蔵書目録

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『 かれらに音楽を THEY SHALL HAVE MUSIC 』 (1951.7))

2021年03月21日 | ヴァイオリニスト ハイフェッツ、小野アンナ他

 

かれらに音楽を

    SAMUEL GOLDWIN
      Presents
   World s Premiere Violinist
     JASCHA  HEIFETZ  in
THEY SHALL 
HAVE MUSIC
      with JOEL McCREA・ANDREA LEEDS 
    WALTER BRENNAN・GENE REYNOLDS・MARJORIE MAIN
                     Directed by  Archie Mayo

 サミュエル・ゴールドウイン製作
 大映株式会社配給

かれらに音楽を

 スタッフ
 キャスト
 解説

 「我等の生涯の最良の年」や「われら自身のもの」等、數多くの藝術作品や娯樂大作を世に贈った名製作者サミュエル・ゴールドウィンが、現在世界の音樂界にあって、ヴァイオリニストとして最高の地位ある名手ヤッシャ・ハイフェッツを主演させて作った大作で、不良少年の更生問題を扱い乍ら、ハイフェッツの優麗無比な名演奏を心ゆくまで堪能させる本格的な音樂映畫である。
 ヤッシャ・ハイフェッツは甞て我が國に来訪した事もあり、名ヴァイオリニストとしてその名聲はあまりにも有名であるが、この映畫でも彼の演奏場面には多くの尺數をさき、グレッグ・トーランドの美しいキャメラがハイフェッツの演奏を美しく捕えて印象的である。
 ハイフェッツと共に、「忘れがたみ」「懐しのスワニー」等アンドリア・リーズ、「西部の王者」等のジョエル・マクリー、「西部の男」「姫君と海賊」等の名優ウォルター・ブレナン等が主演し、少年俳優ジーン・レイノルズ「卵と私」のマージョリー・メイン、「三十四丁目の奇蹟」等のポーター・ホール等が達者な助演振りを見せている。 
 製作には名脚本家として有名なロバート・リスキンがゴールドウィンに協力し、老巧アーチー・メイオが監督に當った。脚本はアームガード・フォン・キューブの原作からジョン・ハワード・ロースンが脚色したものである。
 音樂監督にはアルフレッド・ニューマンが當っているが、彼は又映畫の中でも音樂指揮者として出演している。又映畫の中に子供達の管絃樂團として出演しているのは有名なピーター・メレンブラム・キャリフォーニア・ジュニア・シムフォニー・オーケストラである。一九三九年度作品。(十卷 九三八三呎)

 この映畫で演奏される曲目

 1.「アンダンテ、カンタビーレ」
     (チャイコフスキー作曲)
   冒頭のタイトル・バックとして演奏される。
 2.「導入部とロンド・カプリチオーソ」
     (サン・サーンス作曲)
   カーネギー・ホールに於けるハイフェッツの大演奏會で演奏される。
 3.「ホラ・スタッカート」
     (ディニーク作曲、ハイフェッツ編曲)
   學校で映寫される映畫の第一曲
 4.「エストレイータ」(小さい星)
     (マニエル・ボンセ作曲)
   同じく映畫中映畫の二番目の曲
 5.「メロディー」
     (チャイコフスキー作曲)
   終りに近くハイフェッツが學校へかけつけてすぐ彈き始める曲。
 6.「ヴァイオリン協奏曲第三樂章」
     (メンデルスゾーン作曲)
   この映畫最後の曲目、ハイフェッツが子供達の管絃樂團に合せて演奏する。
    以上がハイフェッツ自身によって演奏される。
 7.「小夜曲」
     (モツアルト作曲)
   寄附金募集の子供達が街頭演奏する。
 8.「セヴィラの理髪師」
     (ロッシーニ作曲)
   學校で子供達の管絃樂團が演奏する。
 9.「小犬のワルツ」
     (ショパン作曲)
   學校の演奏會に於ける幼い少女のピアノ・ソロ。
 10.「カロ・ローメ」(親しき名前)
     (リゴレットより)
   フランキーが學校へ入った時の少女の獨唱。
 11.「ノルマ」
     (ベリネー作曲)
   最後の學校の演奏會での少女の獨唱。

