中華 五十日遊記
中華留學生教育小史
中華教育視察紀要
図版4頁、
「中華五十日遊記」 :緒言12頁、目次9頁、写真24頁、本文227頁
「中華留學生教育小史」 :目次6頁、写真16頁、本文94頁
「中華教育視察紀要」 :目次4頁、16頁、本文126頁
奥付1頁「松本龜次郎先生著書」1頁。
中華留學生教育小史
目次
緒言
留學生教育の効果
留學生の中から多數の人材輩出
留學生教育の沿革を四期に分ける
第一期 明治二十八九年(日淸戰役後)から三十七八年(日露戰役終結當時)迄
【宏文學院及亦楽書院起源】
明治三十九年十月末日調査の、宏文學院一覧に、該學院沿革概要として、卷頭に左の樣な記錄が載せてある。これは獨り同學院の沿革ばかりでなく、『官派留學生教育の起源』を知る重要文献である。
往年淸國人留學於我國者、僅淸國公使館私聘教師、以學日語、二三人而已、其所謂官派留學生者、實以明治二十九年為嚆矢、當時公使祐庚氏經日本政府、以十三人學生、依囑嘉高等師範學校長、於是、同校長直使同校教授本田増次郎氏當事、更又聘教師數人、開始日語日文及普通科之教授、此等留學生中、有或罹疾患、或因事故、至不得己而半途回國者、其他皆以良成績卒三年之業、後公使李盛鐸氏、及鄂督張之洞、亦相継咨送、於是、同校長以三矢重松氏、充教育主任、此等學生、亦以良成績、卒其課程、同三十四年、北京警務學堂亦簡派警察學生十人、爾後淸國学生之來、實日多一日、然而我國之學校、皆為本邦學生而設、未有専為淸國學生設立者、故新來學生、槪少通日語、而於攻學之途、實多阻滞、同校長深以為缺憾、同三十五年、創設一校於牛込西五軒町、名曰宏文學院、以備其教育、爾来東遊學生不問官費自費、均來學于此者、日益多、告校舎之狹隘、以此同三十六年増設大塚校舎於小石川區、同三十七年增設麹町分校舎於麹町區、(同丗八年閉之)同丗七年增設真島校舎於下谷區、(同丗八年閉之)同丗七年増設猿樂町分校舎於神田區、(同丗八年閉之)同丗七年增設巣鴨校舎、同丗九年增設白銀分校場於牛込區、以教日語日文及普通學科、或設速成師範科、速成警務科、理科專修科等、以授教育者警官必須學科之大要、及理化学之槪略、其畢業者一千九百五十九人、現在學於本院者、三十六班一千六百十五人、而其畢業者中、或有既帰国得賜進士出身者、或有就樞要之地而尽國事者、或有尚留我國修高等專門之學科者、其畢業生及現在學生數等、別表示之、
【嘉納治五郎氏】は左の如く語られた。
時の文部大臣は西園寺侯で、外務大臣を兼ねて居られたが、明治二十九年に、淸國公使祐庚氏から、日本政府を經て、十三人の留學生教育を當時高等師範學校長であつた自分に依賴して來た。そこで教授、本田增次郎氏を主任として、其の世話をするやうにしたが、第一期の學生で、今宙に記憶して居るものは、朱忠光、唐寶鍔、戢翼翬諸氏である。其の後數回送つて來たが、始めは學校名を付けないで、塾同樣の者であつたが、後に三矢重松氏が本田氏に交代すつやうになつて、初めて『亦樂書院』と名付けたのである。
【宏文學院】は三十五年の一月に開校したが、其れは湖北總督張之洞氏から、駐日公使李盛鐸氏を介して、自分に教育意見を求められたから、余は一ヶ年、一ヶ年半、三ヶ年修業の三種學生を送る事の必要を述べた。短期の學生は相當年齡に達して、進士擧人等の資格を有するものに、通譯を用ひて教授する速成科で、三ヶ年修業の者は、少年學生に普通學から教授して、修業の後、高等學校や大學專門學校に入學せしめるものである。此の意見が張之洞氏其の外各省の總督巡撫等に認められて、三十五年頃から、盛んに速成師範科や、速成警務科等の學生を送られると同時に日語及び普通科の學生も、多數に送り來つたのである。自分が大きく紹介されたから、支那へ行つても、當時の自分の地位に比較しては、餘程特別の待遇を受けたので、北京に於ても要路大臣は勿論、慶親王、恭親王、肅親王等にも盡く面謁し、端方氏や張之洞氏には、兩方とも六七回も會見して、色々意見を交換した結果、歸朝後、益々留學生は各省から多數に派遣されるに到つたのである。
