『30年の物語』岸恵子著 講談社 単行本 1999年11月初刷
この本は、全12編の短編集です。
12編のうちのひとつがヴェトナム人の実像を活写している短編で、彼女の感性が捉えたヴェトナムは、あまりにも日本から遠かった。《》は、引用。仏語はアクセントなしです。
《「プロローグ」
(前略)
近くで見た凱旋門は低く垂れこめた灰色の雲の下で泣いているように見えたし,建立者のナポレオンが、例の風変わりな帽子を被り、片手を軍服の胸に入れてあたりを睥睨(へいげい)しているようにも見えた。
なんだかさびしいな、と思った。美しくて立派だけど、こんなさびしい街には住みたくないな、とも思った。
そのときから二年近く経ち、私はパリの住人になった。そして四十二年の歳月が流れた。
これから読んでいただく十二の短編は、二、三のものを除いては、みんなパリが私の心に刻んだ物語である。なぜ『42年の物語』ではないのか....。心にわだかまる事件や人物、その背後に見え隠れするそれぞれの時代の光と影。それが刻んだ長い年月にわたって疼(うず)いた痛みやよろこびは、三十年ほど経つと、まるで潮が引くように、あるいは心変わりした潮の流れが思い思いの方向へ散ってゆくように記憶のなかを遠のいてゆく。消え去るのではなく、ある静かな風景として、あるいは、もう手を加えられたくはないある姿を作って心の中に沈殿する。だから『三十年の物語』とした。
三十年経っても、まだしたたかに心の中を立ち退かないしこりがあるとしたら、それはもう物語ではなく、その人物が外に晒(さら)したくない魂の在り処(ありか)。それを書く日が私にやってくることがあるだろうか.....。
1999 年十一月
岸 恵子》
「君はヴェトナムで、何も見なかった」 p145~170
Tu n'a rien vu au vietnam!
(要約)
《ヴェトナムの首都、ハノイの飛行場に着いたのは、1996年、三月三十一日の深夜のことだった。地球規模の異常気象のせいか、暑気を予告されていたハノイはひどく寒かった。
国連人口基金親善大使としてのはじめてのミッションである。それから飛ぶように流れた二週間という超過密スケジュールの中での記憶は、極端に、非日本的イメージによって彩(いろど)られることになる。
北のハノイと、南の大都会ホーチミン市(旧サイゴン)。
二つの都会の周辺の、農村や病院や工場や市場で見た、あまりにも過酷に蹂躙された人びとの、それゆえに克(か)ちとったにちがいない、しなやかな強さと、ものをはっきりと凝視する瞳の中の鋭い明るさに圧倒されて、日本へ帰って今日でちょうど二週間、同量の時間が経過しているのに私はまだ呆然としている。》
肺腑の底には、今も魚醤(ニヨツクマム)の匂いが生々しく居すわっている。《魚介類から採るというあの強烈な匂いの液体と私は、どうも相性がよくないらしい。》
「日本の醤油」は淡白で、《胃の奥に、よじれたように残るこしの重い魚醤の粘り気はない。調味料や香辛料は、入ってきた来たルートとは関係なく、その国の歴史や文化に矯(た)められて、その国独自の味を作る。魚醤には、中国をはじめとする、大陸に組みこまれたアジアの国の人々が通てきた、異民族とわたり合い、戦いや同盟をくぐりぬけてきた歴史が編んだしたたかな粘り気と油っこさがある。
肺腑の底に魚醤が。
耳の奥には、あの強靭にしてめげることなくつづく騒音が、今も居残ってる》
深夜の飛行場でひとしきりのセレモニーがあった。
《寒さに震えながら私は居こごちが悪かった。東洋人同士、という気安さが私には生まれてこなかった。私や同道してきた撮影班である日本人スタッフより、援助される側のヴェトナムの人たちのほうに、人間的な幅やゆとりを感じたのである。
そしてそれはその後につづく二週間、どこへ行っても感じた「かなわないな」という脱帽の心境への序曲であった。》
《セれモニーがやっと終わり、零時をとっくに廻ってしまった深夜の町に繰り出して、私はなつかしいと、としかいいようのない不思議な感慨にうたれた。
町は、亡霊のように貧しく美しく、仏国統治時代を思わせる瀟洒(しょうしゃ)な建物が朽ち果て、すがれ、こぬか雨なのか霧なのか、幻想的に濡れそぼり、闇夜にまだ賑わっている歩道に繰り出した屋台の、透き通った麺(めん)を啜る(すする)人々の周りに、橙色(だいだいいろ)のうす明かりが揺れていた。
「なつかしい!はじめてなのになぜかとてもなつかしい.....」
と私の秘書役をヴォランティアとして引き受けロスから飛んできた娘のデルフィーヌがつぶやいた。》
案内されたヨーロッパ風ホテルの部屋はだだっ広く、床は軋(きし)み、天井にはやもりが這(は)っていた。三十分ほど待ってバスタブに溜まったお湯は、日向水(ひなたみず)のようにぬるい。水圧が低いせいかもしれないと二階へ行こうと提案するとデルフィーヌに言われる。
デルフィーヌは三階にあがる螺旋階段の壁の傷、ぽっかり開いた穴を発見していたのだ。腐食していて、あったかい匂いがしたという。デルフィーヌは便利なものを嫌う娘。
その娘の視線がとらえた《深夜の首都・ハノイの町の四つ角に、霧雨にまみれて浮かんだ古ホテルの全容をなぞってみた。物哀しい風情の入り口ロビーは、通り過ぎて行った強国の、植民地化政策に与(くみ)した残滓なのだろう、さまざまな異文化が擦り切れて溶け合い、なぜかわからぬけだるい威厳を醸(かも)しだしていた。》
《フロントのカウンターは黒光りのする年代物で、その右脇にちょっといわく有り気な階段の入り口があった。歴史が刻んだ苦楽の声を聞き分けるように、娘のイマジネーションは広がっていったにちがいない。
二階へ上る階段は、かなり修復され絨毯もそれほど痛んでいないのに、三階へつづく幅広のゆったりした階段は、さながら、幾世代も遡(さかのぼ)ったように古色蒼然として、見ようによっては廃(すた)れ者(もの)の剛毅(ごうき)隣火がそこここに遊んでいるようでもあった。》
冷えた体を、ぬるいお湯の中であたため、やもりやむかでのようなものが這う床を、爪先立ちで走ってベッドへもぐりこみと、..あっと言う間に朝が来た。
