蔵書目録

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「舞踊嫌ひの日本人」 田中正平 (1916.9)

2011年09月25日 | バレエ 2 エリアナ・パヴロワ、貝谷八百子他

 

 この文は、大正五年 〔一九一六年〕 九月一日発行 の『婦人公論』 九月号 第一巻 第九号 に掲載された。
〔上の絵葉書の写真は、スミルノワと思われる。〕
 舞踊嫌ひの日本人 
   ◇◇◇国民性に適する舞踊を興せ◇◇◇
         理学博士 田中正平

 私は舞踊に就いて別段専門的に研究した訳でもなければ、又勿論自分で稽古したと云ふのでもない。唯舞踊の同伴者とでも云ふべき音楽のことを少し調査 しら べたことがあるので、自然幾分か関係する処があるから、不知不識 しらずしらず の間に舞踊に対する趣味も出て来、舞踊の貴 たふと いことも判つて来たのである。で、固より舞踊に対しては全く素人なのであるから、私の言ふ処も大に正鵠を得ない事があるかも知れない。

 ▽世界中舞踊の無い国はない

 舞踊を愛するは人間の特性であつて、世界何れの国でも、其国民固有の舞踊の無い処はないのである。而して其沿革は皆、其国の宗教儀式の一つであつたものが漸次独立発達して来たもので、今日俗間に行はれてゐるものも、先づ此式舞より其流れを汲んでゐるのに相違ない。日本のお神楽などは、今日でも其古風の体を残してゐるものである。基督教でも、今では余り行はれてゐないが、然し昔は随分寺院内で舞うたと云ふ形跡をとゞめて居る。日本では踊り子は其術を天鈿女命 あめのうづめのみこと から受けたと言つてゐるが、此考 かんがへ は蓋し日本許りではあるまい。詰 つま り世界各国の人々が皆舞踊の根源を神秘なものにしてゐるのである。

 ▽踊るのは人間の天性である

 又舞踊は人の喜びを表現する一種の手段である。歓喜する時は、人は「手の舞ひ足の踏む処を知らない」と云ふ。手紙の文句にも、「雀躍の至り」などゝ云つて、悦 よろこ ばしい嬉しい事があれば踊るのが人間の天性である。それをしないのは無理に其本性を抑圧してゐるのではないかと思ふ。広く世界の各国民の状態を見るに、日本人程舞踊しない国民はない。特に近来に至つて益々然 さ うである。昔は歴史的にも見えてゐる通り、何か社会的の慶び事や、或は家族的の祝ひ事がある毎に、白拍子であるとか、其他男女に拘 かゝ はらず、常に起つて舞ふものがあつた。酒席などでも必ず誰か起つて舞ふことが行はれてゐた。起つて舞ふのを肴 さかな と称する。酒は有るが肴が無いと云つた場合でも、舞があれば結構飲めると云ふ意味で、こんな言葉が出来たのであらう。

 ▽盆踊は唯一の慰楽であつた

 各地方へ行くと幾分単純な又卑俗なものではあるが、盆踊りと云ふものがあつて、農家が一年中其業務に励精した慰安として、年に一度男女大勢寄り合つて睦まじく踊るのを無上の娯楽としてゐたのである。然るに近来では、此盆踊りも風規上の監督が行届かないからと云ふ理由で殆んど禁止されてゐる。之は一面社会風教の上からは然るべき処置とは思はれるけれども、然しこれがために国民唯一の慰楽を奪つて了 しま ふことは甚だ遺憾である。

 ▽良家の令嬢は踊らなくなつた

 其他昔は良家の令嬢達も、一つの身だしなみとして皆舞踊を稽古させられたものである。処が然 そ ういう風習 ならはし は次第に薄らいで、今日では芸者になるものゝ一つの準備としてのみ舞踊を稽古すると云つた風である。従つて踊りの稽古をするに伴ふ弊害も沢山生ずるやうになつた。今日品位ある家庭の令嬢たちが斯 こ う云ふ方面に心を傾けない許りでなく、仮令 たとへ 舞踊の稽古をしたとしても、単に隠し芸としてゞあつて、人の前に起つて舞ふなどといふことは恥づべきことのやうに思はれて来た。だから舞踊の側から見ると今日程情 なさけ ない時代はないと言つてよいであらう。

 ▽日本程舞踊の嫌ひな国はない

 扨 さて 前に述べた通り、世界に舞踊の無い国はないのであるが、其世界の文明国中で我国ほど無邪気な娯楽の嫌ひな国はなからう。殊に舞踊を以て娯 たの しむと云ふ事の最も嫌ひな、従つて最も少ない国は我国である。支那は然 さ うである。然し支那の婦人達は纏足をしてゐるから、舞へと云つてもそれは無理な註文であるが、日本人のは故意に舞踊をやらないのである。是れは一種の社会の変調で、決して健全なものではなからうと思ふ。即ち国民が妙にひねくれてゐるのである。さもなければ、努力をしないで娯楽のみを取らうとするおうちゃくな傾向であるまいか。凡て何事も凝つて見なければ面白味は出て来ないものである。努力が悦楽の大なる要素である。ところが、日本現代の社会は、楽しみは享 う けたいが、努力することは避けたいと云ふ社会ではないかと思ふ。これでは個人々々には都合が好いかも知れないが、日本一国の文明と云ふ事になると甚だ嘆かはしいことであると思ふ。

