とおいひのうた いまというひのうた

自分が感じてきたことを、順不同で、ああでもない、こうでもないと、かきつらねていきたいと思っている。

「君はヴェトナムで、何も見なかった」岸恵子 2

2007年01月11日 09時44分53秒 | 読書感想
 こうしたヴィンさんの態度は、勤勉かつ真面目さを良しとする国連日本人のスタッフの一部に不評を買った。36歳である私個人の通訳であるナムさんは、私だけでなく使節団全員に気を配り、昼夜身を粉にして働いてくれた。それと比較されたりした。《それは二人の生きてきた轍(わだち)が決めたそれぞれの個性なのだ。加えて言えば、ヴィンさんはナムさんより五歳年長である。あの時代の五年間の差は、平時とはちがい計り知れない体験上の差があるにちがいないのだ。ヴィンさんは、たとえ支援を受けている国連側の提案でも、ヴェトナムが利しない言動には断じて与(くみ)しなかったという。
そのヴィンさんは、仲間を殺したアメリカ人たちさえも恨んではいないという。アメリカ兵たちも傷ついた。悪いのは戦争を起こす「国」や「政府」という怪物だ。》

《戦争が終わって21年。南北統一から二十年。貧しさを蹴散らし、中国やフランスや日本や、そしてあのヴェトナム戦争さえももう振りかえってはいられない。決して忘れはしないが、長いヴェトナムの歴史の中の、抗米戦争なんて、ほんのちっぽけなひとこまにしかすぎない、とヴィンさんは言ったそうだ。
 そのちっぽけなひとこまの間に、戦争が人間に課した災害はあまりにも大きい。》
ハーバークを訪れた時、黒く長いサトウキビを売っていた十数人のあどけない少女の中に、手首や足首が直角に曲がっている子がいたと、デルフィーヌは言う。
《アメリカ軍は十年間に南ヴェトナムだけで九トンの枯葉剤を撒(ま)いたという。それによる不幸な結果は加害者であるヴェトナム帰りのアメリカ兵の個々の上に、そして日本でもおなじみの二重胎児であったベト君、ドク君の上に、また重度障害を受けて、ホーチミン市内にある、ツーズー病院の鳳(フオン)博士の太陽のようにあたたかい笑顔のもとに保護されている腕のない子、両足が湾曲して立てない子らの上に、あまりにも無残に刻印されている。
 鳳博士の院長室で、松葉杖をつき元気にコンピューターの勉強をしている十五歳になったドク君に逢った。そのドク君を救うために体のほとんどの機能が停止し、スイスから来たヴォランティアの看護婦さんにスプーンで食物を運ばれているベト君は、顔だけが異様に大きく、うつろな瞳がガラス玉のように動かなかった。
 けれど、両手のない子、両足が膝から外側へ直角に曲がって立つことも坐ることもできない子らは、つぶらな瞳で話しかけ、体が毀(こわ)れるのではないかと思うほど曲がった手足をゆすって力いっぱいの笑い声をあげるのだった。》

 未熟児、奇形児室の粗末な箱ベッドの前で母娘は立ちすくむ。《上唇が裂けてその裂け目に醜い肉塊が盛り上がっている。あまりの恐ろしさに若い母親はこの子を捨てて逃げたのだという》赤子は、小さな体を顫(ふる)わせて泣いていた。二週間のヴェトナム滞在中に、《戦争がなした悪行と、その自らの悲運を、わが生命あらん限り、といった底力のある悲鳴で訴えていたのは、この生後二週間の女児だけであった。》
 《私たちの世代は戦争をテレヴィの映像でしか知らないのよ。湾岸戦争もサラエボもあのひどいルワンダの部族虐殺も....。ヴェトナムを見てよかったわ」
 ロスへ帰る前に日本に立ち寄ったデルフィーヌが言った。
「枯葉剤の後遺症はひどいわね。トイレや飲料水もない農村地帯の貧しさもたいへんね」
 私が言うと、デルフィーヌは眼を見ひらいて私を見た。
「ママン!日本と比べては世界は見えないよ。地球の半分以上はヴェトナムよりもずっと貧しいわ」
「知っているよ、そのぐらい」
「それに私が南のホーチミン市の隅々で見たのは枯葉剤の後遺症だけじゃなくて、足が地雷で吹き飛ばされた人や、実戦で腕や下半身を失くした人たちよ、市場であなたがインタビューしていた周りにも四、五人はいたわ」
 今度は私が眼を見ひらいた。私の眼に入ってこなかったのだ。
「足や手や、両眼さえも失った人たちをたくさん見て、戦争という概念でしかとらえなかったものがリアリティを持ったの。しかもその人たちはまだとても若く、十五、六で銃を持っていた少年少女は、ナムさんのように今三十五、六歳よ。そして普通の生活をしている。はじめはそれが夢かテレヴィの中のことのようで凄くショックだった」》
 それは、自分がイラクとの聖戦で地雷探知機のように前線に繰り出され、片手片足を失った少年からタマゴを買った時の衝撃と同じなのだろう。その時は、一人旅だった。

