蔵書目録

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「帝都二・二六事件一週年を迎へて各關係方面の回顧資料)」 2 (1938.5)

2021年02月08日 | 二・二六事件 3 回顧、北一輝他

(3)警視廳交換台のスリルを偲ひて

 事件勃發當初、警視廳の交換室にあって、誰よりも先に擴大して行く不安を總身に感じながら、よく職場を護りつゞけた交換嬢たちは、思ひ出の廿六日には職場の休憩室で、茶話會を開き膝つき合せて「あの日」を偲んださうであるが、當時籠城組の一人として悲壯な經驗をした、新監督岸田さがさん(二四)を訪ねて、當時の感想を叩くと、岸田さんはまざゝと事件當時の情景を眼前に想ひ浮かべて、感慨を新にしながら語る。
 「警備係から事件があるといふので、私達八人が杉田監督代理に起されたのはたしか、朝の五時廿分ごろだったと思ひます。警視廳の交換台は全部で十六台ですが、繼續して交換事務を執ってゐた四人と合せて、當時の全員十二名が部署について、大急ぎで各警察署へ、非常招集の通知の連絡をし終ったのは六時五分ごろでした。そのとき十五、六人の兵隊さんが着劒した銃を持って、ドヤゝと交換室へ入って來ました。」岸田さんはしばしば當時を追懐してゐる樣であった。
 「最初はアラ兵隊さんが入って來たわ。といったやうな輕い氣持ちだったのですが、十人位室から出て行って、殘りの兵隊さんがうしろに並んで、交換事務に干渉し始めました。」
 何しろ餘計なことを言ふと劒で突き殺すと云ふので、私達はこれは大變と感じ覺悟をして一層緊張しました」
 「公衆電話で度々何かあったのかと尋ねて來るのですが、何も判りませんと答へる外、どうも出來ないのです。常より歸りが遅くなったので、心配して家から問合せがあっても、何も話すことが出來ません、七時ごろ『一切交換を中止しろ』と命ぜられましたが、石田さん(當時の監督)が兵隊さんに交渉して、『通話を止めたら火事その他の事件があった場合大變なことになるから‥‥‥』と職務の重大な事をお話して、約十五分位で再び連絡を始めました。
 兵隊さんは四五十分おき位で交代して、監視してゐましたが、その後は干渉が一層やかましくなって、モシゝとかハイハイといふ事務の用語以外は、何もしゃべれませんでした」。かうして朝五時から夕方の六時近くまで、恐怖と緊張の十二時間餘が過ぎたのである。其の間食事はどうしましたと聞くと、「食事は前日の夕方食べたきりで、夕方交代して歸る迄カタパンを少し食べただけですが、緊張し切ってゐたので、疲勞も空腹も感じませんでした。夕方五時半ごろでしたか、電話係の事務の宿直員から交代の話があったときは、一同ホットしました。併し佐伯さん達の交代組十八人の顔を見たら、このあとどうなるだらうと思ふと氣の毒で、思はず涙が出て來ました」と岸田さんは當時の複雑した心境を語るのだった。
 「特に印象の深かったのは當日の午後特別警備隊の方が、一人交換室へ來られたことです。あのときはどんなに氣強く感じたことでせう。それでその後もその方に會ふ度毎に二・二六事件のことをすぐ思ひ出します」と語り終って如何にも感慨深さうであった。
  
(4)岡田總理を助けた三憲兵の殊勲記(事件當時の秘錄)

