Japan Medical Women❜s Journal
本邦女醫之機關
No.73 日本女醫會雜誌 第七十三號
日本女醫公許五十周年記念號
日本女醫會
〔口絵〕
・本邦女醫の嚆矢故荻野吟子女史と其筆蹟
記念祝典の際に於ける私の所感 ‥‥ 會長 吉岡彌生
五十周年記念號に題す ‥‥ 副會長 醫學博士 福井繁子
女醫會の歷史を囘顧するに、所謂天の時、即ち時代の要求によって、周期的な、發展向上を遂げつゝある事は、百般の事業が社會狀勢の推移に伴ひ各發達せると其軌を一にして居ります。
抑々我國に於ては、昔より女流にして、醫業に從事せし者、其數少なしとは云へ、全國的に、患者の治療に、從事せられたる事は疑なき事實であります。
筆者の淺見寡聞を以てしても、我大阪に於ては、徳川時代に於て板倉周防守居城の時、其の女難産の際に召出されたる女流産科醫佐伯氏の如き、敏腕果斷の婦人にして、當時惱み深き産婦をして、克く健全なる愛兒を擧げしめ、其功により名を釆女と命ぜられ、爾來幾星霜子々孫々佐伯釆女として今日に到り、現に産科醫として尚ほ盛業を持續せられつゝあるが如き、又筆者の郷里に、錦織と云へる女流産科醫あり、郷黨の信頼厚く、殆んど全縣下に名聲を博し、患者門前に雲集せし等其例尠からず。
當時日本醫界に於ては、醫育機關等存する筈なく、只名聲ある、醫家の門下として、數年間薫陶を受けたる者、一個の醫人として、門戸を開放せしものなりしを以て、勿論醫籍登錄等の事は絶無なりき。斯の如き狀態なりしを以て、明治初年に於て、醫師法制定を見るに至る迄、産科醫として、女醫の存在せし事は嚴として明なり。
明治初年、時勢の赴く處、東京帝國大學卒業並に内務省の檢定試驗を經たる所謂西洋醫を以て、一般治療に當らしむるに至りては、在来の開業醫師は漢法醫として、主に現地開業醫の免狀を附與せられたるものと思はる、是等時勢の變遷に伴ひ、一般民衆は西洋教育を受けたる、新進の医師を歡迎するに至りたるを以て、女流者も亦之に追從せざるを得ざる大勢即ち周期に遭遇、刺戟せられて洋醫としての研究勉學に沒頭邁進せざるを得ざりしは必然の事なりしなり。
此の時に當り我等大先輩荻野吟子女史は、此の周期到着に際し、克苦勉勵專心克く萬難を排して此の天與の時を把握し、女流にして、始めて醫籍に登錄せらるゝの大業を完成し、以て在來の女流醫家の面目を改め、後進に今日の如く、隆々たる光明を、與へられたる事は、吾人道を同じうする者の、日夜感謝措く能はざる所なり。
爾来東京女子醫專、帝國女子醫專、大阪女子高等醫專等女流醫育機關の相次で開校せられ、現今に至りては、既に同業三千名を突破するの盛況を來せり。然るに、周期即ち、天の時が再び廻り來りて、今より六年前西村庚子氏先づ、學位を獲得せられ、引續き十指に餘る學位獲得者を出すに至れり、案ずるに、約三十年前、宇良田唯子氏は、學位論文を完成し、東京帝大に、學位を要求せられたる事ありしも、當時は未だ天の時到らず、不幸學位を獲得するの榮を得られざりしが、前述の如く、第一の天與期に始めて檢定女流醫家を出し、第二の周期に於て女流の學位獲得者を出すに至りたる如き、是れ皆時運の然らしむる所なりとす。
來るべき第三、第四、第五の天來時には、必ずや刮目して見るべき、大なる女流醫家の發展向上の遭會すべき事は、疑を容れざる所なり、然れども周期の到來は人力の能くせざる所なれば、徒らに拱手之を待つべきに非ず、日夜斯の道の爲に、奮勵努力して學識を深め、同時に廣く社會の變遷推移を考究し、來るべき周期に備ふるは勿論、惠まれたる時期を克く把握善用すべきは、先輩後進の別なく、我が女流醫界の一般に課せられたる重き責任、大なる榮譽と考ふるのであります。
日本女醫公許五十周年祝賀會
式辭 會長 吉岡彌生
本日女醫公認五十周年記念の催しをいたしますに際し、来賓各位並びに會員多數御出席下さいまして、主催者として、厚く御禮申上げます。
女醫は昔から全くないのではなく、千代萩の小牧が女醫であったやうにも傳へられ、又了義解と云ふ書を見ると、奈良朝時代に博士が七人の賢明なる娘を集めて、醫術を口述し、内侍所の側にて炙點を行ったと云ふ記錄があり、その後織田豊臣時代にはなかったやうですが、徳川時代には相當ありました。野中兼山の娘野中婉女もその一人で、自分は處女であると云ふので、振袖姿で、然も男の患者の塲合、絲脈を案出したのも有名な話であります。
又芭蕉の門人度會園女が醫者であった事も見のがせぬ事實で、今深川にその墓碑が殘っています。尚又近くは有名なシーボルト先生の息女楠本いねも女醫でこの方は明治六年まで生存して、宮内省囑託を命ぜられてゐました。
