nemo 折々の自然

折に触れて観察した自然などの記録

ロシア紀行 2-1

2018-06-11 10:54:25 | 旅行記

平成30年5月13日(日)晴 26℃

 7時からの朝食は1階のレストランでビュッフェスタイル。

 飲み物、生野菜、パン、ハム・ソーセジなどの種類が多く、朝から食欲が出ました。

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 9時30分ホテル発、サンクトペテルブルグでの観光初日は、まず、ネフスキー大通りからネヴァ川に架かる宮殿橋を渡

 り、『ワシーリエフスキー島』の岬からロストラの灯台やネヴァ川越しのペトロバウロフスク要塞』や『エルミタージ

 ュ美術館』を眺めました。

 日差しが強く、こちらでも平年を上回る気温が続いているとのことでした。

   

ペトロバウロフスク要塞

 18世紀に発生した大北方戦争の過程で、スウェーデンから土地を防衛するために築かれた。 

 スウェーデンの脅威が低下した19世紀には、政治犯収容所としても利用され、一時はドストエフスキー、レーニンらも

 収容された。

 要塞の中央に、首座使徒ペトル・パウエル大聖堂(ペトロパヴロフスキー大聖堂)があり、ピョートル大帝以降の皇帝が

 葬られている。 

 黄金に輝く尖塔の高さは122.5m、要塞内には最高裁判所が置かれている。

フョードル・M・ドストエフスキー (1821〜81年)

 ペテルブルグ工兵士官学校をを卒業後、間も無く「貧しき人々」でデビュー、高い評価を受ける。

 しかし1849年、急進派のサークル活動に参加したことで逮捕、シベリア流刑となる。

 その流刑先で大恋愛の末結婚、過酷な体験を元にした作品「死の家の記録」で文壇に復帰した。以後、海外放浪と賭博に

 のめり込み、2回目の結婚生活を送る中から「罪と罰」、「白痴」、「永遠の夫」、「悪霊」など傑作の数々を生み出す

 最後の長編「カラマーゾフの兄弟」を発表した後、1881年栄光の生涯を閉じた。

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 バスは宮殿橋を渡り返し、ネヴァ川沿いの道を右折して『元老院広場』前で停車。

 広場に立つピョートル大帝がモデルという『青銅の騎士像』を見物。

  

青銅の騎士像 ( Медный всадник

 ロシアの作家アレクサンドル・プーシキンがこの騎馬像を題材にした長編叙事詩『青銅の騎士』を1833年に発表し、有

 名になって、この像自体もこの名で呼ばれるようになった。

 騎馬像の建設は女帝エカテリーナ2世大帝の命により1770年に開始され、おもにフランスの彫刻家エティエンヌ・モー

 リス・ファルコネによって作られ、1782年に完成した。

アレクサンドル・プーシキン(1799〜1837年)

 1799年、中級貴族の子としてモスクワで生まれ、サンクトペテルブルグの創立間もない学習院に編入後、弱冠15歳の時

 の詩作が絶賛される。

 ロマン溢れる詩や文学作品で近代ロシア文章語の基礎を確立した。1830年「エヴゲーニー・オネーギン」、1833年「青

 銅の騎士」、1834年「スペードの女王」、などを相次いで発表、存命中から大変な人気を博した。国民詩人と呼ばれ、

 今も尊敬を集めている。

エカテリーナ2世

 在位1762〜1796年、ドイツ貴族出身。ピョートル大帝の孫で、エリザヴェーター女帝の甥ピョートル3世の妻。

 夫を無能な皇帝と判断しクーデターにより夫を幽閉、自ら即位。外政ではポーランドやトルコなどに領土を拡張、内政で

 は貴族や都市の特権を強化。

 フランスの思想家ヴォルテールと文通し、その教養も誇った。 

     * 

 そのまま先へ進み『寺院広場』から『聖イサク寺院』に入場しました。画像は元老院広場からと寺院広場から見た大聖堂

 です。

  

