蔵書目録

明治・大正・昭和:音楽、演劇、舞踊、軍事、医学、教習、中共、文化大革命、目録:蓄音器、風琴、煙火、音譜、絵葉書

『粛軍問題の経緯』 1 (1935.10.17)

2021年01月26日 | 二・二六事件 2 怪文書

 

 統制派ノ文書 “肅軍問題の經緯”

 統制派の文書『肅軍問題の經緯』

   本篇輯錄に就いて一言

  村中大尉の『肅軍に関する意見書』は一世を驚倒させたが就中故永田中將を總帥とする統制派をはじめ所謂本部派と目される軍中央部加ふるに建川、小磯派の愕きは想像の外にある。殊に間もなく発生した永田中將事件、川島新陸相の登場等は、所謂本部派としても緘黙しないだらうと豫期してゐたが、突然十月十七日前後本篇が極少部数軍関係へ配布された。本篇は村中大尉の意見書と背馳するものであることはもとより言を俟たぬ。両者を味讀することは國軍動向の眞諦を獲るには好個のものと思料するので、敢て本篇をも輯錄することゝした。

     肅軍問題の經緯

         序文

近時我陸軍は内部の統制大いに紊乱派閥抗争に寧日なく人事は適確を缼き思想は動搖しつゝあり。その暗闘抗争の赴く所遂に陸軍始つて以来の不祥事件たる永田中將殺害事件を惹起するに至りたりしとなし、陸軍内部の非常時を高唱するものがある。併し一般世人の見る如く陸軍内部一般の統制は決して紊れて居るとは思はれない。
 此の陰鬱不快の現象は実は單に陸軍上層部及びこれに直接関係しある地方勤務將校の一小範囲に局限せられたことであって、之に関係なき一般多数の將校は依然として一糸紊れざる軍紀軍律のもとに各自の勤務に格別精勵してゐると見るのが至當であらう、永田中將事件勃発後急遽軍司令官師団長會議の召集された大部の軍司令官師団長は肅軍に関する陸相の仰々しい御訓示を御土産に頂戴して寧ろ不思議の感に打たれたらうと思はれる位である。
 さは言へ翻って考へて見ると此問題に関係しある將校は陸軍最上層の名譽ある將軍を含む陸軍中層級の有為優秀の佐官並に活躍雄飛の泉源たる年壯尉官であるので其の数は極めて僅少であるけれども其の影響する所相當甚大なるものがある、又年少気鋭の所謂西田税の主義を崇拝する彼等一派の思想は極めて過激であって其の主義の貫徹の為には上官の命令に反抗するも恬として顧みず寧ろ高所から見て忠節を盡す所以でありと言ふ様な信念を以て行動するので此思想が一般將校に傳染したら軍の統率や軍紀の確立とは當然成立しないことになるから見方によっては決して軽視等閑視すべき問題ではない事は勿論である、以下少くとも此問題を系統的に年月を追って順序に記述して見ようと思ふ

     昭和六年三月事件

 満洲事變直前即ち昭和五六年頃の我國の情勢は実に消極的沈滯の時代であった即ち外部に対しては所謂幣原外交の方針に基き極端なる消極平和主義が採用され内部に対しては隨所不況の影響を受け國民は緊縮萎縮の生活を強要されて事業衰へ失業者續出と言ふ有樣であった、之が爲各方面に非難不平の聲が起ったが就中気概ある志士先達をして慷慨悲憤措く能はざらしめた事は日本外交の軟弱を見縫った隣國支那の排日抗日の態度であって日露戰争の結果獲得したる満洲の利権迄も将に張學良一派の爲に奪取せられんとしつゝあったこと、政党財閥が腐敗の極私利私慾の為には國を賣っても恬として恥ぢざる破廉恥行為の頻出であった。
 昭和七年三月事件は此の情勢に憤慨し我帝國を危機より救はんとする軍部一部愛國の志士が赤誠の余り現内閣を倒し政党財閥を清掃せんとした一計劃である。この計劃案は當時陸軍省課長たりし故永田中將が上長の命を受け作案したる試案だと言はれてゐるが其の真偽明かでない。兎に角此案実施の為には軍隊の一部も参劃出勤し民間の有志も加はる事になって居って、相當大袈裟なものであった、軍部では宇垣大將を筆頭に二宮、小磯、建川將軍は勿論陸軍大學出身の佐官級よりなる有力者をもって組織された所謂櫻會の會員の大部分は關係して居る事になって居た。
 併し何と言っても此案は非常なる過激性を帶び帝都の安寧秩序を一時的にもせよ紊乱する虞れ頗る大なる計劃であるので單に試案たるに止まり実現するに至らなかった。
 こんな思想は誠に極端な思想であり危険な計劃であったが極端なる消極退嬰の時勢を挽囘改革する為には矢張り當然起るべき反映であり趨勢であったのではないかと思はせられる、何となれば此計劃は実現されなかったが爾後これが動機の様左形となって昭和六年十月事件昭和七年五・一五事件民間では昭和七年一月血盟団事件昭和八年七月神兵隊事件等々が次から次へと恰も雨後の筍の様に頻出したのはこれを裏書するに足りると思ふ。
 幸に何れも計劃が未然に発見せられ或は実現されても半途にして中折されて居るので大事に至らなかった、之が計劃通り実現され帝都に戒嚴令でも布かれる樣な事があったら恰も佛国の革命當時の恐怖時代の樣な現象を呈したかも知れないと思はれる、併し一方こんな思想が外に溢れて満洲事変の樣な世界を驚かす大事件を惹起せしむる間接の原因をなしたかも知れないと想像せられる。

