とおいひのうた いまというひのうた

自分が感じてきたことを、順不同で、ああでもない、こうでもないと、かきつらねていきたいと思っている。

アフガンで活動18年、中村医師が語るタリバンの真実 2001年10月24日

2008年08月25日 10時22分58秒 | 地理・歴史・外国(時事問題も含む)
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アフガンで活動18年、中村医師が語るタリバンの真実
                 2001年10月24日
 米軍によるアフガニスタンへの報復攻撃が続く中、一般市民はどんな状況なのか。パキスタン北西部の都市ペシャワールを本拠地に、アフガン東部で18年間にわたり医療活動を続けている、非政府組織「ペシャワール会」絵の現地代表・中村哲医師に現地の様子やタリバン政権の実態について聞いた。中村医師は米ニューヨークのテロ事件直後にアフガン入り。10月13日現在一時帰国中だが、今月中に再度ペシャワール入りする予定である。

市民は北部同盟を受け入れない
 今、アフガニスタンの市民は思ったより冷静です。首都カブールと北部のジャララバードにある会のオフィスから毎日2回連絡がくるので、日本にいても状況はつかめます。会はカブール市内に5カ所の診療所を運営していて毎朝8時に朝礼をしていますが、空爆の後も変わっていません。

 日本の報道で一番伝わってこないのが、アフガンの人々の実情です。北部同盟の動きばかりが報道されて、西側が嫌うタリバン政権下の市民の状況が正確に伝わらない。日本メディアは欧米メディアに頼りすぎているのではないか。

 北部同盟はカブールでタリバン以前に乱暴狼藉を働いたのに、今は正式の政権のように扱われている。
彼らが自由や民主主義と言うのは、普通のアフガン市民から見るとちゃんちゃらおかしい。カブールの市民は今、米軍の空爆で20人、30人が死んでも驚きません。以前、北部同盟が居座っている間に、内ゲバで市民が1万5000人も死にましたから。

 今もてはやされている北部同盟の故マスード将軍はハザラという一民族の居住区に、大砲や機関銃を雨あられと撃ち込んで犠牲者を出した。カブールの住民の多くは旱魃で農村から逃げてきた難民。22年の内戦で疲れ切っていて、「もう争いごとは嫌だ」と思っている。

 逆に言うと、厭戦気分が今のタリバン支配の根っ子にあると思います。各地域の長老会が話し合ったうえでタリバンを受け入れた。人々を力で抑えられるほどタリバンは強くありません。旧ソ連が10万人も投入して支配できなかった地域です。
一方で市民は北部同盟は受け入れないでしょう。市民は武器輸送などでタリバンに協力しています。北部同盟に対しては、昔の悪い印象が非常に強いですから。

 タリバンは訳が分からない狂信的集団のように言われますが、我々がアフガン国内に入ってみると全然違う。
恐怖政治も言論統制もしていない。田舎を基盤とする政権で、いろいろな布告も今まであった慣習を明文化したという感じ。少なくとも農民・貧民層にはほとんど違和感はないようです。

女性の「隠れ通学」を黙認
 例えば、女性が学校に行けないという点。女性に学問はいらない、という考えが基調ではあるものの、日本も少し前までそうだったのと同じです。ただ、女性の患者を診るために、女医や助産婦は必要。カブールにいる我々の47人のスタッフのうち女性は12-13人います。当然、彼女たちは学校教育を受けています。

 タリバンは当初過激なお触れを出しましたが、今は少しずつ緩くなっている状態です。例えば、女性が通っている「隠れ学校」。表向きは取り締まるふりをしつつ、実際は黙認している。これも日本では全く知られていない。

 我々の活動については、タリバンは圧力を加えるどころか、むしろ守ってくれる。例えば井戸を掘る際、現地で意図が通じない人がいると、タリバンが間に入って安全を確保してくれているんです。我々のカバー領域はアフガン東部で、福岡県より少し広いくらい。この範囲で1000本の井戸があれば40万人程度は生活ができると思います。
国連が描く難民救済のシナリオは、米軍の報復攻撃によってパキスタンに移動してきた段階で助ける、というもの。
だが、中村医師は「難民化を食い止めることが何より重要」と主張する。