 昨年二月廿六日午後八時十五分陸軍省は左の如く發表した。
 ◬首相官舎、岡田首相即死◬齋藤内大臣即死◬渡邊‥‥
 若しもこの陸軍省の發表が、眞實を物語るものであったとしたら當時の總理大臣岡田啓介氏は、叛亂軍の犠牲として永遠に我等の世界と袂別してゐたのである。ところが事件勃發から三日目、總理の死を嘆いた國民は、意外なる發表を耳にした。廿九日午後四時五十分内閣は左の如く發表したのである。 
 「今回の事件に際し、岡田首相は官舎において遭難せられた旨を傳へられたが、圖らずも今日まで首相と信ぜられてゐた遭難者は、義弟の松尾大佐であって、首相は安全に生存せられてゐた事が判明した」
 思ひ設けない事實!數百人の叛亂軍に包圍されながら、岡田首相はかすり傷一つ受けず、首相官舎を脱出したのだ。奇蹟が行はれたのだ!福田秘書官の發表した「首相脱出の眞相」も、人々を納得させることは出來なかった。新アラビアンナイトとして、アメリカの某新聞が三萬ドルの懸賞金附で、その眞相を究めようとしたのも無理のない話である。では岡田總理救ひ出しの眞相は何うか?
 ー早くも事件の一周年を迎へ、今日まで全く秘められたゐた眞相が、茲にはじめて明かにされた。
 昭和十一年二月廿五日の午後九時ごろ、平常のごとく首相官舎日本間十二疊の寢室に寢た岡田首相は、翌廿六日の明方近くになって突如!深夜の静寂を破るたゞならぬ物音に目を覺ました。
 「重大事件が起ったに違ひない」と直感し、ガバっと跳ね起きた岡田さんは、枕元の時計を見た。時に午前五時✕十✕分である。
 「これはたゞ事ではない!」総理は中庭に面した廊下を通って、女中部屋、浴室に通ずる襖を開いたのである。この時、別棟に泊ってゐた。總理の義弟松尾傳藏大佐は、同じ廊下をすれ違って首相寢室の横に出た。松尾大佐と擦れ違った瞬間も、岡田さんは全くその事に氣づかなかった。官舎警備員(警官)詰所の邊りから響く物音は、次第に大きくなる。日頃思ひ惱んでゐたある豫感が今、事實になって起ったのである!風呂場にかくれた岡田さんは、背後に地響をたてるダッダッダツといふ機關銃の響きを聞いたのだった丁度その頃田園調布、東玉川の私邸に住む憲兵曹長小坂慶助氏(三八)は、同じく廿六日午前五時✕十✕分けたゝましいベルの音を聞いてガバと跳ね起きた。憲兵司令部からの電話ーー只事ではないのだ。小坂憲兵は明治卅三年府下國分寺町生れ、明日は俺の誕生日なので、隊の同僚も集め知己も迎へて賑やかにお祝ひをやらう、と夫人に總ての用意を言ひつけて眠ったばかりの所だった。そこへ急の電話、取るものも取敢ず勤め先の九段下麴町憲兵分隊にタクシーを走らせた。もどかしい一分、二分、五分‥‥‥隊に駈けつけた時、既に分隊長森少佐(現在京都隊長)が部下を集めて訓辭を下してゐる。「如何なる非常時に際しても、憲兵は憲兵本來の使命を果さなければならぬ。私は君達に全信賴をかける‥‥‥」小坂氏は聲涙共に下るこの言葉を聞いて早速自らの使命についた。
 「靑柳軍曹!小坂伍長集れ!」手兵は二人これから受持の首相官舎の警備に乗込むのだ。空は重い雪曇り、寒氣は次第にきびしく、帝都未曽有の恐怖の第一日が明け初めた。小坂慶助曹長、靑柳利之軍曹、小倉倉一軍曹この三氏こそ、岡田啓介大將を死地より救ひ出した、殊勲の三憲兵としてその機略、その沈勇を永遠に記さるべき事件背後の殊勲者である。三憲兵が歩哨線を突破して永田町首相官舎裏門に到着したのは朝の六時ごろ、四圍はまるで死の樣な靜けさ、朝來訪れる者もない官舎裏庭の淡雪は、鋲を打った軍靴に踏み蹂られてゐる。詰所にゐる筈の警官は何處に行ったか一人もその姿が見えない。脚下に見える溜池ー赤坂見附一帶思ひなしか電車、自動車の交通も緩慢である「恐怖におびえる帝都!」不安は益々濃くなる。一歩、二歩多數の銃劒に護られて進む毎に凄慘の氣は深まる。日本間に通ずる廊下を過ぎて、首相寢室と廊下一つ隔て内庭に出た。すると蜂の巢の樣に無數の穴の開いた杉戸を開けて、裏庭を見ると、悲慘!血が雪を點々と染めてゐるではないか。岡田首相は遂にあへなくも逝ったのであるか、やがて首相寢室に入った時、寢具の中には童顔の首相が面に苦悶の色も表はさす靜かに眼をつぶってゐるのを見たのだった。
 「岡田首相は暗殺された!」‥‥‥‥‥これが三憲兵が本部に入れた第一報だった。
 岡田總理の死はも早や一點の疑ひを容れる餘地もなかったのである。ところが靑柳軍曹が首相官舎内の各室の檢索をなし、最後に女中部屋まで來ると、官舎の女中秋本さくさん(三〇)府川きぬえさん(二一) の二人が、何故か此恐怖の場所を去らうともせず、押入の前にうっ伏して嗚咽してゐるのを發見したのだった。その後氣にかゝるまゝに、二、三度女中部屋を覗いて見たが、二人とも前と少しも位置を變へず、同じ場所にじっとしてゐる、その樣子が押入れの中に何者かを匿ってそれを必死に護りつゞけてゐる樣に思はれたので、靑柳軍曹は
