(以下明石にて)
梅にほふ夕陽丘の花かげにたふれて立たず梅は又咲く
道ばたに道を教へて立つ石も見て過ぎにけりよばざりし故
日のくれて既にくらきや曙の浮ばんとしていまだ暗きや
よるも來ずさりとて日照る晝しらず繋がれてありたそがれの獄
病どもわが骨かぢる齒の音と時計をきゝぬ夢の柱に
花瓶の櫻ほろほろ涙しぬ我も泣く夜のわづらひの床
やめど我櫻を見れば櫻見る心となりぬ何かなげかん
(以上明治四十二年)
(以下明治四十三年九月より但馬にて)
悲しさに堪へたる人と西行はのき並べむといはざりしかな
われ生れし第一日のあかつきに門にあたりて石つぶてふる
花かげにとかげはねむるねむるまは眠れりとして見てはあれども
思ふことなくて蟲きゝ思ふことなくて風きく思ひつくして
〔写真〕 著者の遺児美津子(六歳の春)
わが心秋の夕べのくもり日の雲のやうなる衣 きぬ につゝまる
晴れわたる秋空高く白雲の浮ぶも見えて靜けき日かな
樂しきはわが西行が集の中に心のかよふ歌得たるとき
何すともいふことなしに同じみちゆきかへりするこの頃のくせ
人を友を擲ち世をも擲つと思ふはあらずわれ擲たる
日を見たる月見草かも病みほけてわれ一目見てうつむける人
博士等が手にする醫書の萬卷も何せん我の一人救はず
病もて苦しみをもて鞭うつに涙はいでず歌ぞあふるゝ
あまりにもさびしき秋の夕よりことばはなくて指を折るくせ
血に飢ゑし虎狼の牙の前にして兎もあらず小羊もなし
「吾は人の生死の外に超越す」とかゝる面する醫學博士よ
猶われに食ふべきほどの肉ありやそこに眠れる痩犬も來よ
あしきこと惡しといはんは言ひよかり善き事をしも善しとして後
軒つたふ雨だれをもて玉琴の響を聽きし人羨まし
鉛筆を忘れてや來し有るがまゝに花に染めたる定家集かな
唯一本立ちてあるより並木することのよろしさ君と我とも
何事も人いつくしむこそよけれ我れうつ手にはつるぎ與へて
我死なば親も泣くらん子泣くらん妻も泣くらん泣かざるは我
汝何ぞ生をもとむるかく問はれうつむくは豈われのみならめや
過去といふ闇がりのなか赤々と眼を射る光眠り誰かり
(以下明治四十三年十月二十三日以降)
早く暮れ早く明けよと願ふより外にねがひもなき床の上
悲しみが來て骨かぢるその響うつす即ちわが歌はなる
いき死は一つのものゝ別の名といひしことはあり思ひしはいまだ
悲しみは悲しみを呼び悲しみは悲しみを訪ひ吾れに集まる
弓町の友の蝸牛よいまも猶昔のゆめを殻に負へるか
護國寺の壁の樂書見るごときすき心もて成る歌にあらず
白蟻に心をはまれし大木の倒るゝごとく吾横たはる
何事も見るにつかれて目を閉ぢてあれども暗に招くまぼろし
〔上の左の写真〕 著者病やゝよき頃の肖像と自讃
流れゆく雲の一つに跨りて炎の中の我が家を見る
磁石の針ふり亂さんは無益なり磁石はつひに北をさす針
ふるさとにかへりし君の安からんこの言葉きゝ涙流るゝ
いくとせの前の落葉の上にまた落葉かさなり落葉かさなる
南極の探撿船よ新しき世界を見いで我を救へよ
骨は父に肉は母にと返すときそこにのこれる何物やりや
釋迦にゆきクリストにゆき追はれたる汝は野らの土にはらばへ
徒らにクリストをよび釋迦をよぶ三千年は遂にかへらず
時として高きに登り見るとせよ汝の外に物もこそあれ
月も見ず花も見ずまた靑筋の額に立てる人の顔も見ず
武庫河のかはらの石はましろなる炎をたてゝ燃ゆる夏の日
木枯や大海も泣き山も泣く君がむくろを土に蔽ふ日
病人は顔をしかめて藥のむ元三の日もきのふの如く
忘れては病かなしむ歌もかく硯の水の若水をもて
家隆の朝臣が骨を埋めたる夕陽丘に吾病えし
いつとなく悲しきことにならされて人に語れば人ぞまづ泣く
干からびし我が血を吸ひていきてある虱は更にあはれなるもの
盗人猫魚をぬすみてとびこゆる垣根にゆらぐ小てまりの花
(以下明治四十四年臨終まで)
いにしへのかしこき人も我がごとく病みて我かごと歎かずかあらん
