契約書
中華民國革命軍最高顧問萱野長知ト角田他十郎ト左ノ条項ヲ契約ス
以下萱野ヲ甲トシ角田ヲ乙トス
第一条 甲ハ乙ヨリ、モーゼル短銃及ビ實包ヲ買入ルヽコトヲ約ス
第二条 其ノ取引地及ビ期日數量價格ハ左ノ如シ
(一)取引地、 青島渡シ
(ニ)期 日、 四月弐拾貳日入港予定ノ薩摩丸ニテ持チ来ルコト
(三)数 量、 五百挺以内但シ毎壱挺彈丸百発付キノコト
(四)價 格 壱挺ニ付キ銀百円マデトス
第三条 代金ハ青島ニ於テ現品引換ニ即時支払ノコト
但シ右薩摩丸便ニ間ニ合ハザル時ハ本契約ハ無効トス
右契約ノ証トシテ本書二通ヲ作成シ各自一通ヲ所持ス
大正五年四月十二日
萱野長知 【印】
角田他十郎 【印】
電報畧符号 大正五年七月ヨリ
言葉ハ(アイウエヲ)ニテ操ルベシ
例ヘバ 馬具五十購求セヨ金送ツタト打電スルニハ下ノ如シ
(ソツ五十ツネヨタ)消ス
(クヤ五十ツネヨタ)
「野砲アルカアルナラ20送レ代金〇〇ト打電スルニハ」
(ハニアルカアルナラ二〇ロロハハ)トナルナリ
1
ア、イ、ウ、エ、ヲ
維縣 (ユメ) 送レ (ロロ)
安心セヨ (トト) 安全 (ヲヲ)
2
カ、キ、ク、ケ、コ
金送ッタ (ヨタ) 金送レ (タレ)
契約シタ (レソ) 購求セヨ (ツネ)
購求シタ (ネナ) 軍刀 (ヤマ)
使金 (エテ) 漢口 (ヱヒ)
海路 (モセ) 確実 (イン)
降服 (ハセ) 黄興 (ホヒ)
〇〇 (ルキ) 開会 (〇サ)
解決 (ツマ) 干渉 (ネヤ)
開始 (ウム) 居正 (へヱ)
機関銃 (ニホ) 機関砲 (ホヘ)
議長 (ワア) 議員 (カテ)
3
カ、キ、ク、ケ、コ
交渉 (ノラ) 契約セヨ (ニニ)
4
サ、シ、ス、セ、ソ
小銃 (ロハ) 送金急グ (カヨ)
借款 (ラム) 出発スル (ノオ)
出発シタ (オク) 進行 (コエ)
右会欠シタ (テア) 済南 (キユ)
青島 (メ〇) 上海 (シシ)
戰闘開始 (セス) 孫文 (ニモ)
総統 (チ〇) 撰挙 (ヌエ)
岑春煊 (タコ) 蔡鍔 (レフ)
守備軍司令部(ラオ) 出功 (ホホ)
5 タ、チ、ツ、テ、ト
彈丸 (イロ) 毒瓦斯 (リヌ)
出来タ (ムウ) 出来ヌ (ウ井)
奪畧 (ケフ) 鉄道 (ヒモ)
退却 (レン) 敵軍 (ロス)
段祺瑞 (ヨエ) 張継 (ナク)
手附金 (ムノ) 代金〇〇 (ハハ)
中傷 (チチ) 代金〇地渡シ(ヌヌ)
6
ナ、ニ、ヌ、ネ、ノ
荷物積出シタ(ヌル) 荷物積出シタカ (ワカ)
南京 (シヱ)
7
ハ、ヒ、フ、ヘ、ホ
ブローム (トチ) 飛行機 (チリ)
早クタノム (井ノ) 病気 (マケ)
副総統 (リメ) 北京 (サキ)
船ニテ積ム (リリ) 甚ダシ (ルル)
8
マ、ミ、ム、メ、モ
マダカ (ソツ) 〇〇 (ナラ)
馬具 (クヤ) 見込 (ヘヘ)
9
ヤ、ユ、ヨ、ラ、リ、ル、レ、ロ
野砲 (ハニ) 薬品 (ヘト)
李烈均 (ソケ) 黎元洪 (トシ)
用意 (フコ) 陸軍省 (ワワ)
10
ワ、ウ
我軍勝利(スン) 運動 (アサ)
受取シヤ(ル〇) 受取ッタ (〇ワ)
〔蔵書目録〕
・上の二つの史料は、いずれも萱野長知旧蔵のものである。
・上の〇は読めず、他も推測のものもあるため、正確には掲載写真を参照のこと。
なお、上の契約書にあるモーゼル銃や山東革命については、次の文が詳しい。
中國革命の恩人宮崎滔天
陳中孚
民蔵と寅蔵
私は宮崎民藏と寅藏の二人を知つてゐた。その外に彌藏といふ人がゐた樣だね、あの人も非常に民主的な方であつたと聞いてゐる。民藏は歐洲に遊び、また中國へも行つたが、仲々の學者であつた。孫文の三民主義の民生の内容である「地權平均」、「資本節制」の政策は、實は民藏の立案であつた。民藏はたしか虹口の田中旅館に二三年位滯在してゐたやうに思ふ。上海で亡くなつた。
私は熊本の荒尾にも行つて、宮崎兄弟の建碑除幕式に參列した。それはたしか昭和十六年の春であつたと思ふ。鶴見總持寺の境内にも、私は「中國革命を援助して呉れた人々に感謝する記念碑」をその年に建てた。