【三矢重松博士の日記】 を見ると、同氏が亦楽 えきらく 書院に關係した當時の事情がありゝ目前に見えるやうであるから、左に數節を抜抄して見よう(同氏は精力無比の人であって十九歳初めて上京した時から、大正十一年五十二歳で沒する迄、一日も漏さず、日記を書かれて居る)
三十二年 十月 七日、午後三崎町一丁目二番地に移轉す。此処にて淸國留学生を教授監督する職を得たるなり。(同氏同年九月二十八日大阪天王寺中學校辞職上京す)午後二時嘉納君内堀維文氏も來り学生に初對面の式をす。戢翼翬(湖北)は前より来たり、今專門學校(早稲田なるべし)に通ふ。鄒端昌(安徽二十五歳)は横濵領事の子、熊垓(江西十七歳)黄大暹(四川十七歳)李盛銜(江西十九歳)の五人なり。
八日 呂烈煌來る。
十八日 呂烈煌が父、呂長康來る。『亦楽書院標札』成る。『内堀氏』書けり。
十一月 五日 淸國公使館に、羅康齢氏と談じ歸る。張之洞派遣の學生十一名試みに來れり。
十二月 九日 午前嘉納君來る。『学生の洋服を註文す。』
十二月二十三日 晝頃馮誾模通譯にて、夏偕復等六氏來る。
三十三年 一月 十五日 午前夏循愷入院、第三期に編す。
十六日 夜羅會坦等、小使と爭う事あり。
十七日 朝『学生飯くはず、おのれ授業せず、』午前林甕玉氏来る。夜嘉納君を訪ひ、學生監督の事を相談す。
十八日 學生に規則を申渡す。
二十七日 午前十時より淸國公使館に行く。
二月 十四日 淸暦元宵とて休む。
二十二日 嘉納君より給へる菓子を學生に分つ。
四月 三日 李、羅、王、范、屈、兪を伴れ、『越ヶ谷に桃を見る。』
以上は同氏日記の一班に過ぎぬが、國情、生活、風俗、習慣を異にせる外國の少青年を初めて引受けて同じ家に寝食起臥を共にし、教授且つ監督の任にあたれる氏の苦心、實に察するに餘りあり。殊に『洋服を註文す』の一項隔世の感に堪へぬものがある。
大同學校、精華學校、及び東京同文書院の起源
柏原文太郎氏談話。(近衛公。犬養毅氏。徐勤氏。)
成城學校の起源
服部操氏の談話。(校長は川上操六氏)
【成城學校】の起源 服部操氏談話要領
成城學校の留学生部は、明治三十一年に創設したもので、校長は時の參謀總長川上操六氏で、故福島大将等が委員と言ふような名義で、關係して居たのであるが、其の以前に福島大將や宇都宮大將等が当時は未だ佐官か少將位な資格で、支那に行き、張之洞、劉坤一、岑春喧、袁世凱等諸氏を歷訪して、陸軍留學生を招致する樣にしたのが起源であるらしい。第一回は、浙江省から四名を派遣されたが、恰も速水一孔氏が領事時代で、斡旋の勞を執ったとの事である。四名の氏名は譚興沛、徐方濂、段蘭芝〔段蘭芳〕、蕭星垣四氏である。
三十二年には凡そ三十名を張之洞氏及び劉坤一氏から派遣せられた陸軍省の委托で成城學校が其の豫備教育を引受けたのである。
振武學校の創立は、たしか三十五年の七月頃と記憶するが、同校が創立せられて以後、陸軍に屬する学生は、振武學校に収容し、文科志望の學生のみを成城學校で養成することに、相談が成立つたのである。精しい事は岡本則錄氏が、始めから關係して居ったから、同氏に聽けば何でも分る筈である。呉禄貞、張紹曹、藍天蔚、許崇智、蔡諤、良弼、周家彦諸氏及び江庸氏なども、同校に学ばれたことがある。創立以来今日に至るまでの卒業生氏名は同校現存の名簿に委しく登録してある云々。
振武學校の起源