その朝は《地面が唸(うな)るような騒音に満ちていた。大都会が立てる文化的、暴力的騒音ではなく、もっと素朴な、人力が軋(きし)む悲鳴に近い騒音である。》その騒音を掻(か)き分(わ)けるようにして、,《 翌朝第一日目の早朝から、表敬訪問や報告会、地元の女性ヴォランティア(なぜか女性が多かった)が人口基金の援助金を元手に活動しているさまざまな施設の視察や、夜昼おかずの食事会とそれにつづく討論会がびっしりと詰まっている。それらはいかにも公式訪問というかたちを整えた、双方の誠実と、儀礼的微笑と、熱のこもったスピーチが間断なく交錯し、フラッシュが焚(た)かれ、ニュース・キャメラが廻り、私の中で潮が引くように、急速に冷めてきた眼が焦点を失って宙に浮いた。》
こういう類(たぐい)のセレモニーがてんから苦手だった自分は、《うかうかと闇雲にお受けした「親善大使」という栄誉あるお役目は、到底私の柄ではなく、気分にもそぐわず早々に返上しなければ.....とこの時点では思った。》
《ハーバック省(著者注:現在はバクザン省とバクニン省に分割)タンイェン群ノックチャウ村へ行ったのはいつのことだったか....ハノイを出ると街道筋に野菜や、すでに干からびているような魚を並べた小さな屋台がひしめき合っている。曇り空の下に拡がる土埃(つちぼこり)の道で子供たちは大声で叫び、笑い、転げ回ってい遊んでいる。ものみなすべて、貧しく、生き生きと跳ねあがる。まだ十歳にも満たない少年や少女が担ぐ天秤棒の籠には、どこへ運ぶのか生活用品や土のついた野菜があふれ、荷車を曳(ひ)く女性達の腰は、アオザイの中でたおやかに撓(しな)る、ほっそりとしたハノイの女性たちよりずっと骨太でたくましく陽灼けた顔が光っている。》
街道の表や裏を縫うように蛇行している貧弱な線路の上を、《雑草がからみ廃棄された野捨ての線路かと思っていたら、名前を訊き忘れた幅の広い川の上の鉄橋を、驚いたことに、真っ黒に煤(すす)けて、左右の肩を咳き込むように軋ませながら亡霊のように頼りない姿で、古ぼけた列車がやってきた。》
のたりのたりと歩くほどの速度で、貨物列車かと思っていたら、窓の内側に鈴なりの人が見えた。
《「まさか、あれがヴェトナム・南北統一鉄道?じゃないわよね。あの姿で南のホーチミン市まで走れるわけないわよね」
と娘が言う。
「走るんだと思うわよ、乗ってみる価値あるわね。車内は凄まじいそうよ。網棚と網棚の間にハンモックが吊ってあって、人たちが縦、横、斜めに詰まっていて、食べて飲んで、デッキから野原に向けておしっこをして、乗務員は煤けた体を貨物車両に金だらいを持ちこんで、素っ裸でじゃぶじゃぶと洗うんですって」
と、私は『もの食う人びと』の中で辺見庸さんが書いているヴェトナム銀河鉄道の受け売りをした。
「銀河鉄道(トラン・ド・ヴォアラクテ)?」
娘が聞き咎(とが)めた。
「満天の中を走るんですって。眼が痛いほどに翡翠色(ひすいいろ)に輝く南シナ海の上も滑るように走るんですって」
私は好奇心を煽りたてた。
「ふ-ん、ホーチミン市までは飛行機じゃなく、この南北統一鉄道に乗りたいと、資料を読んでから思っていたわ」
「国連の視察団がそんな贅沢はできないかも知れないわ」
「何が贅沢なの!」
折りしも、やっとのことで鉄橋を渡りきったオンボロ列車の窓から一人の少年が体を乗り出し、自転車を必死で漕ぎながら列車を追いかける少年と大声で何か話し合っていた。
列車と自転車はほぼ同じ速度で走っているのだ。列車に飛び乗ることもできるはずである。自速二十キロか三十キロだろうか。
「そうか、これじゃ旧サイゴンまで三日も四日もかかるわね、スーパー贅沢ね」
娘は納得したようだ。
あとから思えば、この列車は南北統一鉄道ではなかったにちがいない。ハノイ発ホーチミン市行の汽車がハノイから北上すること約1時間の地点を走っているわけはないのだら.....。》
《悪道を揺られることさらに二時間ほど、ハーバック省タンイェン群ノックチャウ村に着いたのは昼少し前、農家を改良したような細長い平屋の中に診療所や集会所があり、若いカップルが実践している家族計画「二人っ子政策」についての会議は、お祭りのような賑わいだった。
田んぼの真ん中に建っているその診療所兼公民館のうようなところには、たしか電灯も灯っていなかったように思う。暗がりに眼がなれると、粗末な床机がコの字形にしつられ、二十組のほどの若いカップルがぎっしりと並び、好奇心丸出しの人の好さそうな顔で、私を眺めて笑いさざめいていた。多少の照れ臭さもあったのだろう。笑いは控え目で好意的だった。私は撮影班から手持ちマイクをもらった。親善大使なんかより、インタヴュアーのほうがよほど性に合っている。》
「今からキャメラを廻しますので、何方(どなた)か代表して、みなさんの家族計画の実情についてはなしてくださる?」」
すると、一人の若い女性が、すっくと立ち上がった。《あまりにも自然で悪びれないその華奢(きゃしゃ)な姿にみとれていると、もっと驚いたことに、彼女は澄んだ美しい声でうたいだしたのだった。視線を遠くへ結び、高く細く力強く、歌声は寒さに顴(ふる)える畑や水田の上を這うようにたなびいてゆく。水牛の角をつかんで梶(かじ)をとりながら、六、七歳の少年が腰まで浸った水田の中の野良仕事から歌声に顔をあげ、にこっと笑って手を振った。
一節終わると、一人立ち二人たち、最後にはみんなが立って大合唱となった。
いくら撮影技術が進歩したとは言え、真っ暗く狭い部屋では動きがとれない。キャメラの無言の要請に娘が若者たちを外へ誘導した。
みんな衒う(てら)うでもなく、水が流れるように外へ出て畑の中に輪を作った。
それはあまりにも自然でうつくしい連帯(ソリダリテ)の姿だった。わけもなく涙が頬を伝った。》
国連の通訳のナムさんが概要を訳してくれた。
《私の村は貧しかった
子だくさんで 耕地はなく 食べ物もなく病気ばかり
戦車の陰でふるえながら
学校へ行って勉強もできず明日もなく
幸せは いっときとしてやっては来なかった