 ▽西洋のダンスは欠くべからざる年中行事

 西洋では男も女も殆んど踊りを知らぬ人はない。尤 もつと も踊りと云つても所謂舞踏 ダンス であつて、劇場などで優人 やくしや が演 や る芸術的の舞踊即ちバレーとは別である。此舞踏の根元は、日本の盆踊りのやうなものから進化したものであるが、運動といふ点からも結果が良いのみならず、社交的な機関としても是非なくてはならぬものとなつてゐる。そして一般の青年男女が熱心に行 や るから、舞踏といふものは今日では欠くべからざる一つの年中行事となつてゐる。寔 まこと に舞踏は一見極めて簡単で何処が面白いか判らないやうであるが、自分で行 や つて見ると非常に興味がある。一体何事でも見るよりも行ふ方が理解も生じ楽しみもある。

 ▽ダンスは日本人には向かない

 勿論日本でも西洋の舞踏の行はれてゐる所もあるが、日本人は日本人の衣裳を着、日本の家屋に住 すま てゐるものだから、一般にはまだゝ流行となるまでに行かない。此舞踏を如何 どう かして日本へ入れやうと苦心した人もあつたが、如何も旨く行かない。第一男女相擁 あひよう するといふことが日本の風習の是認する処とならない上に、家屋も西洋式に建て、音楽も西洋式なものでなければー即ち総てが西洋式にならなければ、舞踏をやるのに不便である。勿論単に斯 か う云ふ不外面的な事情許 ばか りではなく、芸術的な点から言つても、舞踏は日本人の社会には不向きであるが、それは暫く措 お くとして、前にも言つた服装が適しないといふことは重大な問題である。諄 くど いやうであるが服装がいけない。
 
 ▽踊るにはそれ相応の服装が必要である

 倩 つらつら 各国の状態を見るに、舞踊は服装に依つて大なる影響を受けるものであり、又受けなければならなぬものである。例へば日本の芝居の所作事などで、龍宮の乙姫が所謂「緋 ひ の袴 はかま」即ち上臈 じやうらう の扮装 なりかたち で舞踊するのは、所謂踊るのではなくつて、これは舞ふ方になる。又これで何か活溌なものを舞はうとすると、袖が邪魔になり、脚の捌 さば きが悪くなる。であるから踊るにはそれ相応の服装が必要なことは申すまでもない。
 元来西洋人は男はズボンで、女は袴を穿いてゐるから、足の運動は非常に自由である。故に舞踏は勿論芸術的な舞踊即ちバレーに於ても、足の運動が旺 さか んで、飛び跳ねたり、足を高く揚げたりする。女の人でも足を自分の顔まで揚げる。頗る活溌である。其活溌な点に別種の趣味があるのである。而かも其活溌さが永年の研究に由つて非常に優雅な芸術になつてゐる。

 ▽日本人には舞踊の味は解らぬ

   

 然し此西洋式の舞踏又は舞踊 バレー を見て楽しむと云ふのは、矢張歴史的に人の眼が養はれてゐなければならぬ。歴史を異にする日本人の眼には、一朝一夕にして其美其味を感ずる事は出来ない。西洋に永く移住して親しく西洋の舞踊に接し、其眼を肥 こや した者は格別、唯一般の人には、見ても異様に感ずる外 ほか に、軽妙に運動すると云ふ事位は賞玩することは出来ても、其外に深い感動を得る事は六つかしい。先頃帝劇へ来た露国のスミルノワの舞踊なども、伊太利の舞風を取入れて、新しい解釈を加へ、立派な露西亜の国民的舞踊となつてゐるが、吾々には非常に珍しい結構なものとは感じられても、西洋人 厳密に云へば露西亜人が感ずるやうな妙味は迚 とて も感じられない。即ち吾々日本人は、日常見慣れてゐる服装をし、見慣れた体 からだ のこなしを基とした舞踊にして其美容を発揮するのを見て、始めて興味を覚えるのではなからうか。であるから如何 どう しても我国の舞踊は我国にある処の主題を採つて、歴史的に吾々の憧憬してゐる処の人物、又は吾々が夢見る処の、親しみを持つた仮想的夢幻的人物が出て活躍する処に吾々の舞踊は出来上がらなければならないと思ふ。

 ▽舞踊は国民性に合はねばならぬ

 舞踊は此 かく の如くそれ自身に於て国民性に関係があるから、それに伴ふ衣裳や音楽も亦調和を得なければならぬ。三味線を弾いて舞踏 ダンス を踊るのが不調和であると共に、西洋の楽曲によつて日本式の舞踊をなすのも亦不釣合である。故に今後の舞踊の進歩刷新も矢張国民的立場ー我々と我国の思想理想の上に立つて図らなければならないと思ふ。

 ▽舞踊を改善発達せしめよ

 舞踊の趣味は、簡単なものと複雑なものとに由 よ つて違ふ。簡単な事は自分が行つて自ら趣味を感じ、複雑なものはそれを行つて自分以外の他人に趣味を感じさせる。即 すなはち 専門の徒である。この区別は西洋では、舞踏 ダンス と舞踊 バレー によつて明かに分れてゐる。日本ではまだこれが十分に区別されてゐない。即九歳や十歳位の女の子が、奴 やつこ にもなれば弁慶にもなり、中には勘平にもなつて道中をやると云つた風である。之は芸術の方からは或は歓迎すべきことかも知れないが、然し舞踊の趣味を拡めるには何 ど うかと思ふ。も少し容易 たやす く舞踊する事が出来るやうにしなければならぬ。即ち之を学び之を行ふに容易ならば、自分も趣味を感じ多くの人にも楽しみを與へる訳である。又斯道に精 くは しい名人上手の芸を見ても之を玩賞する事が出来ると思ふ。何にしろ目下の処、日本では舞踊の研究方法が未だ充分でない。之を教へる方法が研究されてゐないのみならず、之を稽古するに伴ふ弊害が未だ余程沢山ある。日本の文明を増進すると云ふ点から見ても、如何 どう しても今日は社会が之に注目して其改善を促さなければならぬ時期ではないかと私は密 ひそ かに考へてゐるのである。



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