蔵書目録

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「瀕死の白鳥」 アンナ・パヴロワ (芸談 六代目尾上菊五郎)

2012年08月18日 | バレエ 1 アンナ・パヴロワ 
 ○ 上の写真は、アンナ・パヴロワ 〔Anna Pavlova〕 の「瀕死の白鳥」で、一九一〇年 〔明治四十三年〕 の米国公演のパンフレットに掲載されたものである。

 ○ また、下の写真は、「1927〔年〕」の消印のある英国製の絵葉書である。

 

 六代目尾上菊五郎は、大正十一年 〔一九二二年〕 九月の帝国劇場での公演を見ており、のちに次のように語っている。

 近頃よく新舞踊を拵へますが、新しい舞踊はどうも生温い、西洋の踊りはどうも飛びたがる。西洋の踊りは紫の蛭がくつついたやうな眉を引いて、髪はチリゝ、爪を真赤にして飛び廻るので、あれは引ッ掻く稽古かも知れません。唇が真紅で人喰人種のやうな恰好です。日本の踊りにはかういふのは滅多にありません。だから私は日本人の踊る西洋の踊りは見ない事にしてゐます。
 つまり日本に生れた者は日本のものに限ります。やはりパパやママよりお父ッあん、おつかさんの方がはるかにいゝ。富士山の高さを知らないで、ヒマラヤ山の高さを知らうなどと思ふやうな事は怪しからぬと思ひます。六七年前から何々の家元、何々の家元と、家元ばかり出来ました。踊れもしないのにそれが一ぱいです。舞踊が流行るのは大変結構です。が、今になつて日本の踊りを研究するのは遅蒔です。もつと早くからやつて貰ひたかつたと思ふ。今は敵国のことがやれなくなつたから、日本の方に引き摺り込むといふのでは如何かと思ひます。日本人は始めから日本のものに限ります。頭の毛の黒い者は日本に限るのです。尤も私は大分白くなりましたが…。
 先ほども音楽学校の校長と話しをしたのですが、「ねんゝよう、おころりよ、ねんねのお守りはどこへ行た」この子守唄で子供が眠られます。私もよくやられました。今はやられませんがね。之を西洋の節でラララッーとやられては眠られない。あつちの唄ならば又別ですが、「お江戸日本橋七ツ立ち」これをラララッでやられると、牝犬の遠吠えのやうに聞える。西洋の唄は酔はらひの唄、日本の唄は日本の節廻しでやらなければ事実聴き辛い。決してけなすんじゃありません。向かふのものは向かふのもの、日本のものは日本のもの。それをごつちやにした西洋皿へ飯を入れて、日本の茶をかけて、沢庵の香物をかじり乍ら、「サジ」でかつこむやうなものです。どつちかにしなければいけないと思ひます。 
 そこで西洋の踊りと日本の踊り、これは大変な差がございます。けれども外国にも かに踊りの名人があります。「瀕死の白鳥」を踊ったアンナ・パブロバ、あの人等は偉ひと思います。私は頭が下がりました。といふのはあの白鳥が死んだ幕切れのところで息をしてゐませんでした。私は余り不思議なので三日間行きました。その時、かういふ広い舞台に、最後にピタリと寝る。私はごく近い席に行って見たが息をしない。若し十分間幕が閉まらなかったら、あの人は事実死ぬかもしれません。余りの巧さに「私は菊五郎です」と言ったが、向かふは私を少しも知らない。それで紹介をして貰って自分の家に連れて来て、二晩芸談をやりました。芸のやり方、踊りのやり方が少しも違はない。通訳でやるんですから話が二時間で済むところは四時間かゝる。それで二晩かゝつたんです。
 そこで私は右足を出して叩きました。相手の足も叩きました。婦人の足を叩くのは失礼ですが、パヴロバがスカートを捲って足を出し、叩かせた。私も負けない気になって、俺のも叩いて呉れと、両方で叩き合った。併し私あの女に負けました。大変な堅さです。ゴツゝいふ。私も固い方ですが、向かふのはもっと固い。つまりそれだけ鍛錬が出来てゐるんです。それで帰すのが嫌になりました。さりとて一緒に踊るわけにも行きませんでしたが。
 いろゝの芸談の中で、私何が一番むづかしかったかと訊きました。幕が閉まる時が一番むづかしいと、涙をポロゝ出しながら話しました。同感です。どんな踊りをやっても人間ですから息が切れます。それで大抵は幕の下りる前に大きな呼吸をするんですが、これは実に見苦しいものです。その時にこの「瀕死の白鳥」は呼吸をしないのですから、私もこれには実に感服しました。


 『日本諸学講演集』第十三輯芸術学篇 「芸談 六代目尾上菊五郎」文部省教学局編纂 昭和十九年三月:昭和十八年 〔一九四三年〕 六月十日の一ツ橋共立講堂での講演の速記 の一部  

 ○ 下の写真は、一九二二年の公演後の帝国劇場の楽屋中のアンナ・パヴロワで、『サンデー毎日』(第一年第二十七号:大正十一年九月二十四日発行)の表紙を飾ったものである。

 
 
 快よき疲れ

 舞台から楽屋に引込むと、椅子に凭つてーーぐつたりしたパヴロワ夫人。しつとりと汗に濡れたその四肢には、踊り勞れた軽い心の満足が躍動してゐる。レンズを向けると、ヒョイと左の足を右に重ねて、鏡の方を向いた。隈取つた眼の縁、唇などに、年齢から争はれない固い線はあるが、無心に置かれた快い疲れの手足には、なだらかに流れた線の魅力がある。これが十万円の保険をつけてあるといふ舞踏女王の足だ。甲が高く、爪先きが小さく、踵は全く退化してゐる。この足にこそ、彼女の頭脳が反映して、世界の人を、各所に泣かしたり、笑はしたりして来たのだ(帝劇の楽屋にて、鈴木生)

 なお、この号の7頁には、着物姿で道成寺を習う弟子など2葉の写真もある。 

○ 下左の写真も、アンナ・パヴロワの「瀕死の白鳥」で、『週刊朝日』 第二巻 第十三号 大正十一年〔一九二二年〕九月十七日発行 通巻 第三十号 の表紙に掲載された。

    

 パブローワの舞踊

 この号の二十頁の「音楽」には、「パブロワ夫人後援会 は〔九月〕九日午後三時より鶴見志月園〔花月園〕ホールで来朝歓迎舞踊会を催すと」などとある。

 上右の写真も、裏表紙の「ライオン練歯磨」の広告にあるもので、パヴロワと思われる
 なお、のちにこの『週刊朝日』の表紙を見ているアンナ・パヴロワ〔Anna Pavlova〕の写真・関連記事が大阪朝日新聞〔大正十一年十月七日 第一万四千六百六十号〕に掲載された。大阪公演初日の十月六日に大阪朝日新聞本社を訪問したアンナ・パヴロワに贈られたとのことである。


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