隣邦留学生教育の回顧と将来 松本亀次郎
岩波書店発行の雑誌「教育」四月号特輯に「興亜の教育の問題」に関し老生にも「日本語教授の体験談」を主とし曾て「東亜学校を創設した動機」並に「今日以後の興亜教育に対する意見」等に就き何か書けとの御手紙と本年一月発行の「特輯 新東亜教育」一部を寄せられた。披いて拝見すると当代御歴々の方々が各方面の角度から眺めた切々の至言を満載されてある。最早老措大などの出べき幕ではないが、隣邦の留学生教育には明治三十六年以後今日迄三十七年間の歳月を打込み、日本語の教授と著述には全精力を注ぎ、老生が直接間接に教育した学生諸氏は満支両国に充満して居られるので、さうした立場からも聊かなりと卑見を述ぶべき因縁がある様に考へ、老人の繰りごとながら断片的に過去の体験やら将来に関する希望を織込んで大方の教へを乞ふ次第である。
(一)目標を実生活に置け
(二)事変中に日本語学習熱はどうして熾んになったのか
(三)植民地に課する日本語と留学生に課する日本語との差異
(四)過去に遡って老生の日本語教授に対する体験を述べて見よう
老生の初めて支那留学生に日本語を教授したのは明治三十六年即ち老生が三十八歳の時、嘉納治五郎先生の宏文学院に雇はれた時である。当時宏文学院には、速成師範科、速成警務科及び普通科の諸班があって、速成科は八九箇月終了、普通科は三年卒業で、班名は団結して来た地名を冠したのである。当初に僕の教授した班は普通科は浙江班、速成科は四川班と直隷班であった。
(五)普通科の日本語
普通班は卒業後高等学校或は専門学校に入学して日本の学生と同じく教授の講義を聴かねばならぬから日本語の学習には熱心であった。学生中には先年死んだ有名な魯迅即ち周樹人氏や、昨秋国民政府外交部次長から駐独大使として赴任し信任状問題で一時行き悩んだ陳介氏(東大法学士)や、曾て日華医師連合会の催された時支那側の団長として来朝された家福氏(金沢医大卒)其の他秀才揃ひであった。僕は他の講師が去った後を引継いだので彼等の日本語は既に相当程度に達してをった。最早漢訳して教へなくても大体は日本語で同意語に言ひ換へて説明すれば分る程度に進んで居たが或日助詞のにに漢字を充てる必要が生じにには漢字の于又は於に当ると黒板に書いた処が、家福氏が于於と二字書くには及ばぬ。于でも於でも一字書けば同じだから宜しいと言ひ出した。処が僕にして見るとその時分はまだ支那語で于於の二字が同音で有ることは全然知らないし、「操觚字訣」や「助字審詳」などで面倒な使ひ分けを習って居たので、それが無区別だ、一字で用が足りる、と言はれて些か面喰った恰好であったが、その時魯迅が言を挿んで于於が何処でも全く同じだと言ふのではない。にに当る場合が同音同義だからどちらでも一字書けば宜しいと言ふのですと説明した。それを聴いて僕は漢文字の使用法は本場の支那人と共に研究する必要の有る事をつくづく感じさせられた。魯迅はその折更に下の様な話を附け加へた。日本語に適当な華文の訳字を充てるのは頗るむつかしい。自分は「流石に」といふ日本語に適訳を施したくて長い間苦心して居るがまだ妥当な漢字が思ひ当らぬと言った。周樹人氏も陳介、家福両氏も当時二十歳未満であるが、当時の学生は漢文の素養も相応にあった。その周樹人が惡くんぞ知らん後年支那文学界の第一人者と呼ばれる魯迅になったのである。魯迅は少年時代から凝り性であったので日本文の翻訳は尤も精妙を極め原文の意味をそっくり取って訳出しながら其の訳文が穏当で且つ流暢であるから同志間では「魯訳」と云って訳文の模範として推重したといふ事である。それが惜しいかな、一両年前五十歳前後で永眠したのである。最近北京大学に新設される文学院の院長に就任し日華文化協議会の委員として重きを置かれて居る周作人氏は実に魯迅氏の弟である。東文の教授で親日家だといふのでこの頃反対分子から狙撃されたが幸に微傷だも負はれなかった事は幸慶の次第である。
(六)速成師範科の日本語