 「お前達は其處で何をしてゐるのか」と訊ねると、二人の女中は消え入るやうな怖え聲で
 「御主人の死體を護るため此處に置いて下さい」といふ。その樣子その言葉の調子から軍曹は、この押入の中に誰かを匿してゐると感じたが、今それを氣付かれゝば、兵は激昴してやうやく靜まりかけた事態が、再び惡化するのを怖れ「謎の押入」はそのまゝそっとして置いて、一先づ報告のために分隊に引揚げたのだった。その日の午後交替して首相官舎に赴いた小倉軍曹は、靑柳軍曹から機會あらば「女中部屋の謎の潜伏人物」を確める使命を受け繼いでゐたのだが、叛亂軍の本據たる首相官舎は、そのころからやうやく情勢變化し、邸内深く入ることは非常に困難になってゐた。しかし執拗に機會を狙ふうち、午後五時半折柄忍び寄った宵闇の好機に乗じ、女中二人の泣き伏す部屋に近づいた小倉軍曹は、必死に取りすがる女中を斥けて、押入の襖を開けたーと同時に中から
 「射てッ!」と低いが張りのある老人の聲がし、流れ込む淡い光線に照らし出されたのは、意外にも寢室に横へられてゐる筈の死體の主「岡田總理」ではないか!
 「閣下!僕に委せて下さい!憲兵ですッ!」
 低いが確信に滿ちた強い語氣で小倉軍曹は云った。この一語に岡田總理は凡てを悟ったものか、コックリうなづいた。後は双方無言仰臥した總理には、女物羽織をかけて、襖はまた元通り閉されたのであった。ところがそれから半時間もたった頃、一大事が持ち上がった。と云ふのは行動隊の下士官が兵一人を從へて女中部屋の檢索にやって來たのだ。その下士官は
 「此處には女中二人きりか?その押入の中を調べろ!」と兵に命じた絶體絶命だ!だが小倉軍曹は平靜な態度で
 「先刻一通り調べましたが、異狀は認めませんでした」とはっきり答へた。しかし巡察下士官は「さうか。だがもう一度調べて見よう」と云ひ、突然ガラリと襖を開き、懐中電燈をつけたとパッと蒼さめた總理の顔面が照らし出されたのである。「しまった」と思った瞬間、それを認めた巡察下士官は、
 「何んだ!爺さんが一人居るではないか」といったので小倉軍曹は咄嗟に
 「これは永年官舎に勤めてゐる爺やです、さっき氣絶したまゝ入れて置いたのです」と何氣なく言ってのけると、「さうか、では君に賴むよ」と巡察下士官は輕く聞きながして行ってしまったのであった。冬の日は既にトップリと暮れ、寒々と火の氣一つない總理の寢室では、岡田首相の身代りになった松尾大佐が、肉親の通夜もなく淡い電燈の灯かげで、偉大なる犠牲者の眠りを續けてゐる。それにしてもどうして「生きてゐる岡田首相」を救ひ出せるかを小坂曹長、靑柳、小倉軍曹は、福田秘書官と共に夜っびて救ひ出し計畫の協議に耽ったのだった。焦躁のうちに時間は徒らに過ぎて行く、翌廿七日の午前中も救出工作は遂に徒勞に終った。ところが午後になって總理の近親者に對して、燒香を許すといふことが判った。これこそ待ちに待った機會である。今はもう躊躇すべき時ではない。この燒香者の出入の隙に乗じて首相を救ひ出さうといふことになり、福田秘書官は淀橋の岡田家に電話をかけ
 「廿七日午後二時、特に官舎内で燒香を許すといふことだが、老人ばかり十名を早速寄越して貰ひ度い。女は對絶にお斷りすると申込んだ。この奇妙な電話こそ總理脱出のために打った大芝居だったのである。
 親戚總代の元鐡道技師加賀山學氏は、十一人の老人を引連れ。午後一時三台の自動車に分乗して官舎を訪れた。首相の身邊係りの小坂曹長は、女中に命じてマスク、ロイド眼鏡、モーニングを押入に運ぶ。緊張に蒼白となった福田秘書官が、靑柳軍曹と共に、燒香客を招じ入れる間に、身支度は整った。機會を見て小坂曹長は、廊下を日本間表口まで駈け出し、通用門に向って
 「大變だ!燒香に來た老人が腦貧血で卒倒した早く車を呼べ!」と叫ぶと、通用門を警戒する五名の歩哨が、サット兩側に分れ自動車係小倉軍曹の指圖で、用意のフォード三五年型二一一號がスーツと車寄せに入って來た。福田秘書官に抱かれたマスクの岡田總理は小坂曹長に右肩を支へられ、其のまゝ車中に入り「病院へ」と叫ぶ聲を殘してまっしぐらに溜池に走り下り、自動車の持主淀橋區下落合三ノ一一四六元代議士佐々木久二氏邸に辷り込んだ。かくて岡田總理は三憲兵の機略と、沈勇によって紙一重の死地を脱し、奇蹟的脱出に成功したのであった。(以上秘錄了) 



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