中國第一革命の時、廣東惠洲事件で犠牲になつた東亜同文書院の山田良政の碑が建つたのは民國三年頃であつたが、私は孫文の名代として山田純三郎(良政の弟)等と一緒に弘前へ除幕式に參列した。弘前で山田の墓にお詣りして東京へ歸つて來る汽車の中で、たしか仙臺あたりだつたかと思ふが、いつの間にか寅藏がゐなくなつてしまつた。純三郎に「宮崎はどうしたのか」ときくと、山田が説明して曰く、「滔天は浪花節をやるために仙臺で降りたのです。彼れは今の所あれで生計を立てゝゐるのですから」と言つてゐた。
當時孫文を始め中國革命黨員もそれを援助する頭山滿、内田良平、佃信夫、末永節、葛生能久、柴田麟次郎、萱野長知、その他皆生活は決して樂ではなかつた。私は滔天が浪花節で生計を立てながら中國革命派を熱心に世話してゐたのには感服した。その頃孫文も東京にゐた。
モーゼル五百挺買ふ金がない
中國革命黨としては、當時擧兵の爲の武器が欲しくてたまらなかつた。滔天が見付け出したのだつたと思ふが、五百挺のモーゼルが一挺八拾圓、合計四萬圓で買へるといふ、話だつたが、その金の工面がどうしてもつかない。孫や私にしてものどから手の出る程欲しいけれども、殘念乍ら金が出來ない。その苦勞を見兼ねた滔天が、種々交渉した結果、そのモーゼルを持つてゐる商人が、頭山滿が保證人に立てば品物はとれるといつて來た。然し孫は非常に律儀な男であつたから、「鐵砲は欲しいけれども頭山だつて金は無い、我々も金の入るあてがない、若し拂へない樣な事になつたら頭山に迷惑がかゝる、頭山に迷惑はかけたくない」といつて、モーゼルを入手しようと云はない。滔天は「頭山はそれ位の迷惑に驚く男じゃない。商人の方で頭山が保證すれば品物を先に渡すといふのだから、受取つたらどうか」と、如何にも殘念相に熱心に勸めたが、孫は聽かなかつた。それで話は不成立に終つた。
山東の革命
民國四年の下半期になつて、五萬圓の金が出来たので、以前に不調となつたモーゼル五百挺を購入した。その時は一挺百圓の割だつた。山東の革命には滔天も一寸來た樣に思ふが、彼れは主として黄興と行動を共にしてゐた。山東の方は萱野長知、工藤忠、塩谷慶一郎等約三十餘名の日本人有志家が加勢に來て呉れた。
山東に渡る前、大阪の或る化學工場、たしかオギノといふ代議士だつたかも知れないが、鐵砲が足らなければそれに代る化學兵器、即ちガスが有るといふ話だつたので、大阪の工場へそれを見に行つた。ホースでガスを噴出させたが異樣な臭ひがしたが、人畜を傷つける程の有毒ガスではなかつた。金嵩も相當張ることが判つたので、先づ五萬圓だけ内金を入れてガスを貰ふこととし、革命が成功したら百萬圓謝禮を出すといふ條件で話をきめ、孫から誓約書一通を入れて話は成立した。
山東へ渡つたのは民國五年だつた。當時中國各省には中國々民黨の支部があり、支部長が配置されてゐたが、山東と滿洲とだけは支部長が置いてなかつた。それは山東の革命黨の有力幹部が、皆上海に行つてしまつてゐたので、缼員になつてゐたのだ。
これより先、海洲の奥に金が埋めてあるといふので、六百トン許りの日本の漁船で海洲の沖まで行つたが、そこから川を朔江しようとしても關があつて船が上れない。心を殘して引揚げて來たことがある。
當時居正が國民黨の部長で東京にゐたので、私は彼を説き、山東革命軍の總司令を引受けさせた。私がその下で副總司令といふ譯である。當時湖北省の支部長は田桐といふ男がやつてゐた。孫の手許にはその時三千圓位しかなかつたので、仕方がない、それだけを軍資金にと貰つて出掛けた。一行は居正と私と萱野とも一人だつた。
私は大連に上陸、それから撫順に行つて、十萬人もゐる炭坑夫の中から一千人の志願傭兵を募つて靑島へ送つた。モーゼル銃五百挺の代金は孫が支拂ひ、その外に五萬圓呉れた。私は靑島で三四十萬圓別に作つた。
山東の革命黨員等は皆上海に出向いてしまつて、靑島には殆ど名のある者はゐなかつた。當時上海では陳其美や蔣介石もゐた。そこで上海から山東の同志を呼び寄せたが、同志達は誰一人として武器を持つてゐない。それで呉大洲(山東の革命黨員)にモーゼル百挺を渡した。その後また別に百挺の小銃を手に入れた。
