2/24(木)、ロシアのウクライナ侵攻によって始まった戦争。
このニュースを知った直後は本当にショックが大きすぎてまったく気持ちが整理できずにいましたが、少しずつ言葉にしていくことにします。
自分は専門家ではないので、戦争の現状や今後の予測について語ることは避けます(というか、そんなことは語れないし、語る資格もない)。
あくまで自分は、あらゆる戦争に反対する一人の人間として、自分の気持ちを言葉にしていくことにします。
まず、この戦争で命を奪われたウクライナで暮らす皆さん、そして戦死されたロシア、ウクライナ両国の兵士の皆さんに、哀悼の意を表します。
これ以上この戦争で命が奪われないこと、一刻も早く戦争が終わって平和が訪れることを強く願います。
自由と生活を奪われたウクライナの皆さんに、一刻も早く平和な生活が戻ることを願います。
そして、戦争反対と勇気を持って声を上げたロシアの皆さんの自由がこれ以上奪われないことを願います。
国家が国民に殺人を強要し、国民から自由と平和と命を奪う戦争を肯定できるものは、いかなる理由があろうが存在しません。
あらゆる戦争に強く反対し、戦争のない世界、核兵器のない世界の実現を強く望みます。
戦争が起きれば必ず誰かが命を奪われる、それは僕があらゆる戦争に反対する最大の理由です。
そしてその死は、いくら軍事力があっても防げるものではないと考えます。
戦争のない世界の実現のために必要なのは、戦争を未然に防ぐための外交努力であると僕は考えます。
同時に、戦争放棄を定めた憲法9条が日本に存在する意味もあらためて考えさせられます。
ウクライナでの戦争を受け、日本国内でも世界でも多くの人達が「戦争反対」と声を上げています。
しかし、日本の一部で、「戦争反対」と声を上げる人達に対する冷笑があったと聞きました。
確かに、「戦争反対」と言ったところで今起きている戦争は止められないのかもしれません。
しかし、「戦争反対」と言う人を馬鹿にするような風潮が広まれば正しい言葉が意味を失い、国の秩序が内部から乱れていくことは起こりうると思います。
人間の表現の自由、言論の自由を守ることは、戦争のない平和な世界を実現するために必要不可欠なことです
その自由を奪うことは、平和を遠ざけ戦争を肯定することに繋がりかねません。
これ以上の戦争を起こさないためにも、真面目に「戦争反対」と言い続けることには意味があり、そういう人を決して馬鹿にしてはいけないと強く思います。
僕は何度でも、「戦争反対」と言葉にすることにします。
「戦争反対」と声を上げても自由や命を脅かされる危険のない日本は、何だかんだでまだ平和なのだと思います。
しかし、そうではない国もあります。
現にロシアでは、ロシアでは、「戦争反対」と声を上げた人達が逮捕されています。
「戦争反対」と声を上げることは、平和な国に暮らす人の務めなのではないでしょうか。
ところで、コロナ禍になって2年が経ちましたが、この現実を落ち着いて受け止められるようになるまで、自分は丸2年かかったという実感があります。
今の時代、手軽にネットなどで簡単に答えだけを得ようとするような風潮ありますが、やっぱり人間、時間をかけて経験して自分の頭で考えないと分からないものはあると思います。
なので、今は戦争に反対すること、平和を祈ることしかできないとしても、それはまったくの無意味ではない。
忘れずにいること、考え続けることで、長い時間をかけて見えてくるものもある。
今日で世界が終わるわけではありません
寧ろ、今日で世界を終わらせないためにも、戦争反対と声を上げ、平和を祈り続けることには大きな意味があると考えます。
その一方で、「現実から目を背けるな」という自分の考えと矛盾するようですが、テレビもネットも戦争の話題ばかりで気が滅入る人もいると思うので、そういう時はテレビやネットから離れて心を休めたらいいと思います。
心が壊れたら意味がないので、まずは自分の身の安全を大切にしてほしいです。
とはいえ、自分はそんな立派なことを主張できるほどの人間なのだろうか…という気持ちも少しあるのですが、それでも「戦争反対」は言い続けていくことにします。
個人的なことを言えば、自分の利益や欲望のためだけに他人を利用したり、自分に不都合な人間や気に入らない人間を否定したり攻撃したりするのは、自分が他人に対して行う戦争みたいなものだと思うので、自分がそうならないように気を付けるってことから始める必要があるのかもしれません、自分にとっての「戦争反対」は。
この写真は、新潟現代美術家集団GUNの展示会場でもらった反戦カードです。
1960~70年代に活動していた新潟現代美術家集団GUNのことは、中学校の美術の資料集で知って興味を持ったのですが、その展示が10年前に新潟県立近代美術館でありました。
当時は学生運動の影響などもあって美術と社会運動が近い場所にあり、美術という表現で社会と向き合う彼らの姿勢に強く感動した自分は、今でも大きな影響を受けています。
反戦の強い願いは自分の中にずっとあります。
また、かつて政治家だった時に若者に対して「政治に意見するなら自分が政治家になれ」と言った人物がいたそうですが、その人物が今度は「戦争に反対するなら自分が戦地に行け」という内容の発言をしたそうです。
どちらも人が社会に意見する自由を奪う卑怯な発言だと思います。
というわけで、最後に僕がたびたびツイートしている、小沢健二さんの言葉を載せておきます。
これを読むと、「対案がないなら批判をするな」は間違いだということがよく分かります。
#戦争反対
#ロシアのウクライナ侵攻に抗議する
#あらゆる戦争に反対します
#NoWar
#StandWithUkraine
#нетвойне
