱいになった。もうめちゃくちゃだった。庭に軍用懐中電灯が見えたかと思うと、光が玄関から入ってきた。外でおじが家のなかにいるのは彼の妻と「子どもたち」だけだと、大きな声で言っているのが聞こえた。「何を探しているのですか?何か不法行為があったのでしょうか?」とおじは尋ねていた。
突然、2人の男が居間に入ってきた。私たちは全員おばのそばのソファに座っていた。いとこのBは目覚めていて、恐怖に目を見開いていた。男たちは大きな軍用懐中電灯を持っていた。1人が私たちにカラシニコフ銃を向け、「お前らのほかに誰かここにいるか?」と、おばに吠えた。「いいえ、私たちのほかには外であなたたちと一緒にいる夫だけです。家を調べてみればいいわ」。Tがどぎつく輝く軍用懐中電灯の光を遮(さえぎ)ろうと手を挙(あ)げた。が、男の1人が怒鳴りつけたので、その手は弱弱しく膝の上に落ちた。私はまぶしい光に目を細めたが、目が慣れてくると、彼らが覆面をして目と口だけを出していることがわかった。いとこたちをちらりと見て、Tがほとんど息をしていないのに気づいた。Jは凍りついたように座っていて、その目は何も見ていないようだった。私は彼女がセーターをうしろ前に着ているのにぼんやりと気づいた。
男の1人は私たちにカラニシコフ銃を向けて立っていて、もう1人は戸棚を開け、なかをチェックした。私たちは黙っていた。唯一聞こえるのは、おばの震えたささやくような祈りの声と、恐怖に目を見開いた小さなBが指をしゃぶる音。残りの兵士たちが家を歩き回り、タンスやドアや戸棚を開ける音が聞こえた。
外にいるアンモ・Sの声を聞きたかったのだけれど、耳障りなら兵士の声が聞こえてくるだけだった。(中略)
突然外で誰かが大声で何か叫び、それは終わった。侵入してきたのとほぼ同じ速さで彼らは立ち去った。バタンバタンとドアが閉まり、部屋はだんだん暗くなっていった。(中略)動く気力もなく、門の前に2人の男を歩哨に残して男たちが立ち去っていく音を座ったまま聞いていた。
「パパはどこ?」Jの言葉で、私たちは彼のスリッパの音が道から聞こえてくるまで、しばらくのあいだパニックに陥った。「お父さん連れて行かれたの?」彼女の声はうわずっていた。やっと家に戻ってきたおじは憔悴しきっていた。彼の顔は、暗い家のなかで見てもひどく青ざめているのがはっきりわかった。
(中略)
おばは居間に座って静かにすすり泣いていた。
「家はもう誰にとっても、自分たちのものと言えなくなったわ。.....眠ることもできないし、住んでいられないわ。家の中が安全でないっていうんなら、いったい、どこに安全な場所があるっていううの?けだもの!ろくでなし!」
数時間後、私たちは2軒先の隣人が亡くなったことを知った。アブ・サーリフは、70代の男性で、イラク人の傭兵が襲撃したとき、心臓発作を起こしたのだった。彼の孫は祖父をすぐに病院に連れて行くことができなかった。家宅捜索が終わるまで兵士たちが彼らを家から出してくれなかったからだ。孫があとで言ったところによれば、この日襲撃のあいだじゅう、アメリカ軍がこの地区を包囲してやつらを守っていた。これはアメリカ軍との共同作戦だったのだ。
おばの地区だけからでも、少なくとも12人の、19歳から40歳までの男たちが連行された。裏の通りには、50歳以下の男のいる家などひとつもない。弁護士、技術者、学生、ふつうの労働者たちは、みんな新生イラクの「治安部隊」によって連行されてしまった。彼らに共通する唯一の事実は、彼らがスンニ派の家族であることだ(たしかではない2つの場合を除いては)。
私たちは衣類を洋服ダンスに戻したり、なくなったものの検査(腕時計、真鍮のペーパーナイフ、それからウォークマン)をしたり、じゅうたんの泥と土を掃除するのに1日費やした。おばは狂ったように「汚い、汚い、汚い.......」と言いながら、何もかも掃除し消毒していた。Jは、二度と彼女の誕生日を祝わないと誓った。
ほんの1ヶ月前、おもしろいことがあった。私たちは、どこかのアラビヤ衛星テレビの番組――たぶんアル=アラビーヤだわ、でコマーシャルを見ていた。それはイラク治安部隊のコマーシャルで、テロリストの襲撃があった場合、イラク人が通報することになっている電話番号をリストアップしていた。......
強盗や誘拐からあなたを守る警察なら、この番号へ......テロリストからあなたを守る国家警備隊や特殊部隊へは、こちらの番号へ.......って、でもね......。
新生イラクの治安部隊から守ってもらうためには、いったい誰を呼べばいいわけ?