すると我々が大阪から仕入れて行つた毒ガスの噂が全中國に擴がつたので、北京の袁世凱から上海にゐる孫へ「如何に革命黨とは云ヘ、同胞に對して毒ガスを使用することは非人道的であり、將來非難を蒙ることは必定であるから、それだけは絶對に使用を禁止され度い」と抗議を申込んで來た。そこで孫から私にその旨を通告して、毒ガスの使用は絶對禁止する樣に云つて來た。
私は我々が持つてゐるガスは、有毒ガスではないことを知つてゐたが、その噂は戰略に利用した方が得策と思つたので、孫には「承知した旨」を返答して置き、我々の同志一行は靑島から維縣に向つて出發した。
袁側の督軍は一ヶ師團と騎兵一聯隊を維縣に配置して布陣してゐたが、我が革命軍は素人の寄せ集め軍一千人にモーゼル四百挺、小銃百挺といふ貧弱極まる装備である。
維縣には東と西の二つの城があつたが、夜中に東の城を陥れたが、外の陣地から大砲で猛攻撃を加えて來るので、持ち堪えかねて退却してしまつた。そして膠洲鐵道のステーションへ引揚げた。維縣は山東では濟南に次ぐ堅固な重鎭であつたので仲々陥落しない。他の城なら占領出來るところもあつたが、外へこちらの兵隊を出すと軍律が正しくない烏合の衆だから、どんな惡い事をするか解らないので、派遣出來ないといふ惱みがあつた。私の眼の届く所へ置かねばらない内情であつた。それで苦しくても今夜一晩はこゝで頑張らねばならないといふので、亦その晩攻撃に出たが城は取れない。城内と驛の間は二里位あり、その間で四五ヶ所占領し防禦施設を施した。敵は山東省第五師團といふのであつたが、我々革命軍は寡勢ながらよく持久戰をして、約二週間對抗して頑張つた。その内敵側から使者が來て、談判をしたいから總司令居正と、私とも一人に、敵の司令部へ來て呉れと云つて來た。我々は相談の結果、三人で行つて若し敵の謀略にかゝつて、三人共監禁される樣なことがあつたら、革命軍は全滅するから、私一人で行かうといひ出し、結局單獨で敵の司令部へ乗り込んだ。
敵の代表と私が和平の談判を行つてゐると城壁の上の監視所から歸つた歩哨が「今夜城壁の上に立つてゐると變な臭ひをかいだ、あれは毒ガスぢやないかと思ふ」と云ふので、すかさず私が「ウン、あれは確かに毒ガスだ、私は同胞の間で毒ガスを使つてはいけないと止めたが、これ以上城内の明渡しを待つ譯には行かない、孫からも警告して來たけれども、今夜は使用する豫定になつてゐる」と脅かした。すると敵將は驚いて退却を決意し「城の明渡しはもう二日待つて呉れ」と懇願したが、私は「二日はとても待てぬ、毒ガスを使用して攻撃する筈だ。是非共明日の午後三時迄に明渡せ!」と迫つた。そこで城明渡しの談判が成立し、約束よりも早く敵は城を棄てゝ退却したので、歡呼の聲をあげた。
維縣の城はかくて革命軍の手中に入つたので、私達は早速三ヶ師團の軍隊を作り、高密やその邊の東方地區を占領し、山東省の約半分を占領した。滿洲皇帝の侍衛長をしてゐた工藤忠等はその時諸城の占領に向つた。山東の革命には井上日召・前田虎雄等も参加した。その當時金子雪齋も山東へ來た樣だつた。
袁世凱の死の原因
私は殺され損つた
滔天、孫に擧兵を勸む
革命は今も必要である
(筆者は、第一革命時代より孫文滔天等と行動を共にしたる中國の革命家、現在中國の再革命運動に挺身しつつあり。日本に在留する中國革命家中の最長老で、或は滔天と共に孫文の名代として革命端初の犠牲者山田良成の建碑式のため弘前に赴き、亦荒尾の滔天の墓に詣で、中國革命を援助したる日本人有志に敬謝を捧ぐる碑を孫文と共に鶴見總持寺に建つ。山東革命には總司令官居正の下に、參謀長として参加、日本人にして參加したるものは井上日召、前田虎雄、工藤忠、本間憲一郎等である。元冀東政府外交部長。現在亞細亞友の會々員。當年七十二歳。)
上の文は、昭和二十九年五月一日発行の雑誌 『祖國』 宮崎兄弟特輯號 五月號 第六卷 第四號 に掲載されたものである。