最初日本に西洋醫學が入りましたのは、明和八年今より一六八年前に杉田玄白、前野良澤、この方々によって、オランダ醫學が學ばれ、引つゞき徳川末期に英米の醫學が入り、明治三年の頃、世界の狀勢を見るに醫學の進歩してゐるのはドイツであると云ふので、ドイツ醫學が學ばるゝやうになりました。その内次々に西洋醫學が盛んになったので、二千有餘年來基礎を固めた皇漢醫が、これに對抗しやうと結束し、一方政府では西洋醫學の長所を認め、科學的に研究された西洋醫學でなくてはならぬとて、これを防ぐ手段として、醫術開業試驗を行ふ制度を設けました。かくて明治九年より各府縣に命じて、地方の狀況に應じて試驗を行ふ事になり、其後制度を改めて、明治十六年内務省だけで、前期と後期にわけてこれを行ふ事になりました。
私共の先輩荻野ぎん子女史は、若くして結婚し、婦人病に罹り、そのため順天堂病院に入院し、病院生活二ヶ年に及び、この時異性の醫者でなく女醫があったらと痛切に感じ、自ら進んで女醫たらんと希望せられました。
當時女子の醫學を修むる處なく、初め高等師範の前身竹橋女學校に勉強、第一囘の卒業生として出身、其後醫學を學ぶために、軍醫監石黑忠悳閣下にお願ひして、下谷練塀町に高階經徳氏の經營さるゝ好壽院に入りそこで修業しました。さていよゝ開業試驗を受けやうとすると、女子にその資格がないとの事で、要路の人々を歷訪して、許可を得る事に努力しましたが、要領を得ないので、石黑閣下より時の衞生局長の長與專齋翁に賴んで頂き、又巨商高島嘉衞門氏よりも説いて頂いて、二ヶ年の努力で、やうゝ明治十七年許さるゝ事になりました。女史のよろこびは一通りでなく、私も生前會ひましたが、そのよろこびは口にも筆にも例へられぬと申して居られました。かくて女史は十七年前期試驗に合格翌十八年後期試驗に合格、初めて女子として醫師の資格を得られました。自分の病氣の體驗から、どうぞ醫者になりたいと努力せられた女史の苦心と、石黑閣下並びに長與專齋翁の御盡力を思ふ時、この御三方には何とかお禮を申上げずには居られないと思ひます。
この内お二人は故人となられましたが、幸ひ石黑閣下は御生存故、ぜひこの席にお招きしたいと思ひましたが、おみ足が惡くて代理の方をお出で頂いた次第であります。
斯うして荻野女史が女醫になられてより滿五十年、生澤いくのと云ふ人が續いて女醫となられましたが、この人についての記錄はありません。第三になられた高橋瑞子氏は、女子に醫學の門戸を拓く事に大變努力せられました。女史は明治十九年醫師となり、元大工町に開業して、明治二十二年に留學しましたが、婦人の留學は實に珍しい事でした。
女史は醫學に志しても、女子に入學を許す學校がないので、濟生學舎の開放を賴むべく、舎長の長谷川泰先生に面會を求めんと二日間その門前に立ちつゞけて、やうゝ許さるゝ事になりました。その後慈惠大學の前身成醫會や関西醫學校等でも女子の入學を許しましたがこれ等廢校の後は、濟生學舎のみ女子を入學させました。然しこれも風紀上女子の入學を拒絶する事になりました。當時私は微力でしたが、こゝで女醫の進路が絶えては、折角荻野女史や高橋女史が開拓されたのに殘念な事であると思ひ、生意氣な人間と思はれたかも知れませんが、明治三十三年十二月女醫學校を創設しました。その後濟生學舎も廢校になり、東京醫學校、日本醫學校等に女子入學を許されて居たのも、專門學校昇格のために、これも女子を入れぬ事になり再び女醫學校のみで、女醫を養成する事になりました。
續いて昭和の時代となって、大森に帝國女子醫專、大阪に大阪女子高等醫專の創立あり、女子の醫學校が三校となり、今や三千六百の女醫を算するに至りました。
是等女醫は約三分の一は開業、その他は病院又は社會事業の救療に從事し、研究中の人もあり、それゞ活動して居ります。
今日までの道程を振り返ります時、石黑閣下、長與專齋翁の御盡力と、荻野女史の努力を感謝し、一方會員の皆樣もますゝ責任を完うして世の中に盡さねばならぬと痛感いたします。
この記念すべき今日の催しに際し來賓の方々にお禮を申上ぐると同時に會員の御努力をお願ひいたし度いのであります。
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(當日式塲に於て、石黑忠悳閣下並に吉岡彌生女史に左の頌徳表及感謝狀を捧呈せり)
上の文等は、昭和十一年六月三十日發行の 『日本女醫會雜誌』 第七十三號 日本女醫公許五十周年記念號 日本女醫會 に掲載された一部である。