こんな生活止めようね
子は少なく産んで 大事に育て
みんなで幸せになろうよ国も地球も一緒になって》
《訳されてしまうとただのプロパガンダにすぎないのに、切々とした澄んだかなしさが胸に沁みた。
この村にたった一人の看護婦さんという二十歳そこそこの女性に、出産後の母子を収容する病室をみせてもらって、また驚いてしまった。
入り口にドアはなく、吹っきさらしのガランとした部屋にゴツゴツと鉄骨の浮き出たベッドが五、六床、マットレスも毛布もなく、ただ荒編みの茣蓙(ござ)が一枚ずつハタハタと風に鳴っていた。
「ここの....このベッドで母親と新生児は寝るんですか?」
「イエス」
若い看護婦はつぶらな瞳で真っ直ぐに私を見た。何か不都合でも?と逆に問い質(ただ)されているようで、私は語尾に詰まった。
「太古から、女たちはこうして子供を産んできた。ベッドも毛布もなく、畑にしゃがみこんで、太陽に向かっていきんで、臍(へそ)の緒(お)も自分で切った」
背後から聞こえた男の声はフランス語だった。びっくりして振り向いた私の前に、筋肉質の中肉中背の男が、がっちりとした濃いシルエットを浮かせて立っていた。
その男が四十そこそこであることが私には解せなかった。ヴェトナムで流暢なフランス語をはなすのは五十歳以上の中高年か、よほどのインテリである。その男はインテリには見えなかった。もっといわく因縁のあるしたたかな丸顔に切れ長の細い眼が、笑うでもなく詰(なじ)るでもなくキラリと光って私を見据えていた。口元だけがほんの少しほころんでいた。
「ウィウィ、そのとおりね」
私は慌てると、途方もないことを言ってしまう。
「パール・バックの世界だわね、あの『大地』だったかしら、感動したわ」
「パール・バックの世界は、いまだに存在していますよ。地球の上は日本ばかりじゃないのでね」
意味の深い笑みを残して、男はよれよれのジャンパーに風を孕(はら)ませ田んぼのあぜ道を遠のいていった。
「あの人、誰?」
私は通訳のナムさんに訊いた。
「ああ、ヴィンさんです。凄く偉い人です。国連の日本側スタッフのごく一部には彼のよさがわからない人もいるようですが、ぼく、尊敬する人です」
どう凄いのか、それがどうしてわからないのかを訊く前に、私も娘もどうしてもトイレに行く必要が生じてしまった。》
ハノイを出たらトイレは大問題だから、覚悟して、と言われていた。
《「大丈夫、世界中のトイレ事情に通じる、私は唯一の日本女性よ」私は肩を聳(そび)やかした。
かなり遠くの畑の中に白壁で囲った建物がある。三方だけが壁で天井はなく、駆けこんだ私は棒立ちとなった。
”なんたるおおらかさ”八畳ほどの土間には壁から少し離れたところに一条の溝が掘ってあり、それを跨(また)いで十二、三人の若い女性が、白くて丸いお尻をくるりと剥(む)いてしょぼしょぼとあたたかい音を立てながら用を足し、おしゃべりに興じているのである。
怯(ひる)んだ私に、元気な声が飛んできた。
「マダム・大使!ご遠慮なく、そこの隅が空いています」
私は大抵のことにはたじろがない。蠍(さそり)が出るというナイル河畔の岩間でも、ギュワンギュワンと不気味な啼(わめき)声を立てる河馬の群れの湿地帯でも、ハイエナがうろつくサバンナでも、雲の流れや一番星を愛でながら平気でしょぼしょぼとできるのである。
ただ、囲いのなかの連帯(ソリダリテ)は駄目である。銭湯のような具合にはいかないのである。》
笑いをこらえたリンダがヴェトナム語で何か言ってくれたら、井戸端会議が一瞬止み、怪訝な顔がいっせいに私に集まり、誰かの一言でわっと沸き、いっせいに立ち退いてくれた。娘が私と共に入らず外で待っているのを見て、また賑やかな笑い声が起こった。
《「日本人って不便な人たちね、親子一緒も駄目だなんて、時間のロスねェ。生活はとどこおりなく進行するのかしら」という具合であったらしい。》
《白壁トイレの十メートル先に、地面に花模茣蓙を敷いて数人の若い主婦たちがあぐらを掻き、歌いながら拍子をとり、何かを盛んに揉んでいる。細かくよく動く指の間から零れ落ちるのは、粗くよれた緑茶なのだった。ハーバックはヴェトナム隋一のお茶の名所なのだそうである。》
《「マダムとマドモアゼルとハノイのリンダに揉みたてのお茶をご馳走したくて...」
息せききって、主婦は急須に湯を注ぎ、くるくると四、五回丁寧にゆすって、一番茶を地面に捨てこぼした・
「.....?}白壁トイレにはトイレット・ペーパーなどはなく、もちろん手を洗う水もない。そこから花茣蓙へ直行して揉まれた緑茶の、これはハーバック式消毒法なのだろうか。ともあれ、寒空の下、ヴェトナムの若い主婦たちが心をこめていれてくれたお茶は、これまでも、そしてたぶんこれからも他の土地では味わえない、すばらしい滋味と芳香で、私の心をぬっくりと温め、胃の底にはばかる魚醤の澱(おり)を清清しく洗いながしてくれた。》
明日はヴェトナムの大都会、資本主義的自由な熱気と退廃が氾濫しているにちがいないホーチミン市へ発つという日に、ハノイ市内の病院や施設を廻ることになった。
撮影班が同行することになり、あの謎めいた中肉中背のヴィンさんが撮影班つきのコーディネーター兼通訳であることを初めて知る。ルポルタージュを仕切るこれら優秀なコーディネーターは、ほぼ決まったように礼儀が正しく、親切丁寧、ネクタイをきちんと締めて、雇い主の脇をヒタとして離れない。
ヴィンさんは四十一歳。膝の出ただぼだぼのズボンの上にたっぷりとしたお腹を乗せ、よれたジャンパーにポロシャツ、酔眼朦朧(すいがんもうろう)とも思える細い三白眼が時折キラリと光る。茫洋とした風情の中に隙がない。撮影のため、かなり離れた場所で、我関せずとゆったりと腕を組んでいる。
《「あの人、ほんとうは何者?」
ナムさんは、ふっと言いよどんでからきっぱりと言った。
「抗米戦争のときの....」
「ヴェトナム戦争と私たちが言っている.....」
「ぼくたちにとっては抗米戦争です」
けだし当然であろう。
ヴィンさんは、北ヴェトナム情報部の筋金入りの闘士であったという。私は解けた謎に改めて納得した。》