 カブール市の人口は約100万-150万人。平均して3-4割は慢性の栄養失調で、放っておくと死にそうなのが1割くらい。だからこの1割、15万人が緊急食料援助の対象です。

 カブールは標高1500-1600mで、11月下旬-2月が冬。雪に閉ざされるので冬ごもりします。食料を蓄える見通しがなければ、当然、難民化して動かざるを得ない。これから3-4カ月を無事に過ごせる状態にすれば、移動すらできない貧しい人も助かります。

禍根残す日本の対テロ法
 米国の食料投下は全く役立っていない。日本時間の10月12日夜に聞いた話によると、現地の人は気味悪がって食べずに、集めて焼いたそうです。タリバンが焼いた場合も、民衆が自発的にやった場合もある。例えば干し肉が入っていたら、豚肉の可能性もあるので、イスラム教徒は食べられない。

 本当は小麦を送るのが一番いいんです。今行われていることを総じて言うと、イスラム社会の都合や考えを無視して、西欧社会の都合が優先されている。ものすごい運賃をかけて物を送ったり、自衛隊を出すかどうかで大騒ぎして、結局役に立っていない。

 あちらの慣習法で大切なのが、客人歓待。ビンラディンもいったん客人と認めたからには、米国だろうと敵に客人を渡すのは恥、と考えるんです。

 嘘みたいな話ですが、1億円もあればカブールの人が全部助けられる。我々が今回やる緊急の食料援助プロジェクトで試算すると、1家族10人が3カ月の冬を越すのにたったの6000円で済む。これで急場をしのいでいるうちに、国連などが動き出すはずです。

 こんなふうに死にかけた小さな国を相手に、世界中の強国がよってたかって何を守ろうとしているのでしょうか。
テロ対策という議論は、一見、説得力を持ちます。でも我々が守ろうとしているのは本当は何なのか。生命だけなら、仲良くしていれば守れます。

 だから、日本がテロ対策特別措置法を作ったのは非常に心配です。アフガンの人々はとても親日的なのに、新たな敵を作り、何十年か後に禍根を残します。以前は対立を超えてものを見ようとする人もいましたが、グローバリズムの中で粉砕されていく。危険なものを感じます。(聞き手は治部 れんげ=日経ビジネス)

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ほんの少し整理を:
●アフガン戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
(第三次アフガン戦争 から転送)
アフガン戦争(Afghan Wars)は、近現代にアフガニスタンを舞台に起こった諸戦争のうち、特に19世紀から20世紀初頭に行われたアフガニスタンとイギリスの間の三次にわたる戦争のこと。アングロ・アフガン戦争ともいう。

第一次(1838年 - 1842年)と第二次(1878年 - 1881年)のアフガン戦争は19世紀に繰り広げられたグレート・ゲームの一環として、中央アジアに進出したロシア帝国がインドへと野心を伸ばしてくることを警戒したイギリスが、先手を打ってアフガニスタンを勢力圏に収めるために行った軍事行動であり、第二次アフガン戦争によってイギリスはアフガニスタンを保護国とした。アフガン戦争は狭義にはこの二度の戦争を指す。第三次アフガン戦争(1919年)は第一次世界大戦直後に行われた戦争で、アフガニスタンが英領インドに攻め込んで独立を認めさせた戦争である。なお2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件の首謀者への報復として、アメリカ合衆国が行ったアフガニスタンのタリバン政権への武力攻撃については、アフガニスタン侵攻 (2001) を参照。
(後略)最終更新 2008年6月28日 (土) 03:05

