まずは結体を見ます。
文字の形が再現できているかどうかを見ます。
次に、それぞれのパーツが再現できているかどうかを見ます。
そして、そのパーツとパーツに自然なつながり、つまり『空間の筆意』があるかどうかを見ます。
そこまできたら、また結体を見て、生き生きしているかどうかを見ます。
そして最後に、その生き生きとしている源泉であるエネルギーが、書き手本人の人柄を表しているかどうかを見ます。
つまり、借り物のエネルギーではなく、本人の中から出てきたエネルギーである事が重要なのです。
それが、ダークサイドのエネルギーだったとしても、です。
能書家と言われる人達の生き様は、情熱にあふれた記録や文章が残っています。
そこから、『この人はこんな書を書くんだな』と思わせてくれる人もいれば、書から書き手の人柄を知りたくなる事もあるわけです。
前者は偉人の業績から納得させられ、後者は記録も業績も残ってはいないけれど、その人の人間性の奥深さと到達点に感動するものであります。
後者の方が好きです。
さて、塾生の作品の場合、私がどのように見ているかを申し上げましょう。
まず、塾生それぞれの人柄を自分なりに知っておく必要があります。
時間をかけて会話などから、なんとなく掴む程度です。
そして作品とそれを照らし合わせながら、修正していきます。
その作業を繰り返していくうちに、塾生の書技が上達し、『空間の筆意』の次の段階になったころあたりで、人柄と書を照らし合わせる事が、なんとなくできるようになってくるのです。
具体的には地位級ぐらいからでしょうね。
その人の業績から書を見るわけではなく、
書からその人に興味を持つわけでもなく、
塾生それぞれの努力研鑽の積み重ねが生み出した上達の記憶と、頂上に向かって歩んでいる書から、その人となりをみる事ができると思うのです。
ダークサイドもひっくるめた、
自己解放です。
解放すれば自由になるわけです。
自由になればなんでもできるわけです。
私の目指す書道は、書道によって解放された自身の中に芽生えた自由を自在に使って明るく楽しく自然に生きることです。
孔子に従い老子を目指すと言う事なのかもしれませんねぇ〰