《親善大使って、結局は公式訪問の政治家みたいにキャメラや政府の要人に囲まれて、見えないものがたくさんあるんだ....。ママンはヴェトナムの表を身、あたしは朝早くから自転車で裏通りにまで踏みこむ時間があったの」
 デルフィーネは、ある有名な科白(せりふ)をもじって私をやさしくからかった。
「Tu n(a rien vu au Vietnam!(君はヴェトナムで何も見なかった)
 その昔、アラン・レネというフランスの監督が日本へ来て作った「Hirosima mon amour(広島、わが愛)」(邦題「二十4時間の情事」の中で、岡田英次扮する日本人青年が、フランス女性の恋人に、再三つぶやいたこの科白がヨーロッパで大流行したことを、シネフィル(映画通)である娘は知っていたのだ。それは映画のライトモチーフだった。
「Tu n'a rien vu a Hirosima!(君は、広島で何も見なかった)》

ヴィンさんは、どうしているかと気にかかる。ホーチミン市ではみかけなかったような気がするが、記憶が混濁している。

《「ママンが馬鹿なけがをしてちょっとばかり血を流したときのヴィンさんは素敵だったわね。ママンは見なかった?あのときの靴磨きの男の子の右足は股の途中から失かったのよ」》

悔恨が胸にわだかまる。あの軽率な事故のあとヴィンさんの姿を見かけなくなった気がする。

《「それが何ほどのことです。」
と言うヴィンさんの声が聴こえる気がする。
「私はミッションの最後の瞬間までいましたよ。ただ、私はほんとうに私自身が必要とされている時を自分で判断し、それによって行動するのでお眼にとまらなかったのでしょう」
 と言っているような気がする。
 祖国のため、自らの信念のため、二十歳そこそこの若い命を賭して戦ったヴィンさん。国連人口基金親善大使、などというしゃらくさい肩書きを背負って、アメリカとの安保条約の傘下、ときには同じアジアの国々を軽んじて独自路線のごときものをゆく、おとぎの国ニッポンからやって来た私の失策など、ほんの一秒間さえも彼の記憶の中に住まうことはできなかったのだろう。
 娘の指摘した「私の見なかったヴェトナムの過去と現在を、個人レヴェルで見にきたいと思う。
 過去を決して忘れはしないがこだわってばかりもいない。と言ったヴィンさんのうっすらとした笑みと、茫洋としたたたずまいの中に、自分とヴェトナムの過去をしっかりと畳みこんでいる姿をもう一度見てみたいと思う。
 はなしはしなくててもいい。あの優しくて恐いほど鋭い眼をしっかりと見てみたい。
 屈辱と憤りに刻まれた傷痕を、ゆっくりと咀嚼(そしゃく)した、顔も姿も、たっぷりとしたお腹もすべてまあるいヴィンさんの体は、いざという時には鋼鉄(はがね)のように強靭で、柳のようにやわらかく撓(しな)うのではないかと思う。
 彼は過去を憎しみの糧(かて)とせず、明日への尊い命綱として温存している、真の意味で東洋的な哲学を会得した人なのだろう。
 恩讐の彼方に....と言ってすべてを赦(ゆる)し水に流すのも東洋的美学であるけれど、水に流すものの実体にさえ頓着(とんちゃく)しない傾向は恐ろしい。
 過去をひもとかない国に、よい明日はないと私は思っている。》

           完

★独特の味わいを持つ岸さんの文章を、「要約」という形で「骨」にしてしまうことができなかった。「肉」を是非、残したかった。結果的に、引用だらけになってしまった。読書感想と言っておきながら、私には一言も感想を述べることができない。
うちひしがれたように、「浜田省吾」のアルバムを聴きつづけた。勝利も敗北もない歌を。
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