《「戦争が終わって二十一年。その頃のヴィンさんは十九か二十歳でしょう」
「少年達でさえ戦車の下で銃をかまえたのよ」
と娘が言った。
万感こめて押し寄せる想念を払って、私はその日で見収めの、ヴェトナムの首都ハノイに見入った。》
《電気もガスも水道さえない。辺鄙な農村巡りが数日つづいたあとのハノイの町は道幅がことのほか広く、打ちすがれた建物とは対照的に街路樹のみどりが眼にしみるほど美しかった。そして、町は途轍(とてつ)もないエネルギーで沸き立っている。戦争の爪跡など踏みしだいて、アオザイをひるがえし自転車のペダルを漕ぐ女たち。人気ない曠野(こうや)を駆け抜けるように驀進するバイク。その間をクラクションを鳴らしつづけて反対車線に乗り入れたり、突如Uターンをする、まだそれほど多くはない自家用車やタクシー。北京や上海でもよく見かける光景だが、この町ではちょっとちがう。無秩序、無防備の混乱状態のようにも見えるがそうでもない。
池の王者鯛のような四輪自動車が鰭(ひれ)の向くまま、くねりと曲がると、金魚バイクやメダカ自転車が、図体だけが大きく、でも、決して覇者ではない四輪車の気紛れに、従うでもなく、盾突くでもなく実に柔軟に鯉をよけ、撓(しな)うような弧を描いてとどこおることなく流れてゆく。
なんと騒々しい整然さ。
これがヴェトナム社会主義共和国なんだ、とうっすらと了解する。》
もちろん事故は頻発し、一週間滞在したハノイで私たちの乗ったタクシーが二度衝突した。《私たちを乗せたタクシーが飛び出した子供を避けるため、道幅いっぱいに横滑りして止まると、後ろから来た別の車がどっしんと音を立て、横腹をえぐった。一番先に乗り込んだ私が、思わず自分の横腹を抱えるように飛び出すと、運転手も転げるように飛び出して、何かを叫びながら手を上げて疾走してゆく。
私たちが待たなくともすむように別のタクシーを呼び止めに行ってくれたのだった。そのうえ、止めたタクシーのドアまで開けて、私たちを招じ入れ、おもむろに追突車の運転手に笑顔を向けた。
「参っちゃうわね。凄いゆとりね」
私は呻(うめ)いてしまった。事故の目撃者証言なんてみみっちいことは無用であるらしい。
二度目のとき、私は乗っていなかった。国連ハノイ支部長のリンダと娘の酣(たけなわ)にはずんでいるフランス語がなつかしいと、年配の運転手さんが、まるっきり後ろ向きで話に興じてくるので、娘が思わず、「ときどきは前を見て運転してね」と遠慮しながら頼んだそうである。「オーララア、そうだった。ごめんよ」。運転手さんの朗らかな笑い声と、タクシーが歩道に乗り上げて何かの柱にぶつかったのは同時だったという。》
《このハノイ最後の日、あとから思えば消えいりたくなるほど恥ずかしい気紛れが私を捉えたのだ。信号機もない繁華街の四つ角で、縦横無尽にひしめき合う自転車の群れの中を、私はどうしても一人で向こう側に歩きついてみたくなったのだ。》
それを同伴取材班の人が撮りたいと言う。かなり無謀ではあったが、《私は鯉をよけて撓(しな)い泳ぐメダカさながら、卓越した運動神経ですいすいとわたりきれた!と、キャメラの三メートル前まで来て、自賛の笑みに、にったりと顔をほころばせた途端、少年二人乗りの自転車と、がっぷり正面衝突をしてしまった。》
《キャメラがあるからこその茶番劇よ。どうしてそんな無茶をするの。男の子たちのすまなそうな泣きべそをママンは見たの?」とデルフィーヌがなじった。》
右足に軽く傷がついただけなのに、皆が心配をしてかけよる。《その人垣のや自転車渋滞の間から、北ヴェトナム情報部の筋金入りのヴィンさんの面白そうに笑っている顔が見えた。ヴェトコンに所属した特殊部隊生え抜きのヴィンさん。仲間の大半はアメリカ兵によって殺害され、彼自身も何回か南に潜入して命を落としかけた。》
その彼にすれば、自転車にぶつかることは、娘の言うように茶番劇以外のなにものでもない。《彼はにっこりと笑ったまま道ばたの箱にどっしと坐っていて立ち上がることもしなかった。》それも、そのはず、彼はオンボロ靴を、物乞い同然の靴磨きの少年に、小銭を渡して磨かせてあげていたのである。
《私は胸の中に、ある小気味よささえ覚えた。死を賭して修羅場をかいくっぐきた人ならではの、ゆとりを見た思いで清清しかった。》
この本は、全12編の短編集です。
12編のうちのひとつがヴェトナム人の実像を活写している短編で、彼女の感性が捉えたヴェトナムは、あまりにも日本から遠かった。《》は、引用。仏語はアクセントなしです。
《「プロローグ」
(前略)
近くで見た凱旋門は低く垂れこめた灰色の雲の下で泣いているように見えたし,建立者のナポレオンが、例の風変わりな帽子を被り、片手を軍服の胸に入れてあたりを睥睨(へいげい)しているようにも見えた。
なんだかさびしいな、と思った。美しくて立派だけど、こんなさびしい街には住みたくないな、とも思った。
そのときから二年近く経ち、私はパリの住人になった。そして四十二年の歳月が流れた。
これから読んでいただく十二の短編は、二、三のものを除いては、みんなパリが私の心に刻んだ物語である。なぜ『42年の物語』ではないのか....。心にわだかまる事件や人物、その背後に見え隠れするそれぞれの時代の光と影。それが刻んだ長い年月にわたって疼(うず)いた痛みやよろこびは、三十年ほど経つと、まるで潮が引くように、あるいは心変わりした潮の流れが思い思いの方向へ散ってゆくように記憶のなかを遠のいてゆく。消え去るのではなく、ある静かな風景として、あるいは、もう手を加えられたくはないある姿を作って心の中に沈殿する。だから『三十年の物語』とした。
三十年経っても、まだしたたかに心の中を立ち退かないしこりがあるとしたら、それはもう物語ではなく、その人物が外に晒(さら)したくない魂の在り処(ありか)。それを書く日が私にやってくることがあるだろうか.....。
1999 年十一月
岸 恵子》
「君はヴェトナムで、何も見なかった」 p145~170
Tu n'a rien vu au vietnam!