今の世に文珠殊利なし憶良なし病むべき時にあはざりしかな
人のため流るゝ涕のこるかや我もたふとし尚生きてあらむ
何故に猶生くべきかゝることを思ひつゝあり蠅の飛ぶ見て
風ふけば松の枝鳴る枝なれば明石を思ふ妹と子を思ふ
思ひ出の二つ三つ 平木白星 〔下は、その最初の部分〕
前田翠渓君は音楽に多大の嗜好を有つてをった。天才もあった。殊にヴァイオリンが得意で、彼の作曲も決して凡庸ではあらなんだ。doが高いのかmiが低いのかさへ知らぬ私が、自分の作詩にデタラメの節調をつけて歌ふとすると、内発的だとか印象的だとか勸勵して、彼は即座にそれを音譜に構成して呉れるのが常例で、私の拙い詩も曲を附けた為呼吸づくやうになったのが少なく無い。『歌劇富士』『機おり唄』『国歌』『羽衣』『星となりて』『嵯峨野』なぞがそれだ。その中の二三は既に青年会館や中央会堂に於ける朗読会の公開場で、作曲者自身なり私なりが吟唱を試みた。明治三十九年頃私は『復活』(發市せし時の題名は『耶蘇の恋』)『釋迦』と共に三部曲の一として『マホメットの死』と題するオペラの『リブレット』めくものを書いた。彼は其に作譜しようとして手許に置いてあったうち、『衷心から溢発した生力の律呂でなければならぬ。』とて、作興の燃焼を待ちつゝ、その序曲の二分の一をも了へず、夕陽丘高等女学校の教授として大阪へ赴任する事となった。
翠渓歌集の後に 矢澤邦彦 〔下は、その一部〕
君が彼の新派和歌の流れに第一に飛びこんだ事は君が永久の名の爲めに全然利益であつたかどうかは知らぬ。併し當時の高踏的な唯美主義の態とらしい作風に對して君は少なくとも二つの利器を有つてゐた。一は音樂的天賦で一は爛熟した京阪都會趣味の理幹である。君を理解するに京大阪を忘れてはならぬ。二千年の歴史の蓄積を背景として君の初期の詩歌は初めて充分の意味を發現して來る。鐵幹晶子のそれが其通りである樣に。
君の音樂的才能が音樂家として何處まで發展したかは私には明言することが出來ぬ。韻文朗讀會に天野初子と合唱したなどが社會の表に現れた最も晴れの事であつたらう。又樂曲又は唱歌作者としての才能とても後年不治の病に呻吟して是非なく生活の奴僕として之を軀使するに至るまでは殆んど目に立つほどの結果を生み出さなかつた。
けれども朝起きるから夜寢るまで物を言はぬときは終始何をか歌つてゐた君は、詩でも文でも何を作る上にも知らず知らず音樂の助を受けてゐた。私は君と一處に過した三年間、君の詩歌のどの一つでも何等か其折々の譜曲口調に乗せられて音樂的彫琢を受ける事なく出來上つたのを見た事がない。さればこそどんなに間違つても蕪雜生硬などといふ批難をば取ることが出來なかつたのだ。遊戯道樂と今の人は云ふかも知れぬが流暢な明快な透明な純正な作風は慥かに君の音樂的天賦によつて作り出されたものであつた。
「葛原滋」「佐佐木信綱」この二人の名は晩年の君に最も深い印象を殘したに違ひない。君の短歌は「心の花」に、君の歌詞は色々の雑誌や出版物に絶間なく載る樣になつた。小供の爲めの気輕な気の利いた小曲は幾個となく成つた。君は此等によりて辛じてパンを得られた。
東京時代はむしろ長詩に重きを置いてゐた藝術の爲めの藝術時代。大阪時代は最も特徴のない時代でまづ低徊時代とも言ふべき時。郷里時代が最も徹底した人生の爲の詩歌時代。かう明瞭に作物の上で區別せられる。出來るならば此三時代を區別して世に公けにしたい。
唐錦赤い地は皆戀の花、最後にポタリ本當の血が。
君の一生を私は此一首の中に見る。君の詩歌の變遷も亦其歌で蓋ふことが出來る樣に思ふ。此歌集を讀む人もどうか君の本當の血の赤さを見逃さぬ樣にして欲しい。
哀しき一束の書簡 葛原滋 〔下は、その一部〕