速成師範科は八九箇月の間に物理化学博物生理数学倫理心理教育教授法等の教育者たるに必要な諸学科を通訳によって教授する傍ら、一週三四時間を日本語の教授に向けたのであるから兎ても会話など習って居る時間がない。東京に留学中こそ会話を知ってをれば便利だが卒業して帰国すれば生活上使ひ途がないから会話を覚える必要は無い。日本語を習ふのは日本の書物を見て意味が分る様になればよろしい。然るに日本文を見ると漢字の間に假名が交って居る。漢字の意味は分るから假名で書いた部分の意味を教へて貰へば用は足りると言ふのが彼等の要求である。何と実利(即ち実生活)主義ではあるまいか。一例を挙げれば
(イ)政府ハ留学生ヲ外国ヘ派遣ス
(ロ)僕ハ人込デ賊(泥坊)ニ銭(御足)ヲ取ラレタ
右の様な文に於て漢字で書いた部分は悉く意味が分るけれども假名で書いたハヲヘデニレタスラなどの意義を教へて呉れればそれで宜しい。同じ漢字でも泥坊、御足人込(擬漢字即倭字)などは支那の用例にないからそんなのは特別に教へて貰ひたいといふ様な希望である。其処で教授者はハヲヘデニの助詞やレタの助動詞及び取ラ、派遣スの語尾変化と主語客語補足語説明語並に修飾語の位置構成等に就いて日本文と漢文との異同を比較対照して文法的に品詞論からも文章論からも明細に教授せねばならぬ。又漢字でも支那の用法と違った泥坊や御足、擬漢字の人込などは特別に抽出して教へる必要が生じて来た。この漢字を充てた変な形の語、例へば兎角折角矢鱈出鱈目素的滅法仰山馬鹿取締などの様な語は奇字としてその研究が大いに流行した時代もあった。
(七)「言文対照 漢訳日本文典」発行の因縁
(八)日本語教科書(語法用例の部)の編纂
(九)僕が北京の京師法政学堂に招聘せられた動機
京師法政学堂に僕の招聘せられたのは明治四十一年の四月である。法政学堂の前身は進士館と云って官吏養成の学校であった。総教習には法学博士巌谷孫蔵氏、副教習には現博物館総長法学博士杉榮三郎氏、其の他矢野仁一氏(京大教授文博)小林吉人氏(元福岡中学校長)井上翠氏(後の大阪外語教授)などが居られ、清国側は学部左丞の喬樹枬氏を監督とし早大卒業の林栴氏(満州国最高法院長)を教頭とし曹汝霖・章宗祥・陸宗與・汪榮寳・范源廉・江庸・張孝●・姚震・汪犧芝・曾彝進・黄徳章・夏●時・朱紹濂等の諸君が我が帝大・早大・慶大・中央大・法政大等を卒業して隆々たる声望を有し官途に就きながら教授或は通訳を兼ねて居られた。然るに通訳を用ひずして成るべく日本語で直接に日本教習の講義を聴き得る様にしたいといふので、僕より先に小林・井上両氏が其の教授に当って居られたが、クラスが殖えたので宏文学院で知合の井上氏が推薦して呉れた。前に述べた支那側の先生達で直接間接に僕を知ってをって呉れたので日支両方面の教習諸氏の同意があって僕は宏文学院を辞して同学堂へ聘せられる事となった。
(十)北京に於ける日本教習
其の頃北京大学には服部宇之吉博士、法律学堂には岡田朝太郎・小河滋次郎・志田太郎・松岡義正諸博士、財政学堂には小林丑太郎博士、巡警学堂には川島浪速氏、町野武馬氏(少将)北京尋常師範学堂には北村澤吉博士、藝徒学堂には原田武雄・岩瀧多麿諸氏が居られた。又公使館には公使として初め林権助男、後に伊集院彦吉段男、書記官に本田熊太郎氏(当時参事官)松岡洋右氏(当時一等書記官)廣田弘毅氏(当時三等書記官)公使館付武官に青木宣純中将(当時少将)本庄繁大将(当時大尉)などが居られ、坂西利八中将(当時少佐袁世凱顧問)松井石根大将(当時大尉)なども時々見えられた。後に名を成した人々が斯くの如く多数に北京に集って居られた事は実に奇縁と謂ふべきで碌々僕の如き北京に居ったればこ其等の人々の聲咳に接し一面の識を忝うするを得たのは責めてもの思出と言はねばならぬ。
(十一)革命の勃発
(十二)同情会の発起
日本人が北京で驚いた以上に留日中華学生の恐惶は一入で、学費の杜絶は勿論帰国の旅費にも差支を生じ途方に暮れた事は想像以上である。これに同情を寄せ救済に乗り出したのが当時三井物産の重役で後に満鉄総裁となった山本条太郎氏及び日清汽船の重役白岩龍平氏などで、発起者となって中華関係の大会社に謀り帰国旅費十数萬圓を集め清国公使館の手を経て留学生に貸與した。然るに是は後に至り公使館から返済されたので其れを基金の一部として外に篤志家の尠からぬ寄附も加へて財団法人日華学会を設置した。さうした浄財が基金であるから日華学会は日華親善を目的とし留学生或は観光団の便宜を図るに全力を用ひて居るのである。