#Противійни
このニュースを知った直後は本当にショックが大きすぎてまったく気持ちが整理できずにいましたが、少しずつ言葉にしていくことにします。
自分は専門家ではないので、戦争の現状や今後の予測について語ることは避けます(というか、そんなことは語れないし、語る資格もない)。
あくまで自分は、あらゆる戦争に反対する一人の人間として、自分の気持ちを言葉にしていくことにします。
まず、この戦争で命を奪われたウクライナで暮らす皆さん、そして戦死されたロシア、ウクライナ両国の兵士の皆さんに、哀悼の意を表します。
これ以上この戦争で命が奪われないこと、一刻も早く戦争が終わって平和が訪れることを強く願います。
自由と生活を奪われたウクライナの皆さんに、一刻も早く平和な生活が戻ることを願います。
そして、戦争反対と勇気を持って声を上げたロシアの皆さんの自由がこれ以上奪われないことを願います。
国家が国民に殺人を強要し、国民から自由と平和と命を奪う戦争を肯定できるものは、いかなる理由があろうが存在しません。
あらゆる戦争に強く反対し、戦争のない世界、核兵器のない世界の実現を強く望みます。
戦争が起きれば必ず誰かが命を奪われる、それは僕があらゆる戦争に反対する最大の理由です。
そしてその死は、いくら軍事力があっても防げるものではないと考えます。
戦争のない世界の実現のために必要なのは、戦争を未然に防ぐための外交努力であると僕は考えます。
同時に、戦争放棄を定めた憲法9条が日本に存在する意味もあらためて考えさせられます。
ウクライナでの戦争を受け、日本国内でも世界でも多くの人達が「戦争反対」と声を上げています。
しかし、日本の一部で、「戦争反対」と声を上げる人達に対する冷笑があったと聞きました。
確かに、「戦争反対」と言ったところで今起きている戦争は止められないのかもしれません。
しかし、「戦争反対」と言う人を馬鹿にするような風潮が広まれば正しい言葉が意味を失い、国の秩序が内部から乱れていくことは起こりうると思います。
人間の表現の自由、言論の自由を守ることは、戦争のない平和な世界を実現するために必要不可欠なことです
その自由を奪うことは、平和を遠ざけ戦争を肯定することに繋がりかねません。
これ以上の戦争を起こさないためにも、真面目に「戦争反対」と言い続けることには意味があり、そういう人を決して馬鹿にしてはいけないと強く思います。
僕は何度でも、「戦争反対」と言葉にすることにします。
「戦争反対」と声を上げても自由や命を脅かされる危険のない日本は、何だかんだでまだ平和なのだと思います。
しかし、そうではない国もあります。
現にロシアでは、ロシアでは、「戦争反対」と声を上げた人達が逮捕されています。
「戦争反対」と声を上げることは、平和な国に暮らす人の務めなのではないでしょうか。
ところで、コロナ禍になって2年が経ちましたが、この現実を落ち着いて受け止められるようになるまで、自分は丸2年かかったという実感があります。
今の時代、手軽にネットなどで簡単に答えだけを得ようとするような風潮ありますが、やっぱり人間、時間をかけて経験して自分の頭で考えないと分からないものはあると思います。
なので、今は戦争に反対すること、平和を祈ることしかできないとしても、それはまったくの無意味ではない。
忘れずにいること、考え続けることで、長い時間をかけて見えてくるものもある。
今日で世界が終わるわけではありません
寧ろ、今日で世界を終わらせないためにも、戦争反対と声を上げ、平和を祈り続けることには大きな意味があると考えます。
その一方で、「現実から目を背けるな」という自分の考えと矛盾するようですが、テレビもネットも戦争の話題ばかりで気が滅入る人もいると思うので、そういう時はテレビやネットから離れて心を休めたらいいと思います。
心が壊れたら意味がないので、まずは自分の身の安全を大切にしてほしいです。
とはいえ、自分はそんな立派なことを主張できるほどの人間なのだろうか…という気持ちも少しあるのですが、それでも「戦争反対」は言い続けていくことにします。
個人的なことを言えば、自分の利益や欲望のためだけに他人を利用したり、自分に不都合な人間や気に入らない人間を否定したり攻撃したりするのは、自分が他人に対して行う戦争みたいなものだと思うので、自分がそうならないように気を付けるってことから始める必要があるのかもしれません、自分にとっての「戦争反対」は。
この写真は、新潟現代美術家集団GUNの展示会場でもらった反戦カードです。
1960~70年代に活動していた新潟現代美術家集団GUNのことは、中学校の美術の資料集で知って興味を持ったのですが、その展示が10年前に新潟県立近代美術館でありました。
当時は学生運動の影響などもあって美術と社会運動が近い場所にあり、美術という表現で社会と向き合う彼らの姿勢に強く感動した自分は、今でも大きな影響を受けています。
反戦の強い願いは自分の中にずっとあります。
また、かつて政治家だった時に若者に対して「政治に意見するなら自分が政治家になれ」と言った人物がいたそうですが、その人物が今度は「戦争に反対するなら自分が戦地に行け」という内容の発言をしたそうです。
どちらも人が社会に意見する自由を奪う卑怯な発言だと思います。
というわけで、最後に僕がたびたびツイートしている、小沢健二さんの言葉を載せておきます。
これを読むと、「対案がないなら批判をするな」は間違いだということがよく分かります。
#戦争反対
#ロシアのウクライナ侵攻に抗議する
#あらゆる戦争に反対します
#NoWar
#StandWithUkraine
#нетвойне
#Противійни