(要約)
《ヴェトナムの首都、ハノイの飛行場に着いたのは、1996年、三月三十一日の深夜のことだった。地球規模の異常気象のせいか、暑気を予告されていたハノイはひどく寒かった。
国連人口基金親善大使としてのはじめてのミッションである。それから飛ぶように流れた二週間という超過密スケジュールの中での記憶は、極端に、非日本的イメージによって彩(いろど)られることになる。
北のハノイと、南の大都会ホーチミン市(旧サイゴン)。
二つの都会の周辺の、農村や病院や工場や市場で見た、あまりにも過酷に蹂躙された人びとの、それゆえに克(か)ちとったにちがいない、しなやかな強さと、ものをはっきりと凝視する瞳の中の鋭い明るさに圧倒されて、日本へ帰って今日でちょうど二週間、同量の時間が経過しているのに私はまだ呆然としている。》
肺腑の底には、今も魚醤(ニヨツクマム)の匂いが生々しく居すわっている。《魚介類から採るというあの強烈な匂いの液体と私は、どうも相性がよくないらしい。》
「日本の醤油」は淡白で、《胃の奥に、よじれたように残るこしの重い魚醤の粘り気はない。調味料や香辛料は、入ってきた来たルートとは関係なく、その国の歴史や文化に矯(た)められて、その国独自の味を作る。魚醤には、中国をはじめとする、大陸に組みこまれたアジアの国の人々が通てきた、異民族とわたり合い、戦いや同盟をくぐりぬけてきた歴史が編んだしたたかな粘り気と油っこさがある。
肺腑の底に魚醤が。
耳の奥には、あの強靭にしてめげることなくつづく騒音が、今も居残ってる》
深夜の飛行場でひとしきりのセレモニーがあった。
《寒さに震えながら私は居こごちが悪かった。東洋人同士、という気安さが私には生まれてこなかった。私や同道してきた撮影班である日本人スタッフより、援助される側のヴェトナムの人たちのほうに、人間的な幅やゆとりを感じたのである。
そしてそれはその後につづく二週間、どこへ行っても感じた「かなわないな」という脱帽の心境への序曲であった。》
《セれモニーがやっと終わり、零時をとっくに廻ってしまった深夜の町に繰り出して、私はなつかしいと、としかいいようのない不思議な感慨にうたれた。
町は、亡霊のように貧しく美しく、仏国統治時代を思わせる瀟洒(しょうしゃ)な建物が朽ち果て、すがれ、こぬか雨なのか霧なのか、幻想的に濡れそぼり、闇夜にまだ賑わっている歩道に繰り出した屋台の、透き通った麺(めん)を啜る(すする)人々の周りに、橙色(だいだいいろ)のうす明かりが揺れていた。
「なつかしい!はじめてなのになぜかとてもなつかしい.....」
と私の秘書役をヴォランティアとして引き受けロスから飛んできた娘のデルフィーヌがつぶやいた。》
案内されたヨーロッパ風ホテルの部屋はだだっ広く、床は軋(きし)み、天井にはやもりが這(は)っていた。三十分ほど待ってバスタブに溜まったお湯は、日向水(ひなたみず)のようにぬるい。水圧が低いせいかもしれないと二階へ行こうと提案するとデルフィーヌに言われる。
デルフィーヌは三階にあがる螺旋階段の壁の傷、ぽっかり開いた穴を発見していたのだ。腐食していて、あったかい匂いがしたという。デルフィーヌは便利なものを嫌う娘。
その娘の視線がとらえた《深夜の首都・ハノイの町の四つ角に、霧雨にまみれて浮かんだ古ホテルの全容をなぞってみた。物哀しい風情の入り口ロビーは、通り過ぎて行った強国の、植民地化政策に与(くみ)した残滓なのだろう、さまざまな異文化が擦り切れて溶け合い、なぜかわからぬけだるい威厳を醸(かも)しだしていた。》
《フロントのカウンターは黒光りのする年代物で、その右脇にちょっといわく有り気な階段の入り口があった。歴史が刻んだ苦楽の声を聞き分けるように、娘のイマジネーションは広がっていったにちがいない。
二階へ上る階段は、かなり修復され絨毯もそれほど痛んでいないのに、三階へつづく幅広のゆったりした階段は、さながら、幾世代も遡(さかのぼ)ったように古色蒼然として、見ようによっては廃(すた)れ者(もの)の剛毅(ごうき)隣火がそこここに遊んでいるようでもあった。》
冷えた体を、ぬるいお湯の中であたため、やもりやむかでのようなものが這う床を、爪先立ちで走ってベッドへもぐりこみと、..あっと言う間に朝が来た。
その朝は《地面が唸(うな)るような騒音に満ちていた。大都会が立てる文化的、暴力的騒音ではなく、もっと素朴な、人力が軋(きし)む悲鳴に近い騒音である。》その騒音を掻(か)き分(わ)けるようにして、,《 翌朝第一日目の早朝から、表敬訪問や報告会、地元の女性ヴォランティア(なぜか女性が多かった)が人口基金の援助金を元手に活動しているさまざまな施設の視察や、夜昼おかずの食事会とそれにつづく討論会がびっしりと詰まっている。それらはいかにも公式訪問というかたちを整えた、双方の誠実と、儀礼的微笑と、熱のこもったスピーチが間断なく交錯し、フラッシュが焚(た)かれ、ニュース・キャメラが廻り、私の中で潮が引くように、急速に冷めてきた眼が焦点を失って宙に浮いた。》
こういう類(たぐい)のセレモニーがてんから苦手だった自分は、《うかうかと闇雲にお受けした「親善大使」という栄誉あるお役目は、到底私の柄ではなく、気分にもそぐわず早々に返上しなければ.....とこの時点では思った。》