物語
この映畫の出演者たち
 ヤッシャ・ハイフェッツ

 この映畫に本名で特別出演しているヤッシャ・ハイフェッツは、現在世界の音樂界で自他共に世界最高を許す名ヴァイオリニストであり、その圓熟した演奏は近代のヴァイオリン奏法の最高峰として永遠に語り傳えられるべきものといっても過言ではありません。現在世界中のどの國でも、ヴァイオリンを學ぼうと志す人の殆どがハイフェッツのレコードによってその奏法を研究している事によってもその名聲がうかがえるでしょう。
 ヤッシャ・ハイフェッツは一九〇一年、ロシアのヴィルナに生れました。不思議にもその誕生日は同じヴァイオリンの名手フリッツ・クライスラーと同じ二月二日です。彼の父はル―ヴィンといい、町の劇場の樂團のヴァイオリニストだったので赤ん坊の時から音樂に親しみました。その頃から彼の音樂に對する感受性は文字通り驚異的で、生後八ヶ月で父が美しい旋律を彈くと嬉しがり調子を外すと嫌な顔をしたといわれています。
 三才の時から父の正規の教育を受け、五才でヴィルナの音樂院に入りました。六才の時には既に一人前のヴァイオリニストとして公開の演奏會に出演してメンデルスゾーンの協奏曲を見事に彈いて、並いる人々の舌を卷かせました。それから二年の後(彼が八才の時)偶々ヴィルナに來たアウアー敎授は彼の異常な天分を認めてペテログラードで自分について學ぶ樣に彼の父に勸めました。こうしてアウアー敎授の弟子になったハイフェッツは勉強の傍ら、オーストリア、ドイツ等を廻って演奏會を開き、各地で熱狂的な歡迎を受けました。
 ハイフェッツは十二才で職業音樂家としてデビューし、ヨーロッパ各國を巡演し各地でセンセイションを呼びました。十三才の時にはベルリン・フィルハーモニック管絃樂團と共に演奏し、十五才の時には師のアウアーと共にノールウェーのオスローで國王の御前演奏をしています。    
 やがて彼の故國ロシアに革命が起りました。彼が十六才の時です。共産主義を嫌った彼の一家はシベリア、日本を經てアメリカに移住しました。こうして十六才の名ヴァイオリニストは一九一七年十月二十七日、ニューヨークのカーネギー・ホールでアメリカで初の獨奏會を開き、批評家の激讚を浴びました。
 その後も彼はニューヨークで大演奏會を開く時は好んでカーネギー・ホールを選んでいますが、このカーネギー・ホールはこの映畫の中でも彼の演奏會の舞臺となっています。
 彼は一九二六年アメリカの市民権を獲得しましたが、その前後から頻りに各國を廻り演奏會を開いています。我が國へも震災直後の大正十二年(一九二三年)十一月來朝して災禍を免れた帝國ホテルの演藝場や日比谷公園の新音樂堂で演奏し、更に昭和六年(一九三一年)に來朝した時は東京劇場で大演奏會を開いています。」一九三四年、彼は久し振りに故國ロシアを訪れましたが、彼の演奏を聞く爲に遠くシベリアの僻地からも人々が集り、家具、衣類を處分して旅費にあてた人もあったという事です。
 今次大戰中、彼は各地を廻って將兵を慰問し國家に多大の功献をしましたが、一九四七年、當分の間休養すると宣言して樂壇を退き一九四九年一月、カーネギー・ホールで復歸第一回のリサイタルを開いています。
 ハイフェッツは我が國でも最も親しまれているヴァイオリニストの一人で、戰前もビクターから發賣されていた彼のレコードは大きな賣行きを示していました。
 彼の優雅な演奏振りは彼の平和な私生活にもよく表れています。彼は現在、愛妻と二人の子供、そして二匹の犬と暮し、二軒の家を持っています。家はキャリフォーニアのハルボアと、カネティカットのノーフォークにあり、共に彼の趣味に適った清楚なものです。彼の趣味は讀書、稀書籍の蒐集、繪畫の鑑賞等で、ナイト・クラブやパーティよりも冬のカネティカットの山を愛し、子供との散歩、庭いじり、ピンポン等が好きで、自動車の運轉と寫眞は彼の御自慢です。因みに彼の夫人は無聲映畫時代にパラマウントにあって人氣のあった素人女優フローレンス・ヴドアです。
 彼が劇映畫に出演したのはこの映畫が最初で、名製作者ゴールドウィンと意氣投合して作られたこの映畫が名人の面影を傳えるという意味だけでもいかに貴重であるかがお判りと思います。
 ここである有名な音樂評論家が彼について云った言葉を引用して見ましょう。
「彼にはただ一人彼を打ちまかそうとする競爭者があり、彼は常にその競爭者に負けぬ樣に精進している。その競爭者の名はヤッシャ・ハイフェッツ、即ち彼自身である」

 ジョエル・マクリー
 アンドリア・リーズ
 ウォルター・ブレナン
 ジーン・レイノルズ

昭和26年7月20日印刷
昭和26年7月25日発行
発行所 発行人 大映洋画ライブラリー 下山達

 なお、上右の写真は、大正十四年八月発行の雑誌 『音楽グラフ』 八月号 第三巻 第八号 にある「賀の祝をしたアウアーと其弟子」である。

 最近八十回誕辰會を催したアウアー敎授とその高弟
   
  アウアー氏 
   エルマン
   ジンバリスト
   ハイフェッツ氏
   パーロー女史 



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