●アフガニスタン侵攻 (1979)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
(ソ連のアフガニスタン侵攻 から転送)
アフガニスタン侵攻(アフガニスタンしんこう)は、アフガニスタンに1978年に成立した共産主義政権を支える為に、1979年にソビエト連邦が軍隊をアフガニスタンへ進めて占領した事件。 ソ連・アフガン戦争と呼んだ場合、アフガニスタンの反政府組織や義勇兵とソ連軍の間で発生した戦争を指す。1979年のソ連軍出兵から1989年の完全撤収まで10年に渡った。
(後略)最終更新 2008年7月10日 (木) 18:54。

●アフガニスタン内戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

アフガニスタン内戦(-ないせん)は、1989年頃からアフガニスタンで発生した内戦。
第一次内戦
アフガニスタンは1979年12月からソビエト連邦による軍事侵攻を受けたが(詳細はソビエト連邦のアフガニスタン侵攻を参照)、1988年4月の米・ソ・アフガン・パキスタン四国和平協定によって和平が成立、1989年2月までに全てのソ連軍が撤退した。
 しかし、10年に及ぶ対ソ連戦争で秩序が完全に解体されたアフガンでは、それまで共同でソ連と戦っていた多くの派閥が覇権をめぐって挙兵し、互いに争う有様となった。その派閥の中でも、
ラッバーニー率いるタジク人主体の「イスラム協会」
ドスタム率いるウズベク人主体の「イスラム民族運動」
ヘクマティヤール率いるパシュトゥーン人主体の「イスラム党」、
ハザラ人主体のシーア派勢力「イスラム統一党」
などが有力であった。結局、第一次内戦は1992年4月に派閥間の和平がなって終結し、1993年3月には和平文書が調印された。

第二次内戦
しかし、翌1994年1月には和平協定は破棄され、大規模な軍事衝突となった。この第二次内戦の最中に台頭したのが、イスラム原理主義勢力のターリバーンであった。当初のターリバーンはゲリラグループであったが、パキスタンから多大の支援を受けて勢力を伸ばし、パシュトゥーン人地域をほぼ支配下に置いた。そして1996年9月には圧倒的な軍事力をもって首都カーブルに入城してこれを制圧し、「アフガニスタン・イスラム首長国」の成立を宣言した。(中略)
 一方、北部のキルギス・タジキスタン国境に追い詰められたグループは北部同盟を結成してわずかな地域(バダフシャーン州)を拠点に反攻を続け、ターリバーンはこれを攻略できずに戦線は膠着した。2001年9月初めには北部同盟軍を指揮するマスード将軍が暗殺され、北部同盟には大きな痛手となった。
(後略)
最終更新 2008年8月5日 (火) 05:10

●イスラム原理主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
イスラム原理主義(イスラムげんりしゅぎ)は、イスラム的な政治・国家・社会のあり方の実現を目指す政治的活動を指す「イスラム主義 Islamism」の諸運動、あるいはムスリム(イスラム教徒)の宗教的・政治的な急進主義派、過激派を指す、批判的ニュアンスのこもった呼称である。

特色
一般にイスラム原理主義として非イスラム教徒によって理解されている運動は、コーラン(クルアーン)の無謬(むびゅう)を信じて厳密に字義どおり解釈し、預言者ムハンマドの時代のイスラム共同体を復興させようとするものである。

保守派ムスリムは、このような運動をイスラーム復興と総称することもある。また日本の親イスラーム的研究者の間では、イスラームの理念を国家・社会に実現しようとする政治的な運動はイスラーム主義と定義しており、「イスラム原理主義」の語を分析概念として用いるのは中立派若しくは対象に批判的な研究者に限られている。

また他宗教や無宗教、無神論に対する凄まじい憎悪でも特徴付けられ、『イスラーム以外の宗教や無神論・無宗教は皆間違い、地獄に落ちる』などという主張を行うのが通例である。[1]

語源
「イスラム原理主義」という日本語表現は、本来は、イラン革命などのイスラム法(シャリーア)による統治の復活を唱えるイスラム教徒による運動を指してアメリカなどで英語で「Islamic Fundamentalism」と呼んだものの日本語訳である。

