楽器ヴヮイオリンの製造家鈴木政吉君
我国にてヴヮイオリンを手にするもの鈴木政吉君の名を知らざるなし、然れども君がヴヮイオリンの製造に就て幾多の艱難辛苦を嘗めて、而して後ち今日の成功を得し実歴を知るもの極めて稀れなり、記者此頃君を知れる二三の人々に就て纔 わずか に其実歴の一端を知り得たれば、世の青年立志の一助にもと思ふて、左に其概略を記すこととなせり。
君は安政六年当市宮出町旧名古屋藩士御先手同心の家に生れ家巖を正春君と呼びて、勤務の余暇には手内職として三味線の製造を営まれしかば、君も亦た幼より父君の業を助け為に多少音楽の趣味を解することゝなりて、後年ヴヮイオリンの製造には此素養が第一の因をなせりとぞ。
其第二の因とし見るべきは明治初年旧幕の各藩に於て英式の調練をなせし際、名古屋藩に於ても同じく其事ありしかば、君も徴されて楽隊手となり太鼓の稽古に怠りなかりき、然れども当時の君は父君の業を続で三味線の製造人たるに心なく偏に後來天下の大商人たらんことを期して、楽隊勤務の傍らに専ら英学の修業に勉めたりといふ。
歳十五の頃其童心に想へらく、我家貧にして専心修学に由なし寧ろ此際東都に出でゝ苦学をなさんものと、即ち父君に其志を告げて上京し塗物を業とせる親戚某氏の家に食客となりぬ、然り其実は丁稚奉公にして日夜塗物の手伝にのみ忙しく終に修学の暇を得ざりしといふも、畢竟するに此塗物業の手伝をなせしは、後日又たヴヮイオリンの製造に関して直ちに第三の素養となりしなり。
歳十七にいたるまで東都に在りしも、同年春父君よりして再三帰郷を促し来りしかば遂に止むなく帰郷して、再び父君の業を助けて不愉快なる消光をなすことゝなりしに、其後父君は家禄を奉還して専ら三味線製造業を営むことゝなり、且つ幾年ならずして逝去せられしかば君は則ち父君の業を続き現今の住宅なる東門前町の近傍に借宅せり、当時君は偶同業者の集会に列席せしに、席上或一人はいふ此頃東京に於て音楽取調所なるもの新たに設立せられ今後大に斯業発達の望みありと、君は此談を聴き、翻然昔日の素志を抛ちて一生音楽の研究に其身を委ぬることに決心し、先づ三味線の音色を分別するに苦心せり、而して其ヴヮイオリン製造の研究に着手せしは実に明治二十年冬の頃なりしとぞ。
明治二十年の冬君は業務の余暇に、時の愛知県師範学校音楽教師恒川鐐之助君を師として唱歌の稽古を励みおりしに、一日同門生なる甘利鐵吉なる人ヴヮイオリンの模造品を携へ来りて其教授を受くるの状を熟視し、且つ該楽器の西洋各国い於て非常に流行するの実情をも聴きて直ちに以て其製作に従事せんことに志し、以来用材の研究等に数多の苦幸をなし漸く翌二十一年二月始めて一の模造品を製出するに至り、該品をば恒川氏に示せしに氏は比較的好良なりと称讃し又た各所よりの注文も少からざりしかば、遂に君は殆んど本案なる三味線製造業を廃して該品の製造にのみ出精するに至れりと。然るに当時岐阜県師範学校に於てヴヮイオリンの舶来品を購入せりとの報に接せしかば、君は自家製品と比較して其優劣を知らんと欲し、同地に赴きて時の同校音楽教師亀井虎次郎君を訪ふて来意を述べ先づ舶来品を一見せしに、其製造は何れの点に於ても精巧の妙を極めおりて君が製品と比較しては殆んど人造物にはあらざるかとまで疑はれ、且つ亀井氏は君の製品を指して児童の玩具にだも劣れりと酷評せしかば、君は此際断乎該器の製造を中止せんかとの感を起すにさゑ至れりとぞ。
然れども由来不屈不撓 ふどう の精神に富める君は、爾来三年間愈々侵食をも忘れて該品の製造研究にのみ熱衷し、漸く用材に就て多少得る所ありしも猶発音に関しては毫も得る所なかりしと、而して此間に於ける君は漸次資本の欠乏を来たし、実に人世悲惨のあらゆる苦味を嘗め尽せりといふ。
試みに直接君に対して発音に関する苦辛談を聴かんか、君は唯纔に二十三年五月上京して時の東京音楽学校御雇教師ヂットリヒ氏に就き、自製品の試験を請ふて多くの注意と訓誨とを與へられ為に大に得る所と自ら確信する所ありて、帰途初めて関東地方の一手販売を共益商社と特約し、猶舶来品一箇を購入し来りて爾後該品を常に己が座右に置きて各種の工夫をなし、或時は殆んど茫然自失して家人よりも狂せしかとまで疑はれしも、終に二十四年の秋に至りて己が製造の手加減に依りて自由の発音を得ることを自覚せしのみと答へん、然り君が其自覚を得るまでのは百苦幸は決して筆紙の能く尽し得べき所にあらずして又た尋常人の企及し能はざる所なり、想ふに此間君は其衣食住にも窮せしとあらん、又親戚故旧よりしては其研究を全廃すべしとの注意を受けしこともあらん、而して君も亦た数日自ら長嘆息にのみ耽りおりしとあらん。君が苦幸は独り該器の製造に関してのみならず、三十三年の頃新に東新道町に其製造工場を設置するに当りては、更に製造に要する諸般機械の発明にも其心を苦しましめ、而して漸く今日の現況と成功とを見るに至れるなりと。
君が発明製造のヴヮイオリンは、決して君が新発明にあらず又た専売特許品にもあらざるも、其多年苦辛の効果は到底他人の能く模造し得る所にあらずして、為に内外国の博覧会には常に優賞を受け、隨つて外人よりも逐次注文を受くるの好況に進みしを以て、勿論我国にても今日にては全く該器の輸入を仰がざることゝなりしといふは実に邦家の為に慶すべきことなり。
猶曩 さき に新設せし東新道町の工場は、此頃狭隘を感ずるに至れるを以て更に工場の増築を計画し、且つ今後大に米国に向つて輸出を計らんとの準備中なりといふ。
因に中京音楽院は君が斯道の発達を以て設立せしものなるが、其今後の隆盛は、君が事に熱心なる性情を知れるものゝ等しく共に期して疑はざる所なり。
上の文は、明治三十八年十一月一日発行の雑誌『関西評論』第六号 発行所名古屋市関西評論社 の人物伝評に掲載されたものである。下は、その雑誌にある広告である。