植木直一郎氏談話。(福島大將)
【振武學校】の起源 植木直一郎談話要領
私(植木氏)が振武學校に從事したのは、明治三十六年の夏頃からで、創立は多分其の前年だらうと記憶する。故福島大將が非常な熱心を以て全體を総括し、創立、維持其の他日本支那兩方面の主な交渉は、總べて大將が自身に當られ、小山秋作(大佐)堀内文次郎(現中將、当時大佐)宇都宮太郎(現大將、当時大佐から少將に進む)諸氏が補佐して居られたが、學生監として常時學校に居り、學生の監督教授万端の實務を執って居られたのは、木村宣明氏(初め中佐後に大佐)であった。當時の學生で記憶に存する者は、唐継堯・李烈鈞・閻錫山・諸氏で、李烈鈞氏は成城から転じて来た振武學校の第一期生であった樣に覚えて居る。閻錫山氏は、山西組で、級中でも稍年齢も長じ、日本語などの成績は、寧ろ若い人の方が好かったが、併し先輩として重んじられて居った。唐繼堯氏は士官学校卒業後も、麹町區の富士見町に居られ、自分の寓居(当時飯田町)にも、屢々音づれられた事がある。
學校の存立期限は、三十五年から支那の第一革命前迄繼續し、學生は初め百七八十名から、二百五六十名に達し、數の增加すると共に、質も好くなった樣に感じて居った。それは最初は年齡や教育程度の揃はぬ為であったからである。教授訓育には江口辰太郎氏が、最初から熱心に關係し、自分は教授以外は寧ろ教科書の編纂等に力を尽した方であった。
經緯学堂の起源
堀江秀雄氏談話。(金澤庄三郎博士。紀平正美博士)
東斌學堂及び警監學校の起源。(寺尾亨博士)
殷汝耕氏談話
志成學校。(越石乙次郎氏)
法政大學 速成科。(梅謙次郎博士)
東洋大學 警監速成科。(新村出博士。藤村勝二博士)
警視庁。警察速成科
第一期 留學生教育の総括
著者は明治三十六年初めて宏文學院に於て留學生教育に從事した
当事著者の聞見に觸れた事項。
第二期 明治三十九年(光緒三十二年)から四十四年(即ち第一革命勃發の年)迄
提學使の来朝
速成科及び中學未卒業留学生派遣の廢止
御史の奏議と、國家の體面論
多數留學生學校の閉鎖
三矢博士の日記節錄
特約十一校(後に五校と成る)の協定
留學卒業歸國者の概況
北京天津に於ける日本教習。著者も京師法政学堂教習に聘せられて北京に居つた
【天津に於ける日本教習と留學生】
予は明治四十一年(光緒三十四年)四月から、四十五年(民國元年)三月まで、北京の京師法政學堂に聘せられて、中華に居つたから、北京在留中に目撃した留學生卒業後の狀況一斑を記すことにしよう。予の始めて渡淸した時は、丁度小幡酉吉氏(現在土耳古駐在大使)が天津總領事として赴任する際で、同氏と同じ船に乗り合せ、東亞公司の天津支店長鈴木敬親氏(後に天津居留民團長と成る)、北京大學堂教習の坂本健一氏も、乗合であつた。天津に着いた翌日、學部侍郎嚴修氏經營の高等女學校及び師範學校に、同氏令息嚴智崇氏(東京高師出身)、胡家祺氏(宏文學院速成師範科卒業)、小幡勇治氏(同校教習)を訪問し、天津法政學堂に校長黎淵氏(早稲田大學卒業)、中島半次郎氏(早大教授)を訪問した。同校には、吉野作造今井嘉幸博士も居られ、後に淺井周治、石橋哲爾、樋口龍淵諸氏も居られた事がある。
【北京に於ける日本教習】