《ハーバック省(著者注:現在はバクザン省とバクニン省に分割)タンイェン群ノックチャウ村へ行ったのはいつのことだったか....ハノイを出ると街道筋に野菜や、すでに干からびているような魚を並べた小さな屋台がひしめき合っている。曇り空の下に拡がる土埃(つちぼこり)の道で子供たちは大声で叫び、笑い、転げ回ってい遊んでいる。ものみなすべて、貧しく、生き生きと跳ねあがる。まだ十歳にも満たない少年や少女が担ぐ天秤棒の籠には、どこへ運ぶのか生活用品や土のついた野菜があふれ、荷車を曳(ひ)く女性達の腰は、アオザイの中でたおやかに撓(しな)る、ほっそりとしたハノイの女性たちよりずっと骨太でたくましく陽灼けた顔が光っている。》
街道の表や裏を縫うように蛇行している貧弱な線路の上を、《雑草がからみ廃棄された野捨ての線路かと思っていたら、名前を訊き忘れた幅の広い川の上の鉄橋を、驚いたことに、真っ黒に煤(すす)けて、左右の肩を咳き込むように軋ませながら亡霊のように頼りない姿で、古ぼけた列車がやってきた。》
のたりのたりと歩くほどの速度で、貨物列車かと思っていたら、窓の内側に鈴なりの人が見えた。
《「まさか、あれがヴェトナム・南北統一鉄道?じゃないわよね。あの姿で南のホーチミン市まで走れるわけないわよね」
と娘が言う。
「走るんだと思うわよ、乗ってみる価値あるわね。車内は凄まじいそうよ。網棚と網棚の間にハンモックが吊ってあって、人たちが縦、横、斜めに詰まっていて、食べて飲んで、デッキから野原に向けておしっこをして、乗務員は煤けた体を貨物車両に金だらいを持ちこんで、素っ裸でじゃぶじゃぶと洗うんですって」
と、私は『もの食う人びと』の中で辺見庸さんが書いているヴェトナム銀河鉄道の受け売りをした。
「銀河鉄道(トラン・ド・ヴォアラクテ)?」
娘が聞き咎(とが)めた。
「満天の中を走るんですって。眼が痛いほどに翡翠色(ひすいいろ)に輝く南シナ海の上も滑るように走るんですって」
私は好奇心を煽りたてた。
「ふ-ん、ホーチミン市までは飛行機じゃなく、この南北統一鉄道に乗りたいと、資料を読んでから思っていたわ」
「国連の視察団がそんな贅沢はできないかも知れないわ」
「何が贅沢なの!」
折りしも、やっとのことで鉄橋を渡りきったオンボロ列車の窓から一人の少年が体を乗り出し、自転車を必死で漕ぎながら列車を追いかける少年と大声で何か話し合っていた。
列車と自転車はほぼ同じ速度で走っているのだ。列車に飛び乗ることもできるはずである。自速二十キロか三十キロだろうか。
「そうか、これじゃ旧サイゴンまで三日も四日もかかるわね、スーパー贅沢ね」
娘は納得したようだ。
あとから思えば、この列車は南北統一鉄道ではなかったにちがいない。ハノイ発ホーチミン市行の汽車がハノイから北上すること約1時間の地点を走っているわけはないのだら.....。》
《悪道を揺られることさらに二時間ほど、ハーバック省タンイェン群ノックチャウ村に着いたのは昼少し前、農家を改良したような細長い平屋の中に診療所や集会所があり、若いカップルが実践している家族計画「二人っ子政策」についての会議は、お祭りのような賑わいだった。
田んぼの真ん中に建っているその診療所兼公民館のうようなところには、たしか電灯も灯っていなかったように思う。暗がりに眼がなれると、粗末な床机がコの字形にしつられ、二十組のほどの若いカップルがぎっしりと並び、好奇心丸出しの人の好さそうな顔で、私を眺めて笑いさざめいていた。多少の照れ臭さもあったのだろう。笑いは控え目で好意的だった。私は撮影班から手持ちマイクをもらった。親善大使なんかより、インタヴュアーのほうがよほど性に合っている。》
「今からキャメラを廻しますので、何方(どなた)か代表して、みなさんの家族計画の実情についてはなしてくださる?」」
すると、一人の若い女性が、すっくと立ち上がった。《あまりにも自然で悪びれないその華奢(きゃしゃ)な姿にみとれていると、もっと驚いたことに、彼女は澄んだ美しい声でうたいだしたのだった。視線を遠くへ結び、高く細く力強く、歌声は寒さに顴(ふる)える畑や水田の上を這うようにたなびいてゆく。水牛の角をつかんで梶(かじ)をとりながら、六、七歳の少年が腰まで浸った水田の中の野良仕事から歌声に顔をあげ、にこっと笑って手を振った。
一節終わると、一人立ち二人たち、最後にはみんなが立って大合唱となった。
いくら撮影技術が進歩したとは言え、真っ暗く狭い部屋では動きがとれない。キャメラの無言の要請に娘が若者たちを外へ誘導した。
みんな衒う(てら)うでもなく、水が流れるように外へ出て畑の中に輪を作った。
それはあまりにも自然でうつくしい連帯(ソリダリテ)の姿だった。わけもなく涙が頬を伝った。》
国連の通訳のナムさんが概要を訳してくれた。
《私の村は貧しかった
子だくさんで 耕地はなく 食べ物もなく病気ばかり
戦車の陰でふるえながら
学校へ行って勉強もできず明日もなく
幸せは いっときとしてやっては来なかった
こんな生活止めようね