 天を貫くように聳え立つ総重量30万tの大聖堂、その姿は実に荘厳。

 内部に入ると孔雀石やトパーズなど40種類を超える美しい貴石と黄金の絢爛豪華な装飾に圧倒されました。

  

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聖イサク寺院(Исаакиевский собор》

 ピョートル1世が建てた教会に起源し、再建が繰り返された後、現在の聖堂は19世紀半ば、アレクサンドル1世の時代に

 フランスの建築家オーギュスト=ド=モンフェランの設計により完成。ロシアのビザンチン建築を基本とする新古典主義

 様式の重厚な外観をもつ。

 高さ101mの世界最大級の教会建築であり、帝政ロシアのシンボルとされる。

 1990年、「サンクトペテルブルグ歴史地区と関連建造物群」の名称で世界遺産(文化遺産)に登録された。

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 寺院広場』には『ニコライ1世の騎馬像』があり、次いで『血の上の教会』に入場しました。

   

ニコライ1世

 1825年にニコライ1世が即位した直後、デカブリストの乱がおこります。

   アレクサンドル1世に従ってナポレオン戦争を戦い、パリに進軍した将兵は、そこで西欧諸国の文明に触れ、やがて自由

 思想を抱いてロシアの  政治体制に疑問をもつようになりました。 彼らはデカブリスト(12月党員)とよばれる秘密結社

 を組織し、ニコライ1世の即位と同時に蜂起しますが、ニコライ1世は武力を行使して、この乱をすぐに鎮圧しました。

  1853年、ニコライ1世はバルカン半島への進出を企て、オスマン・トルコとのクリミア戦争に突入しますが、戦争最中の

 1855年に急死します。

  彼の死後、クリミア戦争は多大な犠牲を出した末にロシア軍の敗北に終わります。

血の上の救世主教会Храм Спаса на Крови

 ロシア正教会の聖堂で、公式名は、ハリストス復活大聖堂Собор Воскресения Христова)。

 このほか、血の上の教会(Church on Spilt Blood)の名称でも知られる。高さは94m。

 この名称は、1881年3月13日(ユリウス暦3月1日)のロシア皇帝アレクサンドル2世暗殺によるもので、教会が建つ場

 所は、皇帝遭難の地である。                       【Wikipedia】

アレクサンドル2世1818〜1881年)

 1861年に農奴解放令を発し「解放皇帝」と呼ばれたが、専制政治打倒を目指すナロードニキ(人民主義者)運動などに

 直面、1881年に暗殺された。

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 内部で目を引くのは聖像画イコン、壁や柱など教会内の至る所に掲げられている。また、外壁や屋根には浮き彫りの聖人

 像、天使像、動物像などが精密に刻まれ鮮やかに彩色された姿は見事だ。

  

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 これで午前中の観光を終え、昼食場所のレストラン『Po Grib』へと向かいました。

 モイカ運河沿いにはお土産店などが並び、レストラン前の橋からは遠く『血の上の教会』を眺めることができました。

  

 昼食は「ボルシチ」「パイ付きつぼ焼きシチュー」「プリヌイ ジャム添え」などを美味しく頂きました。

  

【ボルシチ】

 ボルシチは、もともとはウクライナの郷土料理です。ボルシチという言葉も、もとはウクライナ語で草や薬草の煮汁を意

 味するものでした。

 スビョークラ(ビーツ)や玉ねぎ、ニンジン、キャベツ、炒めた牛肉などをじっくり煮込んで作る具だくさんのスープで

 す。

  

【プリヌイ】

  ロシア料理の中で、おそらくブリヌイほど愛されている食べ物はないとのことです。

 ごく普通のパンケーキですが、小麦粉やそば粉に卵、牛乳、ヨーグルト、砂糖、塩などを混ぜ合わせた生地にイーストを

 加えて発酵させ、フライパンで薄く焼き上げたパンケーキ、あるいはクレープと言ったような食べ物です。



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