とおいひのうた いまというひのうた

自分が感じてきたことを、順不同で、ああでもない、こうでもないと、かきつらねていきたいと思っている。

『いま、イラクを生きる』リバーベンド 4 「選挙の結果」

2008年04月07日 13時49分45秒 | 地理・歴史・外国(時事問題も含む)
2006年2月2日
   「選挙の結果」
 イラン影響下の法学者たちが確固たる基盤を得たのは、まさに2003年のこと。かれらの武装集団は、新生イラク軍を作ろうという動きが起きると即刻、内務省と国防省に組み込まれた。シスターニーがことの最初からプッシュしてきたのだ。

       (中略)
 2003年、彼らはアメリカの味方だった。アメリカのおかげでイラク国内で勢力を保っていられるのだから。居座るアメリカにイラク人の我慢も限界になりつつある今日、彼らは自分たちが「占領者」になりかわると言い始め、治安が悪くどこもかしこも混乱しているのは、アメリカのせいだと公然と非難している。論調はまったく変わった。2003年には政教分離国家としてのイラクというのは、ふつうの話題だった。いまはもう選択肢の一つでさえない。
 2003年にジャファリは、イラクの女性が権利を失うのを許せないとなどと言っていた。平等な権利とは決して言わなかったけれど、発言のなかでイラクの女性には教育を受ける権利だけでなく仕事につく権利もあると、たびたび言及していたのはたしかだ。ところが、テレビでジャファリがムスタンシリヤ大学(バグダッド市内のあちこちにキャンパスがある大きな大学)の学生たちに話している場面に行き当たった。学生たちは見えなかった。もしかしたらペンギンの群れにでも話していたのかも。カメラは、ずるそうな目とくぐもった声のジャファリの姿だけをとらえていた。
 ジャフリの右に黒いターバンを巻き黒い長衣を着たアヤトラ(シーア派上級宗教指導者の称号)が座っていた。ジャファリが学生たち(ペンギンかも)に話しているあいだ、満足そうにうなずいていた。演説は、科学のことでも技術のことでも発展のことでもなかった。天国と地獄、善と悪に関する宗教的訓話だったのだ。

       (中略)
 ジャファリは、男性は女性を守らなければいけないこと、スンニ派は少しも悪くないことをめんめんと説いた。イラクの統一について、また宗教上の違いを言い立てないことの重要性について、いつ彼は話すのかと待ちかまえていた。が、こうしたことについては一言もなかった。
 こういう状況なのに、脳天気な主戦論者、共和党員は、ことがうまく進むといまだに思っている。うーん、そうだな、アヤトラたちがこの選挙に勝ったんだから、つぎの選挙こそうまくいくぞ、ってね。だが、そうはいかない。 
 イラクのような国における宗教政党や宗教指導者の問題点は、彼らは、政策を支持する人びとではなく、つき従う熱烈な信者たちを意のままにしているという点にある。ダーワ党やイラク・イスラム革命評議会(SCIRI)の支持者たちにとって、政策や公約や権力の座にある操り人形のことなんて、あれこれ取りざたする事柄ではないのだ。敬虔なカトリック教徒にとってのローマ法皇を考えてみるといい。神から授けられたとみえる権利によってその座にある人物を疑ったりしないでしょう。彼のやることに異議を唱えたりしないわね。


 アヤトラって、そういうもの。ムクタダ・アッ=サドルはこっけい。まるで舌が晴れ上がっているようなしゃべり方をし、いつも風呂へ入ったほうがいいような風体をしている。ペルシャ語なら自然に聞こえるのだろうと思えるアクセントで話す。それに、大勢の支持者を従えている。彼の祖父が宗派の大物だったから。イラクでもっとも教養のない、もっとも愚鈍な男のはずなのに、彼の命令で喜んで命を投げ出す人びとを従えている。それもこれも一族の宗教的な背景のため(アメリカのみなさん、ご愁傷さま、1週間前、彼は万一イランがアメリカに攻撃されたら、郎党率いてイラン防衛のために立ち上がると宣言したわ)

 とどのつまり、こういう輩につき従う人びとは、たとえ現在の指導者が並以下でも、天国と神のお告げは不変なのだからと自らに言い聞かせているのだ。つまり信仰、神の言葉に従うということ。どんどん悪化していく状況、一寸先は死という、戦禍に疲弊した国において生きるとき、よすがは神。だって、イヤード・アラフイーじゃ電気も治安も回復してくれないし、万一車両爆弾に出くわしても、絶対天国に入れてくれるはずないじゃない。(イヤード・アラウィーは前首相。今回の選挙では世俗勢力を率いたが少数派に転落)
 
 イラクのように多様な人びとの暮らす国で、宗教政党が政権につくと、困ったことに人は無意識に、その政党、つまりその宗派でない人間を遠ざけてしまう。宗教は個人的なもの。運命的に定められた何ものか......心、精神、霊に関わること。日々の営みのなかには喜び招き入れられても、政治の道具とされてはならない。

 誰も宗教を非難することはできないから、神権政治(イラクはいままさにそのイラン型になるかどうかの瀬戸際)は日に日に強権的になる。政治家はもはや政治家ではない。アヤトラだ。現代の神の使いとなって、ただ尊敬されるのではなく拝跪される。彼らに異議を唱えることはできない。なぜなら、信奉者たちからみれば、信仰への異議申し立てとなるからだ。ある人物や政党に対するものではなくて。
 宗教政党を非難したりしたら、批判者あるいは「反対派」から一挙に不信心者へ、転落だ。

 アメリカ人たちは私にメールでこう言ってくる。「それにしても、識見の高いイラク人はいったいどこにいるの?どうして政教分離の政党に投票しなかったのよ」。識見ある人びとは、2003年以来すっかり口を封じられているのだ。国を出るよう圧力をかけられ、いやがらせを受け、暗殺され、拘束され、誘拐され続けてきた。その多くは、政教分離のイラクという可能性が信じられなくなってしまっている。
 それにまた、宗教政党に投票した多くの人びとは不見識、なんて言っていいだろうか?実に識見高きイラク人で、ダーワ党やイラク・イスラム革命最高評議会(SCIRI)などの政党に対する批判を、自分に対する侮辱と受け取る人を私は何人か知っている。なぜなら、これら政党はシーア派という濃厚な宗派色を身にまとっているので、これらに対する批判はシーア派全体に対する攻撃と受け取られるのだ。同じように、スンニ派の多くの人も、スンニ派政党に対する批判は自分たちの宗派に対する攻撃と受け取る。
 
 ここに、政治と宗教を結びつける危険性がある。人格に関わる問題になってしまうのだ。
 選挙結果、つまりシーア派原理主義者たちが政権についているということは、あまりこだわって考えすぎないようにしている。そんなことをすると、心の内深く、恐怖の感覚がいつまでも残るような悪寒で体中が震えてくるから。ちょうど突然の停電で、深い重量感のある無音の闇に投げ込まれたら、周りのかすかな音や動きにあまり集中しないようにするように。何だろう、何の先触れだろうかと暗闇に目をこらしていたら、気が狂ってしまう..........。
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