     昭和六年十月事件

 三月事件は一理想案として作案され同志との間に発表せられたものに過ぎなかった、血の気の多い少壯將校は如何にしても之を其儘軽視して放置することを得ずとなし橋本中佐等が巨頭となり密かに同志を糾合して種々具体的案を計畫し時期の到れるを窺ふことになった、之が十月事件の始めである。
 此の計劃は具体的のものであって其の実施に當っては近衞第一師団より武装せる軍隊が出勤するのみならず立川所澤等より飛行機迄飛来し爆撃を実施し強力を以って内閣を倒し、 大將を總理に推すことになって居った、勿論財界の巨頭や政界の注意人物は襲撃の的になって居った。
 幸に將に実施せんとする直前國家を思ふ先輩や同僚の密告若しくは憲兵自身の偵知に依り其の巨魁たる数名の將校は憲兵司令部に留置されたので大事に至らずに事件は事済みとなり當局の配慮に依り新聞にも其の眞相は記載されなかったので此の事件は天下白日の下に暴露することなく暗から暗に葬らるゝ事になったが実に危機一髪の時に克く甘く始末をつけ得たと思ふ、此の事件には後には大問題を起した相澤中佐も関係して居る、同中佐は當時東北師団の大隊長であったが軍隊の一部を指揮し何れかに行動することになって居った一人である、併し三月事件に名の出た將軍連は一人も関係せず寧ろ極力鎮定の立場にあった事は注目すべきものとして、三月事件の案は單なる計劃案に過ぎなかった事を推量する一の材料となると思ふ。
 此の事件には士官学校第四十三期附近の最年少の少尉連中も可なり参加することになって居ったが此の事件の憲兵隊に報告せらるゝに先立ち彼等は其の巨魁たる橋本中佐以下のが屡々待合に出入豪遊し眞面目ならざる態度に憤慨し共に大事をなすに足らずとなし此の盟団と分離して別に行動を取り邦家の為昭和維新を目指して精進することになった、此の連中が後に問題を起す村中、磯部、栗原一派であって彼等は好んで荒木、眞崎、柳川、秦將軍等を歷訪し将軍も喜んで 見し互に意見を吐露開陳して居るので彼等は以上の將軍を崇拝し將軍等も亦彼等に非常なる強力の後援をなす事になった。
 後に荒木、眞崎派と称するのは西田税の唱ふる主義と同一であって、現時の腐敗せる財閥政党を打破し内閣を彼等の理想とする強力内閣とする為には強力を以っても之を遂行せんとする徒輩であるので、其の危険過激の思想なる事は前者と何等変りはない、而も屡々前記將軍を歷訪し其意見に從ひ其後援を受けありし関係より推測せば荒木、眞崎將軍も亦彼等と大同小異の思想を抱懐し居った事は略洞察するに難くない事である。
 此の事件に某実業家が多額の軍資金を供給したる形勢歷然たるものあるは甚だ不快なる現象である、之が為彼等が維新の志士を気取り待合に於て大事を相談するが如き行為は寧ろ稚気愛すべきも笑止の至りであると謂ふべきである。

     昭和七年五・一五事件

 昭和七年は満洲事変勃発の翌年であり國際聯盟脱退の年である、國民は長年の平和消極生活から目醒めて世界の檜舞台に雄飛せんとする希望に燃えて居った時であるので鬱勃たる現政に対する慷慨は血なまぐさい形となって現はれた、則ち民間に於ては一月末、日召を巨魁とする血盟団事件があって財界の巨星である井上準之助、團琢磨の両氏の暗殺となり軍部に於ては所謂五・一五事件と成って海軍青年將校及陸軍士官候補生の数名に依って遂に犬養首相は殺害されてしまったのである、此の事件は時勢も時勢であったが三月十日事件等によってこんな思想が俄然醸成されて居った所に血盟団事件に依り更に刺戟され上層將校実行力なしと見て決然此擧に出たのではないかと思考せらるゝが純情至誠の奔る所とは言へ軽擧妄動の謗りは免れない。
當局及國民は之に多大の同情を與へたことは無理なく死刑にはならずにすんだが彼等が自発的に従容死を選んだら後世どれだけ世に益したかは知れないと思ふ。
 前の十月事件では金谷参謀総長が罷めて閑院宮殿下御親補されたが五・一五事件では荒木陸相は其儘であって教育總監武藤大將が責を負って林大將は其職を譲り二宮學校々長は交代した。



コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。