蔵書目録

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「頓死の白鳥 (エリアナ・パヴロヴァ)」 永田龍雄 (1941.5)

2021年03月24日 | バレエ 2 エリアナ・パヴロワ、貝谷八百子他

頓死の白鳥
   戰線慰問の旅に仆れ軍屬となった舞踊家霧島惠利子(エリアナ パヴロヴア)

 パヴロヴァは日本に西洋風舞踊の種を蒔いて呉れた女性のひとりだ。とにもかくにも日本に西洋の古典舞踊の技巧を敎へて呉れた女性だ。もとより純粹の古典舞踊の技巧の組織だった敎授はしなかったらうが、ロシア舞踊の基礎的な技法はおほくの子女に傳習さして呉れた女性である。その點、日本の西洋風舞踊界にとって彼女は恩人である。そしておほくの西洋風の舞踊家を養成してくれたのだ。貝谷八重子〔貝谷八百子〕などはその門弟の中で最もすぐれた舞踊家である。
 パヴロヴァは人がよかったスラヴ人らしい人のよさを、たぶんにもってゐた。女性特有のヒステリックのところがすこしもなかった。いつも天眞爛漫であった。わたしとの交はりは、もう二十數年になる。そのあひだ、いやな女性だと思ったことが、たゞのいちどもない。震災直後の生活はかなりこまった、鎌倉に大きな家をたてゝ、その建築なかばに資金が絶えたことなどもあった。そのとき新橋から藝者にだして呉れとわたしに賴みに來たことがあった。わたしはそれはいけないことだと忠告した。それでも苦しいから出して呉れといった。しかたがないから
 サロン春の支配人 に依賴して、そこで働いてもらはうかと思ったことがある。けれどもそれは好いあんばいに支配人と給料の點で意が合はず、それなりになった。あのときパヴロヴァが新橋から藝者にでてゐたらどうだったらう。いくら生活のためとはいへー思っても身ふるひがでる。わたしは好いことをしたといまでも思ってゐる。
 エリアナ・パヴロヴァが來朝したのは千九百二十年か十八、九年頃であった。最初わたくしは本物のアンナ・パヴロヴァが來朝したのかと思った。とにかくパヴロヴァといふ觸れこみなのでわたしどもは吃驚した。舞踊界はエリアナもアンナもないほど舞踊知識の蒙昧時代であったその初公演を有樂座でやった若くもあったし品もよかったし藝もわたしどもには本格のロシア舞踊だったので、かなりの人氣を博した。たぶんお茶の水の櫻陰會主催の舞踊だったとおもふ、それが日本東京での初公演であった。パヴロヴァは一躍して東京の藝苑の人氣者になった。それから四、五年たって本物のアンナ・パヴロヴァが來朝した後のエリアナの人氣はやゝ下火になってゐた。
 その好人氣時代のパヴロヴァの収入は大したものであった。一夜の出演料は五、六百圓であった、隨分あのころはよかったのよとエリアナは後日わたしに述懐したことがある。その當時貯蓄でもして置けば後日の苦難時代は何とか切り抜ぬけただらうがそこは貯蓄心の乏しいスラヴ人のことだから、じゃんじゃん湯水の如く費消してしまったことであらう。いったいパヴロヴァは大變親孝行で
 父親はなくて母親 育ちでその母親のいひなり次第になってゐた女性である。まるで孝行の標本みたいな女であると、よくわたしはひやかしたものだ。その母堂はなんでもオペラシンガァだったさうで、生活は贅った方の女らしく、そのためエリアナの金をかなり費消したやうである。
 パヴロヴァが日本人に歸化したのは、新聞によると昭和三年六月となってゐる。そのころでもあったらうか、門弟達が寄ってその祝賀舞踊會をやったことがある。わたしも會にさきだって祝ひの言葉を述べた記憶がある、霧島惠利 ゑり 子となったのはそれからだ、最初は霧島八重子といったのではなかったかと思ふのだがいたって物覺えがわるいのであるから、最初から霧島エリ子といったのかも知れぬ。とにかくエリアナ・パヴロヴァは日本人になって死んだわけである。たしか一九〇〇年生まれであるから、ちゃうど四十歳で死んだわけである。新聞には三十七歳とあったが、四十歳がほんたうのやうにわたしは覺えてゐる。
 最近見た彼女の案舞で『ショピニア』がよかった。門弟によって踊られた群舞である。流石に本格の群舞構成であった。わたしはそれを批評でほめた、近年の彼女の舞踊はむかしほど冴えなかったことは事實だ。
 肉體が肥滿してき たからだ。『狂女』だの『鞭』なぞといふ作品はかなりいゝものである。日本の十二ひと重を着て琴曲伴奏の『蝉』といふのもすぐれたものだった。これはどっかギリシヤ風舞踊のおもかげがあった。ーほめられるとうれいがった。わたしが最近あまり彼女の舞踊會にゆかぬことを氣にしてゐて、逢ふと苦情をいった。
 『どうして見にきてくれないのう永田さん?』
 さういふ彼女であった。あまりいゝものを見せて呉れない彼女に、ちかごろではなってゐたが、見る眼は冴えてゐた。門弟東勇作の初公演の『シルフイゲ』を見た彼女の感想は、かなり鑑賞の正鵠をえたものであった。東勇作の初公演をかなりエリアナはよろこんでゐた、こんな門弟愛のある彼女であった。わたしは長い年月、舞踊界の空氣に接して來てゐるが、おほくの人は門弟の發表會をあまりよくいはないものだと知ってゐる。なんとか難くせをつけてその
 門弟の前進を阻み がちな氣風がみうけられるところだ。わたしはそのことを寂しいことだと思って眺めてきた。
 パヴロヴァはさうではなかった。東勇作の舞踊を心からほめそやした。そして東のやうな靑年が過去において自分の弟子であったことは、自分にっとって名譽なことであるとさへ彼女はいってゐた。こんな大きな師弟愛があらうか。
 わたしはエリアナのこの心の大きい態度を、心中甚だうれしく思った。ものにこだはらない彼女のこの態度こそ、立派な師としての資格であると思ってゐる。とにかく惜 をし い舞踊家だった。しかし皇軍慰問の旅中に死んだことは、考へやうによって彼女の死花をさかせたことになるのだ。これからいつまで生きてたってこれほどの死花はなからう。
 (五月四日朝)

 上の文は、昭和十六年五月ニ十五日発行の雑誌 『週刊朝日』 五月ニ十五日號 に掲載されたものである。



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