(十三)清国招聘の日本教習帰還
留学生の全部帰国は前述の如くであるが、それ迄清国の招聘を受け各地には働いて居った日本教習も倉皇として帰国せざるを得なくなった。北京に居った教習も契約満期と共に相前後して帰朝した。僕も四十五年三月二十八日を以て四年の期限が満了したので四月初旬に帰朝し五月から服部宇之吉博士の推薦で東京府立中学に奉職し十年ぶりで再び内地の学生に教授することとなった。
。
(十四)東亜学校創設の動機
支那留学生教育の機関として建てられた学校は嘉納治五郎先生の宏文学院、近衛篤麿公の東京同文書院、犬養毅氏の清華学校、川上操六将軍創設の成城学校、明治大学附設の経緯学堂、寺尾亨博士の東斌学堂、立教大学関係の志成学校及び福島安正将軍が専ら陸軍留学生教養の目的を以て特設された振武学校等を主とし、其の外別に学校は建てぬが法政大学内に梅謙次郎博士主宰の下に開設された法政速成科や警視庁及び東洋大学等でも警監速成科を設けられ、又湖北総督張之洞氏の如きは学生監督をして自ら湖北鐵路学堂を東京に開かしめた。そんな状態で明治三十三四年団匪事変以後三十七八年日露戦役の前後迄は留学生の渡来が非常に盛大を極めてった。然るに物盛んなれば必ず衰ふの原理は留学生教育にも表れ、御史中に日本に留学するのは同文の関係上速成の便は有るが膚浅である、科学の本家は欧米であるから日本留学生を減少し欧米留学生を増加する方が国家の進運上有利である旨を上奏する者があり、又独立国家の体面上普通教育の少年迄官費を以て外国に留学させるのは経済上は勿論国家の体面上廃止すべきであるといふ様な議論が嵩まり明治四十一年に清朝の学部と我が文部省との間に特約十一校(後には五校又七校と成る)協約が成立し其等の学校に十五箇年を期し一定の官費留学生を送る外少年の官費留学生派遣は全部廃止した。それが為多数の留学生教育の学校は相前後して悉く閉鎖しさしも隆盛を極めた宏文学院も四十二年の七月を最終とし閉校式兼卒業式を挙行した。丁度僕は北京から夏季休暇で帰京してをったから式に與かったが、其の時嘉納学院長の挨拶に「本学院は最初支那から依頼が有った為に設けたが今は依頼が無くなった為閉鎖するので学院として盡すべき義務は茲に終りを告げた訳である」といふ様な趣旨を述べられた。栄枯盛衰は世の常とはいひながら余りの無常に並み居る教職員や自分は無量の感に打たれたのである。斯様な次第で留学生教育は衰微の極に達し其の上大革命に遭ったのだから再起の望みはないものと思って居たが、凡そ支那の事程予想の外に出るものはない。革命勃発の第二年即ち我が明治四十五年二月十日に袁世凱が大総統に当選し同月二十日に革命の發頭人黎元洪が副総統に挙げられ茲に初めて南北一致の共和国が成立し、この年を以て民国元年と改めたので、多年革命に奔走した元勲の孫中山・黄興の部下将士の子弟は論功賞與式に官費を以て日本に派送された。其処で大正二年の夏頃以前宏文学院で教へた湖南省留学生曾横海氏が主催で、同省から来て居る留学生ばかりでも四百人余りもあるからそれを基礎に日本大学の教場を借りて日本語の講習会を開くから講師に頼みたいといふので、第一中学の授業を終ってから其の講習会に出席した処が際限なくクラスが開けるので二足の草鞋は穿けぬ喩へに漏れず、その七月を以て断然一中を辞職し専ら留学生の講習に従事した。クラスが余り多く殖えるので当時の日大には最早借るべき教場もなくなり更に三崎町の東洋商業の教場を四室程借り込んだ。それでも収容し切れないので大正三年一月に杉榮三郎・吉澤嘉壽之丞両氏の協力と同郷の友人加藤定吉氏(天津加藤洋行主人、代議士)の支助により私財を以て神田神保町二丁目二十番地に「日華同人共立 東亜高等予備学校」として創立し、その十二月二十五日を以て各種学校設置規則に拠り東京府の認可を経た。校名に「日華同人共立」の文字を冠したのは経済上に関係がないけれども最初に於ける曾横海氏の精神的協力と学生の希望によって成り立った学校である事を意味するのである。〔以下省略〕
(十五)我が東亜学校を日華学会に併合した理由
(十六)東亜学校の現状
(十七)興亜教育に就きての希望
上の文は、昭和十四年四月一日発行の雑誌 『教育』 第七巻 第四号 特輯 興亜政策と教育 岩波書店 に掲載されたものである。