子は少なく産んで 大事に育て
みんなで幸せになろうよ国も地球も一緒になって》
《訳されてしまうとただのプロパガンダにすぎないのに、切々とした澄んだかなしさが胸に沁みた。
この村にたった一人の看護婦さんという二十歳そこそこの女性に、出産後の母子を収容する病室をみせてもらって、また驚いてしまった。
入り口にドアはなく、吹っきさらしのガランとした部屋にゴツゴツと鉄骨の浮き出たベッドが五、六床、マットレスも毛布もなく、ただ荒編みの茣蓙(ござ)が一枚ずつハタハタと風に鳴っていた。
「ここの....このベッドで母親と新生児は寝るんですか?」
「イエス」
若い看護婦はつぶらな瞳で真っ直ぐに私を見た。何か不都合でも?と逆に問い質(ただ)されているようで、私は語尾に詰まった。
「太古から、女たちはこうして子供を産んできた。ベッドも毛布もなく、畑にしゃがみこんで、太陽に向かっていきんで、臍(へそ)の緒(お)も自分で切った」
背後から聞こえた男の声はフランス語だった。びっくりして振り向いた私の前に、筋肉質の中肉中背の男が、がっちりとした濃いシルエットを浮かせて立っていた。
その男が四十そこそこであることが私には解せなかった。ヴェトナムで流暢なフランス語をはなすのは五十歳以上の中高年か、よほどのインテリである。その男はインテリには見えなかった。もっといわく因縁のあるしたたかな丸顔に切れ長の細い眼が、笑うでもなく詰(なじ)るでもなくキラリと光って私を見据えていた。口元だけがほんの少しほころんでいた。
「ウィウィ、そのとおりね」
私は慌てると、途方もないことを言ってしまう。
「パール・バックの世界だわね、あの『大地』だったかしら、感動したわ」
「パール・バックの世界は、いまだに存在していますよ。地球の上は日本ばかりじゃないのでね」
意味の深い笑みを残して、男はよれよれのジャンパーに風を孕(はら)ませ田んぼのあぜ道を遠のいていった。
「あの人、誰?」
私は通訳のナムさんに訊いた。
「ああ、ヴィンさんです。凄く偉い人です。国連の日本側スタッフのごく一部には彼のよさがわからない人もいるようですが、ぼく、尊敬する人です」
どう凄いのか、それがどうしてわからないのかを訊く前に、私も娘もどうしてもトイレに行く必要が生じてしまった。》
ハノイを出たらトイレは大問題だから、覚悟して、と言われていた。
《「大丈夫、世界中のトイレ事情に通じる、私は唯一の日本女性よ」私は肩を聳(そび)やかした。
かなり遠くの畑の中に白壁で囲った建物がある。三方だけが壁で天井はなく、駆けこんだ私は棒立ちとなった。
”なんたるおおらかさ”八畳ほどの土間には壁から少し離れたところに一条の溝が掘ってあり、それを跨(また)いで十二、三人の若い女性が、白くて丸いお尻をくるりと剥(む)いてしょぼしょぼとあたたかい音を立てながら用を足し、おしゃべりに興じているのである。
怯(ひる)んだ私に、元気な声が飛んできた。
「マダム・大使!ご遠慮なく、そこの隅が空いています」
私は大抵のことにはたじろがない。蠍(さそり)が出るというナイル河畔の岩間でも、ギュワンギュワンと不気味な啼(わめき)声を立てる河馬の群れの湿地帯でも、ハイエナがうろつくサバンナでも、雲の流れや一番星を愛でながら平気でしょぼしょぼとできるのである。
ただ、囲いのなかの連帯(ソリダリテ)は駄目である。銭湯のような具合にはいかないのである。》
笑いをこらえたリンダがヴェトナム語で何か言ってくれたら、井戸端会議が一瞬止み、怪訝な顔がいっせいに私に集まり、誰かの一言でわっと沸き、いっせいに立ち退いてくれた。娘が私と共に入らず外で待っているのを見て、また賑やかな笑い声が起こった。
《「日本人って不便な人たちね、親子一緒も駄目だなんて、時間のロスねェ。生活はとどこおりなく進行するのかしら」という具合であったらしい。》
《白壁トイレの十メートル先に、地面に花模茣蓙を敷いて数人の若い主婦たちがあぐらを掻き、歌いながら拍子をとり、何かを盛んに揉んでいる。細かくよく動く指の間から零れ落ちるのは、粗くよれた緑茶なのだった。ハーバックはヴェトナム隋一のお茶の名所なのだそうである。》
《「マダムとマドモアゼルとハノイのリンダに揉みたてのお茶をご馳走したくて...」
息せききって、主婦は急須に湯を注ぎ、くるくると四、五回丁寧にゆすって、一番茶を地面に捨てこぼした・
「.....?}白壁トイレにはトイレット・ペーパーなどはなく、もちろん手を洗う水もない。そこから花茣蓙へ直行して揉まれた緑茶の、これはハーバック式消毒法なのだろうか。ともあれ、寒空の下、ヴェトナムの若い主婦たちが心をこめていれてくれたお茶は、これまでも、そしてたぶんこれからも他の土地では味わえない、すばらしい滋味と芳香で、私の心をぬっくりと温め、胃の底にはばかる魚醤の澱(おり)を清清しく洗いながしてくれた。》
明日はヴェトナムの大都会、資本主義的自由な熱気と退廃が氾濫しているにちがいないホーチミン市へ発つという日に、ハノイ市内の病院や施設を廻ることになった。
