隙あらば新潟を観光しています、ちひろBLUESです。
最近、人混みに行く時は使い捨てマスクと布マスクの二重作戦という、新型コロナウイルスに対するささやかな抵抗をしています。
ところで、新型コロナウイルス繋がりで最近思ったことなのですが、少し前、1/29(土)にNegiccoのMeguさんがトーク番組「Meguと○△□」を配信し、ゲストはNegiccoの所属レーベルを作ったタワーレコード社長の嶺脇育夫さんでした。
そこで、嶺脇さんがコロナ禍でのアイドルビジネスについて、「昔当たり前にできていたことができなくなって、何もかも変わってしまった。もう戻れない気がする」みたいなことを語っていました。
その嶺脇さんの言葉は、薄々自分でもそうかもと思っていたこと、でありながら、どこかで考えないようにしていたことだったので、それを言語化されて、頭の中がちょっとすっきりした自分がいました。
ここでふと、2020年にコロナ禍が始まってからのこの2年間の自分の体験を振り返ってみると、感染者が変動し、「そろそろ大丈夫そう」な時期と「やっぱりまだまだ危険そう」な時期とが繰り返し訪れる中で、あらゆることに対して自分の中の「ここまでは安心/これ以上は心配」みたいな感覚がまるきり変わってしまっていたことに気付かされ、人間の感覚は環境でここまで変わってしまうものかと驚かされました。
そして、そういう不安定な社会の中で自分の気持ちも不安定になり、いちいち落胆しては、そんな状況に疲弊していた自分がいました。
その気持ちの裏には常に、「いつかコロナ禍が収束したら」という気持ちがあり、だからこそ「収束はまだなのか…」といちいち落ち込んでしまっていたことも、最近自覚するようになりました。
しかしここで、嶺脇さんの「コロナ禍前には戻れないかもしれない」という言葉を受け、その現実を受け入れざるを得ない状況を試しに受け入れてみて(変な日本語だ)、試しに「もうコロナ禍は収束しない」と仮定してみました。
すると、「コロナは収束しない」と思うことで、「じゃあもうそんな現実を嘆いても仕方ないな、気を付けながら出来る範囲のことを頑張って生きていこう」と、逆に前向きに考えられるようになった自分がいました。
もちろん、本音を言えば一刻も早く収束してほしいし、いつか収束する可能性もまったく信じていないわけではありません。
とはいえ、専門家ですらそれがいつになるのか分からない状況で、「いつかコロナが収束したら」と思い続けても気持ちを疲弊し続けるだけだと思うので、いっそのこと「もうコロナは収束しない」と仮定した上で生きていくことを考えた方が現実的だと思う、という意味です。
「コロナが収束したら」と多くの人がよく言うし、自分もこれまでよく言ってきましたが、そんな日がいつ来るのかは誰も分かりません。
だとしたら、もう「コロナは収束しないかもしれない」という現実を受け入れ、可能な限り感染に気を付けつつ、細々と毎日の生活を頑張って続けていくしかないと自覚した、ということです。
例えば、コロナ禍が始まったばかりの2020年春は、緊急事態宣言が全国に出され、出来るだけ人と会わない、ステイホームが奨励されていた時期がありました。
今思えばあの時期は、政治家も専門家の誰もが何が危険で何が安全か、何が正しいか何も分からないという状況だったので、状況をある程度把握できるまで一時的ではあっても必要な措置だったとは思います(ところでマスク配布をはじめとする政府のコロナ対策はかなり失敗していたと僕は思っていますが、その話をすると本題からずれるので今は割愛します)。
確かに、一次的に感染を防ぐだけなら、家から出ずに人と会うのを避ければ、まあ、防ぐことは出来ます。
しかし、もしもコロナ禍が終わらず、今の状況が一生続くかもしれないのであれば、いつまでも家から出ずに、人にも会わずにいては生活が成り立たないわけです。
だったら、この2年間で得た知識や技術を使って感染に十分気を付けながら、人と人が出会うことを否定しない人間らしい生活を続けられる方法を考えていくこと、その方が現実だと思ったのです。
予防に十分気を付けた上で、何もかも人間の活動を制限するのではなく、安全に出来る方法を模索して生きていくこと、その方が生産的だと思ったのです。
もちろん、何度も言っているように「コロナ禍の前」には戻れない以上、今までのようには出来なくなってしまうこともあります。
例えば個人的に身近ところだと、ライブハウスで密になって騒ぐことは出来ないと思いますが、だからと言ってライブハウスは全部禁止にする!という極論ではなく、入場制限をしてマスクや消毒や換気などの対策をしながら安全に利用できる方法を探っていこう、ということです。
こういう緊急事態ではどうしても極端な考えになってしまいがちですが、そうではなくもっと柔軟に安全に生活するための方法を前向きに考えていきたいということです。
その方法は、この2年間の体験で学んできたと思うので、この体験を活かして、これからいつまでも続くかもしれないコロナ禍を、それぞれ自分らしく生きていこうということです。
それに、人と会うことを制限すれば感染リスクは減らせるのでしょうが、人と会うことで得られるもの、人と会わないと気付けないものが、人間にはあまりにもたくさんあるのもまた事実なのだと、経験上思います。
これはここ最近、意識的に色々な人に会いに行くようにしてみて、ああ、人間こういう出会いを大切にしないとダメだなと実感したことなので、だからこそ感染対策を十分にしながら人間らしい生活を守っていきたいという気持ちになりました。
これはもちろん、「コロナは風邪」「コロナなんて大したことない」「対策なんて無意味」「コロナ禍の前みたいに行動させろ」と、問題を矮小化して、極端な言動を正当化する、という意味ではありませんし、そういう意見に対して僕はかなり警戒しています。
そうではなくて、コロナの危険性を十分受け止めた上で、十分に対策をして、出来るだけ安全に人間らしい生活を守っていこうという意味です。
そして、ちょっと話は大きくなりますが、そもそも人間はコロナ禍よりも前から、いつ何が起こって死ぬか分からない、だから毎日生きるしかない、それだけの存在なのかもしれません。
そういう、実はコロナの前からずっとあった現実をあらためてちゃんと自覚したという気持ちもあるのですが、その現実を受け止めた上で前向きに生きていこうという気持ちでいます。
長々と書いてきましたが、僕が言いたいことは結局「感染に気を付けながら生きていこう」という、当たり前すぎる結論でしかありません。
でもその現実をそのまま受け止めるための気の持ち方というか、この気持ちになれるまでに、自分は2年かかりました。
もちろん、僕の考えだけが正しいというわけでもなく、あくまでこれは僕個人が現時点で考えている暫定的なものであり、人それぞれに考えが違うのもまた現実です。
コロナ禍が始まった直後から冷静に考えていた人もいれば、未だに不安な人もいると思うし、それは誰が正しいというものではなく、人それぞれに異なる考えがあります。
それに、僕は一応今は落ち着いて状況を受け入れられていますが、こういう受け止め方、考え方の速度も人それぞれ違って当たり前です。
なので、コロナ禍に対する気持ちや考えの違いによって人々が分断されたり攻撃し合ったりすることなく、出来るだけ落ち着いて誰もが安心して暮らしていける世の中を願います。
そんなことを考えた2/20(日)、今週も日曜日のカレーを食べることができました。
まあ、こうやって毎日に少しでも楽しさを見付けて、前向きに生きていこうと思います。