Islamic Fundamentalism という語が用いられ、定着する以前においては、Fundamentalism(原理主義)という語はもっぱら、プロテスタントの中でも米国を中心とした一派で聖書に関して逐語霊感説をとり一字一句字義通りに理解し、千年王国の到来を固く信じる「Fundamentalist Christianity(ファンダメンタリスト・キリスト教)」、あるいは「Christian Fundamentalism(キリスト教根本主義)」を指した。ただし、日本のキリスト教界では「根本主義」という訳語が好まれており、「原理主義」というのは外部から用いられる呼称である。

イスラム教における宗教的な理念に基づく社会の実現を目指す運動は、イスラム教の共同体を原初の理想的な姿に回帰させることを志向しており、この点において、「千年王国」を強く意識したメシア信仰に基づく根本主義とは異なる[2]。

しかし、このようなイスラムにおける運動を、英語圏の人が英語によってとらえ、表現する際に、「宗教的な典範を第一原理とし、それをそのまま現実社会と結びつけようとする」という表象上の特色がキリスト教の根本主義に類似していることに着目し、「キリスト教の原理主義(根本主義) (Christian Fundamentalism)」と対比させて身近で直観的に理解されやすい「イスラム教の原理主義 (Islamic Fundamentalism)」の語が使われ始めたものである。


日本における「原理主義」のイメージと評価
キリスト教文化を共有していないにもかかわらず、「原理主義」の語が取り入れられた日本では、とりわけマスコミで「イスラム原理主義者のテロリズム」という報道が行われたために、この語が「政府の転覆を図る狂信者」「宗教テロ」のイメージと繋がりやすい傾向がある。これは、キリスト教原理主義の起こす北米の社会問題に比して、イスラム原理主義者に帰された国際テロ事件のほうが大きく、頻繁に報道される事による。

実際には、例えば、一般に「イスラム原理主義」として評価されることの多いワッハーブ主義を国是とするサウジアラビアが、穏健派の親米アラブ国家の代表格であるように、現実の政治の場では、イスラム原理主義=過激派と単純にとらえることはできない。

このために、そもそもイスラム主義、イスラム復興運動の全体を上述のような偏見に結びつく原理主義の語で捉えることを批判するイスラム研究者も少なくない。特に、イスラム原理主義と広く呼ばれる範疇に属する運動は、イスラム社会の広い範囲で見られ、ムスリムの間で一定の影響力を持っていることから、「イスラム原理主義のテロ」といったような言葉であらわされる暴力的な活動が、広範なムスリムに指示されているようなイメージが先行する傾向があることが批判される[3]。

一方、社会学的観点からは1970年代頃から世界的に高まっている様々な宗教の宗教復興の動きを広く総称する用語として「原理主義」「ファンダメンタリズム」を定義し、イスラム教の復興を「イスラム圏における原理主義」として世界的潮流の一部と捉える見方が支配的になっており、イスラム研究の立場と異なる。

しかし、上述のような理由により、「イスラム原理主義」という言葉の指し示す対象と範囲、その言葉の持つニュアンスについては、日常と学術の現場において「キリスト教原理主義」のそれよりもはるかに大きな乖離が発生しており、どのような立場に立つにせよ、その取り扱いに注意を要する。

1990年代頃から盛んに行われてきたイスラム研究者の発言は近年、日本の言論界やマスメディアにもある程度定着しており、「イスラム原理主義」の「過激派」が起こしたテロは、「イスラム原理主義者が起こしたテロ」ではなく「イスラム過激派が起こしたテロ」という表現が行われるようになってきた[4]。
(中略)
「イスラム過激派」という日本語の用語についても、厳密な定義がなされないまま用いられていることから問題視する日本人研究者も存在する。
(後略)
最終更新 2008年6月10日 (火) 08:38。
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