當時北京には、學部直轄の北京大學堂、京師法政學堂(前名進士館)、度支部の財政學堂、民政部の巡警學堂、農商工部の藝徒學堂等が有つて、是等の學堂には日本の教習が招聘されて居り、北京大學堂には、服部宇之吉(文學博士)宇野哲人(文學博士)矢部吉禎(現理學博士東京女高師教授)桑野久任(現理學博士奈良女高師教授)坂本健一(文學士)氏家謙曹(理學士現早大理工科教授)法貴慶次郎(後に東京市視學)諸氏。京師法政學堂には、嚴谷孫藏(法學博士)、杉榮三郎(現法學博士圖書頭兼諸陵頭)、矢野仁一(現文學博士京大教授)、小林吉人(文學士現新潟中學長)高橋健三(法學士)井上翠(現大阪外語教授支那語科主任)、石橋哲爾(現名古屋高商教授)、原岡武(現小樽高商教授)及び小生、法律學堂には、岡田朝太郎(法博)、小河滋次郎(法博)、志田鉀太郎(法博)、松岡義正(法博)、岩井尊文(法學士)諸氏。財政學堂には、小林丑太郎(法博)、相川茂郷(法學士)、巡警學堂には川島浪速氏、町野武馬氏(現少將張作霖氏軍事顧問前代議士)、北京尋常師範学堂には北村澤吉氏(文學博士、現廣島高師教授)、藝徒學堂には、原田武雄岩瀧多麿等の諸氏が居られ、岡田小河松岡志田の諸博士は、修訂法律館に於て法典起案の顧問が本職で、又岡田小河兩博士は、法政學堂にも兼務して居られたのである。
北京天津に於ける留學生の活躍
北京に於ける留日學生会館
留日予備学校設立の學部奏議
第一回中央教育會議
第一革命の勃發
同情會の発起
留学生の殆ど全部歸國
第三期 第一革命より関東大震災に至る迄
留學生の歸國と淸國内地應聘教習の帰還。著者も大正元年四月契約満期帰歸朝
日華學院(松下大三郎氏)の創立
東亜高等予備学校の創設
政法學校の創設
欧洲戦争の勃發
日支軍事協約と、學生の歸國騒ぎ。外務省声明書を發す
江庸氏留學生監督に任ぜらる
日華学學會の創立
望月軍四郎氏成城學校に寄附
文部省の豫算に、中華留學生教育費の計上
日華學會に、國庫補助
貴衆両院議員の留學生教育に關する建議或は質問
留學生教育に關する國庫支辨の請願
東亞高等豫備學校の擴張及び法人組織
第四期 大正十二年(即民國十二年)大震災より昭和三年(民國十七年)迄
對支文化事業部(後單に文化事業部と改稱す)の制定
関東大震災の留學生教育に及ぼす影響
留學生の救濟と送還に、文化事業部、日華學會及び郵船會社の活動
中華民國より罹災者慰問使の派遣
日華學會及び中國青年會館の復興
東亞高等豫備學校の復興
文化事業部の復興補助
日華學會と、東亞高等豫備學校の合併
日華學會と合併後の東亞高等豫備學校
東亞豫備學校學監三輪田輪三氏の民國教育視察
震災後の成城學校
特設豫科を置ける官立學校
文化事業部の留學生學費補助
大震災罹災者記念碑
東京高等工業學校の大学學昇格と、特設豫科の程度変更
済南事件と留學生の動靜。無産派の宣傳
結論
留學生教育の沿革概要
留學生の為に設けた學校
上級學校に対する希望
留學生教育の効果を有効ならしむる諸要件
補遺
成城學校
服部操氏の死亡。校舎及び寄宿舎の落成。阪西中將顧問と成る。
東亞高等豫備學校
新築校舎の落成。教員の民國教育視察。海軍志望者の入學。
日華俱樂部の成立
嚴修氏父子と范源廉氏の追悼會
東洋婦人會主催の民國女學生園遊會
中華民國留日學生同澤俱楽部と、東北將校委員會
龍山文部督學官一行の民國教育視察
民國留學生の激減
博士號の受領者と、主論文題目
昭和六年七月十八日發行 著者 松本亀次郎
發行者 栗原菊造 印刷者 杉山退助 印刷 秀英社 發行所 東亜書房(栗原菊造)
函付、著者松本亀次郎署名入り献呈本。
〔蔵書目録注〕
本書は、『松本亀次郎文庫目録』で、本書を山本条太郎・松岡洋右・本庄繁・与謝野晶子などに送ったことが知られる。
なお、本書にある「中華留學生教育小史」は、『留東學報』 創刊號 民國二十四年七月一日 に、「中華民國留學生敎育之沿革」 松本龜次郎述 韓逋仙譯 (原文載東京日華學會出版之日華學報昭和二年十一月昭和三年二六九月各期)。(民國十六年至民國十七年) としてその一部が、106-119頁に漢訳掲載されている。また、(未完,下期續刊。) ともある・