撮影班が同行することになり、あの謎めいた中肉中背のヴィンさんが撮影班つきのコーディネーター兼通訳であることを初めて知る。ルポルタージュを仕切るこれら優秀なコーディネーターは、ほぼ決まったように礼儀が正しく、親切丁寧、ネクタイをきちんと締めて、雇い主の脇をヒタとして離れない。
ヴィンさんは四十一歳。膝の出ただぼだぼのズボンの上にたっぷりとしたお腹を乗せ、よれたジャンパーにポロシャツ、酔眼朦朧(すいがんもうろう)とも思える細い三白眼が時折キラリと光る。茫洋とした風情の中に隙がない。撮影のため、かなり離れた場所で、我関せずとゆったりと腕を組んでいる。
《「あの人、ほんとうは何者?」
ナムさんは、ふっと言いよどんでからきっぱりと言った。
「抗米戦争のときの....」
「ヴェトナム戦争と私たちが言っている.....」
「ぼくたちにとっては抗米戦争です」
けだし当然であろう。
ヴィンさんは、北ヴェトナム情報部の筋金入りの闘士であったという。私は解けた謎に改めて納得した。》
《「戦争が終わって二十一年。その頃のヴィンさんは十九か二十歳でしょう」
「少年達でさえ戦車の下で銃をかまえたのよ」
と娘が言った。
万感こめて押し寄せる想念を払って、私はその日で見収めの、ヴェトナムの首都ハノイに見入った。》
《電気もガスも水道さえない。辺鄙な農村巡りが数日つづいたあとのハノイの町は道幅がことのほか広く、打ちすがれた建物とは対照的に街路樹のみどりが眼にしみるほど美しかった。そして、町は途轍(とてつ)もないエネルギーで沸き立っている。戦争の爪跡など踏みしだいて、アオザイをひるがえし自転車のペダルを漕ぐ女たち。人気ない曠野(こうや)を駆け抜けるように驀進するバイク。その間をクラクションを鳴らしつづけて反対車線に乗り入れたり、突如Uターンをする、まだそれほど多くはない自家用車やタクシー。北京や上海でもよく見かける光景だが、この町ではちょっとちがう。無秩序、無防備の混乱状態のようにも見えるがそうでもない。
池の王者鯛のような四輪自動車が鰭(ひれ)の向くまま、くねりと曲がると、金魚バイクやメダカ自転車が、図体だけが大きく、でも、決して覇者ではない四輪車の気紛れに、従うでもなく、盾突くでもなく実に柔軟に鯉をよけ、撓(しな)うような弧を描いてとどこおることなく流れてゆく。
なんと騒々しい整然さ。
これがヴェトナム社会主義共和国なんだ、とうっすらと了解する。》
もちろん事故は頻発し、一週間滞在したハノイで私たちの乗ったタクシーが二度衝突した。《私たちを乗せたタクシーが飛び出した子供を避けるため、道幅いっぱいに横滑りして止まると、後ろから来た別の車がどっしんと音を立て、横腹をえぐった。一番先に乗り込んだ私が、思わず自分の横腹を抱えるように飛び出すと、運転手も転げるように飛び出して、何かを叫びながら手を上げて疾走してゆく。
私たちが待たなくともすむように別のタクシーを呼び止めに行ってくれたのだった。そのうえ、止めたタクシーのドアまで開けて、私たちを招じ入れ、おもむろに追突車の運転手に笑顔を向けた。
「参っちゃうわね。凄いゆとりね」
私は呻(うめ)いてしまった。事故の目撃者証言なんてみみっちいことは無用であるらしい。
二度目のとき、私は乗っていなかった。国連ハノイ支部長のリンダと娘の酣(たけなわ)にはずんでいるフランス語がなつかしいと、年配の運転手さんが、まるっきり後ろ向きで話に興じてくるので、娘が思わず、「ときどきは前を見て運転してね」と遠慮しながら頼んだそうである。「オーララア、そうだった。ごめんよ」。運転手さんの朗らかな笑い声と、タクシーが歩道に乗り上げて何かの柱にぶつかったのは同時だったという。》
《このハノイ最後の日、あとから思えば消えいりたくなるほど恥ずかしい気紛れが私を捉えたのだ。信号機もない繁華街の四つ角で、縦横無尽にひしめき合う自転車の群れの中を、私はどうしても一人で向こう側に歩きついてみたくなったのだ。》
それを同伴取材班の人が撮りたいと言う。かなり無謀ではあったが、《私は鯉をよけて撓(しな)い泳ぐメダカさながら、卓越した運動神経ですいすいとわたりきれた!と、キャメラの三メートル前まで来て、自賛の笑みに、にったりと顔をほころばせた途端、少年二人乗りの自転車と、がっぷり正面衝突をしてしまった。》
《キャメラがあるからこその茶番劇よ。どうしてそんな無茶をするの。男の子たちのすまなそうな泣きべそをママンは見たの?」とデルフィーヌがなじった。》
右足に軽く傷がついただけなのに、皆が心配をしてかけよる。《その人垣のや自転車渋滞の間から、北ヴェトナム情報部の筋金入りのヴィンさんの面白そうに笑っている顔が見えた。ヴェトコンに所属した特殊部隊生え抜きのヴィンさん。仲間の大半はアメリカ兵によって殺害され、彼自身も何回か南に潜入して命を落としかけた。》
その彼にすれば、自転車にぶつかることは、娘の言うように茶番劇以外のなにものでもない。《彼はにっこりと笑ったまま道ばたの箱にどっしと坐っていて立ち上がることもしなかった。》それも、そのはず、彼はオンボロ靴を、物乞い同然の靴磨きの少年に、小銭を渡して磨かせてあげていたのである。
《私は胸の中に、ある小気味よささえ覚えた。死を賭して修羅場をかいくっぐきた人ならではの、ゆとりを見た思いで清清しかった。》