蔵書目録

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『エフレム・ヂンバリスト』 (1922.5)

2022年02月14日 | ヴァイオリニスト ハイフェッツ、小野アンナ他

   

エフレム・ヂンバリスト

〔挿絵〕
 ヂンバリスト氏演奏會舞臺裝置 ‥‥ 薄拙太郎


〔口絵写真〕
 ・EFREM ZIMBALIST
 ・EFREM ZIMBALIST(結婚紀念)
 ・ALMA GLUCK(結婚紀念)
 ・Zimbalist-Ⅰ to move
   この寫眞はヂンバリスト氏がニューヨークのお宅で愛妻アルマ・グルック女史と将棋をさしてゐらるヽ所です、お二人の仲の良さは紐育社交界の評判也
 ・Zimbalist-Ⅰand Ⅱ
   この可愛いベビーはエフレム君(三才)です、此外に六才のお嬢ちゃんがあります
   大天才と大天才との血を享けた兒等の未來は可成り興味を以て見られて居ります
 ・on the deek.     (キーストンステート號にて)
   向って右アッシマン氏・左ヂンバリスト氏
 ・At the Oriental Hotel  (樂聖出迎記參照)
   向って右より杉浦氏・アシマン氏・ヂンバリスト氏・永田氏
   
 (目次)
  帝劇の文化使命     ‥‥ 山本專務
  エフレム・ヂンバリスト ‥‥ 永田龍雄
  アルマ・グルックのこと ‥‥ 仝人
  ヴレゴリイ・アシュマン ‥‥ 仝人
  樂聖出迎記       ‥‥ 仝人

 ヂンバリスト氏の乘船アドミラル・ラインのキーストン・ステート號は豫定の十三日にはとうとう來なかった。
 十四日も山本專務と共に横濱の波止塲へ出掛けた。
 きのふの無線によると遲くも一時には棧橋へ横着けられるといふのに、それらしい影さへ見へない。專務は臺覽劇の舞臺稽古やベルジュム公使館の招待會やで公私一入多忙な体でゐられる、そこであたしは後の事を引受けて專務に歸って戴いた。
 あたしはメトロポリタンのマ子ージャアであるカティ、カサッザなどと、わが專務の熱情的な、藝術家に酬ゆる心の比較などをして、熱い感謝の心が專務のうへにそゝがれた。
 あたしは、今朝、朝湯にはいってきたので、この雨の日の火のけのない階上で、どうやら風邪をひいた氣味を感じた。
 薄畵伯や杉浦氏や横濱の寫眞技師やと酒を命じてのんだ、五時になると、もうこの階上のバァは、とじてしまった。
 西空がすこし明らんで雨が小やみになった時はもう六時であった、このとき、やうやくキーストン號は靑い大きな船體を棧橋にちかづけてゐた。
 大きな甲板は玻璃窓でくぎられてあった、仰のけば、幾百の顔が、いちやうに、棧橋を見下ろしてゐた。
 どこにゐるだらう。
 もう薄ら明りの玻璃窓のなかから、どうも寫眞で見覺えのヂンバリスト氏らしい顔が靜かに浮き出て見える。
 あれだなと思ふ切那に帽子をふって見ると、むかふでも帽をふってくれた。
 やがて微笑した顔が、いよいよそれだとわかるやうになった。
 十分ほどたってわれわれは熱い握手をかはした、ヂンバリスト氏の伴奏者のグレゴリイ、アッシュマン氏とも熱い握手をかはした、あたしの手は、はづかしいほど冷えてゐた、握手をせられる手は、ほんとに熱かった。あたしは、くれぐれも專務山本の出迎へのことを物語った、きのふもきた、けふもきた、そう言った時にヂ氏はお氣の毒であったと言った。
 棧橋の木舗を踏んでヂンバリスト氏はうれしげにニ三度飛んだ。スパッツをはめた氏の赤靴には土がついてゐなかった。
 それから一行はオリエンタル、ホテルまで車をすゝめた、二人とも物珍らしげに東洋のリキシャマンの初乗りをした。
 ホテルで紅茶とトーストをすませ記念撮影をして、自働車で櫻木町まできた。
 車中は、あたたかだった。
(あの木の履で歩きにくゝはないか)ヂ氏は向側の高足駄をはいた人を見てそっと囁いた。
(いゝえ決して)
(日本の女性の黑髪は美くしいですね)
(さう思ひますか)
(えゝ)
(するとあなたの日本印象の第一は黑髪と木の履ですね)
(えゝ)
 しづかに笑はれる、實に物靜かな人だ、鼠色のサックコート、黑鵞絨の帽子、その好みからしてアメリカの匂ひがない、イングリッシュ、ゼントルマンだ。
(あなたはアメリカで、ひょっちゅう、どこにリシデンスをもっておすまゐですか)
(紐育シチィです、市の公園にホームがあるのです)
 あたしがリシデンスと言ったのを言ひ消すようにホームと言った、ますます氏のなつかしい言行が匂ひやかに、わたしをとらへるのだ。
(あなたの名はチンバリストですか、それともヂンバリストと濁るのですか)
(ドイツではチント言ひますが、あたしの正しい名はヂンバリストと濁るのです)
 こゝで、あたしは廣く日本の人々に氏がヂンバリスト氏である事をしらせて置きたいと思ふ。
(あゝ櫻がー)。
 つれのアッシュマン氏が言ふ。
(もう櫻は遲いのです、よくふる雨で、あんなにあせてゐるのです)
(あなたのお兒さんは)
(二人あります、長女はことし六歳つぎが長男で三歳ヱフレムと言ひます)
 あたしはしまったと思った、小傳には六歳の男兒しかないと書いたことを氏にあやまった。
(オゝさう)事もなげに笑はれた。
(夫人のグルックは)
(今スペインの旅です)
(あなたは山田耕作君を知ってゐますか)
(えゝニ三月あとに紐育で逢ひました、あたしの家内が彼の作曲したものをカア子ギイで唄ったはづです、彼はまだ旅中ですか)
(いゝえ彼は最近歸京しました、あなたは逢へるでせう)
(お國は立派な世界的の人をもってゐます、オ〻もうこれが東京ですか)
 新橋の驛を出ると築地の方の空から雨後の大きな春の月が、あがりかけやうとして居た。
 劇場にきた、ちょうど幕間であるので、喫煙室に案内をする。氏のブロークン、メロディが十字屋の店員によって、おほくの聽衆にきかされて居た。
 氏は眼をつぶって、だまって、レコオドをきいてゐた。舞臺にも立って見た。
 スプレンデイド!かう氏は言った。
 ちょうど「桂川」があくところで宗之助君がグリーンルームに女房おきぬの姿でやってきた。
 握手をした。この東洋獨特の女形の顔をぢっと見てゐた氏は、やがて
(あれは、アクトア)かと訊ねた。
 まもなく二人は山本專務と會見をした、さうして紀念撮影をした。   (四月十七日午后)
  
  表紙ハ挿畵スケッチ   ‥‥ 薄拙太郎
  
  編輯          ‥‥ 杉浦善三
 
 大正十一年五月一日發行
 
 〔蔵書目録注〕
  
 上の写真一番右は、本書に挟まっていたもので、十字屋楽器店の関連レコード広告の紙片。



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