はからずも、その人に接近する時が來た。大塚音樂會の聲樂練習の折であった。今の高師教授文學博士神保君が、オルガンを弾いて、「鶯のうた」(ハラー作曲。のち『中等教育唱歌集』に出づ)の練習があつた。ソプラノとバスとには唄ひ手が多かった。テノルは、六しいといふのでか人は少かつた。神保君は弾くのをやめて、「テノルが弱いね」とオルガン越に謂つた。するとソプラノから、進んでテノルに入って、大きなつ聲で、「ケキヨ、ケキヨ」と、うたつた人ーそれが美男の、わが翠渓兄であつたのである。左手に譜本をもち、右手を自然に垂れて、細い指で、ヅボンをうちゝタイムをとつて、大きな聲で、ケキヨゝとうたふのであつた。それが、わが純孝兄、その唱歌作者であつた。その頃の私は、驚いた、畏敬の念を強うした。君の直ぐ後に立つて、バスを歌う筈の私は、まだ歌へぬ私の、タイムにあはぬ節を、君に聞かれたくなくて、たゞ、後から君の、気持よくタイムをとる手の指を見て、只立った。
それと前後して、正午の大食堂で、オルガンで六段を弾くものがある。巧に弾く。明暮琴の音の中に大きくなつた私は、オルガンで六段をきくのを、珍しく欣び、夕々の食後には、只耳に知るそのメロデーを辿つて、苦心して、遂に完全に弾ける様になつた程の親しみの六段である。多くの校友も六段の、はじめ一段位は、まごつきゝ弾くものも多かつたが、その時の六段は、すらゝときれいに弾かれた気持よさ。立ち上って見ると、それは翠渓兄であった。食パンに砂糖をつけて牛乳を飲むのが流行してゐた頃の、食堂に、私は立上つて、欣んだ。甘い、柔かな、色も平和なミルクの中食時に、君の六段をきいて、心はおどらざるを得なかつた。同級の一友は、翠渓兄と師範時代の同窓だといふので、紹介して呉れようといだつた。しかし、紹介されたのは、よほど後であった。其までには、幾度か君と相見た。幾度か同じ室で相うたった。
著者の年譜
明治十三年四月三日 但馬國美方郡諸寄村六十一番地にて生まる。父は純正氏、母はうた子。
四十五才のとき、うた子、故を以て前田家を去り高村氏に嫁ぐ。純孝氏は祖母に養はる。
明治二十年四月 鳥取市に赴き叔母の家に寓し、鳥取県師範學校附属小學校に入る。
明治三十年七月 兵庫縣より小學校の准教員の免許状を受く。
同 九月六日 美方郡諸寄尋常小學校准訓導となる。
明治三十一年四月 兵庫縣師範学校(御影師範學校と改稱)に入る。
明治三十四年 痔を病んで約一月病院生活を送る。
明治三十五年 師範學校卒業と同時に東京高等師範學校に入學在學中同級生を集めて鼎會を作りて短歌を競作し、又明星の社友として毎月作物を掲載す。
明治三十七年 前田林外氏等の白百合の社友として大に盡力す。
明治三十九年四月 高等師範卒業と同時に大阪府島之内(後に夕陽丘)高等女學校に教頭として赴任。
同 八月 歸省途次発病、肋膜炎にて十月まで欠勤。
明治四十年 三月 秋庭信子と結婚。
明治四十一年 美津子生る、夫人信子産後の肥立よろしからず。
明治四十二年二月 又々肋膜炎。 五月 味原池のほとりより住吉に轉地療養。
素人目には快方の如く見えたれど、佐多博士は、肺尖カタルに罹りゐたりといふ。一日に一里も散策出来、肉もつきしに、梅雨に入りてより元気食慾共に減退、七月喀血、少量なれど衰弱す。
同年 十月 佐多博士の診察ー左右とも肋膜炎を患ひをり、肛門にも痔核あり、膓結核の疑もあり、十中八九難治。
校長などは歸國を勧められたれど、人の壽命は解らぬものゆゑ、充分療養させたしとの夫人の希望にて、明石なる夫人の里家に轉居。
明治四十三年五月まで よくもならず悪くもならず。夫人の病のため、五月十四日、但馬へ帰る。
同年 六月二日 膓出血、のち稍佳良。時々喀血す。
病間筆をとり歌を賣って、藥餌を買ふ。
日々の生活を、短歌に作りて日記に代ふ。
明治四十四年一月 乳母の家に移居。半歳あまり、大に心和ぐ。
明治四十四年九月二十五日 遂に起たず。但馬に葬る。年三十二。
大正二年八月十五日發行 (非賣品)
著者 前田純孝