上の写真は、明治三十七年 〔一九〇四年〕 十月五日発行の『女学世界』第四巻 第拾参三号 に「東京女医学校職員并に生徒 校長鷲山彌生氏」として掲載されたものである。
上の写真は、明治四十一年 〔一九〇八年〕 八月一日発行の『東洋婦人画報』第十五号 に掲載されたものである。
刀圭界の女流
鷲山彌生女史校長たる牛込河田町女医学校卒業生にして○印は何れも医術開業試験に合格したる者、前列対つて右より、○弘田貞猪子、中川だい子、校長鷲山彌生女史、井出茂代子、○福田ますの子、○岩佐りん子、後列右寄り、○藤田静子、○飯田てい子、○倉田みね子、○米山はつ子。
Female doctors, who have obtained government license to practise. They are pupils of Dr. Yayoi Washiyama, a well-known female physician of Tokyo.
当時の東京女医学校については、上の写真にも見える最初の卒業生の竹内茂代女史の『吉岡弥生先生と私』(一九六六年8月)が興味深い。〔下は、その目次の一部〕
一、医学を志すまで
二、東京女医学校を知る
三、東京女医学校に入学
四、学校生活と学友さまざま
五、弥生先生の出産を見学
六、東京女医学校創立記念音楽会
七、寄宿舎建設と医院の開設
八、女子高等教育否定論と吉岡先生
九、東京大学解剖教室に導かれる
一〇、はじめて医術開業試験に合格
一一、女医界創刊と入学志望者の激増
一二、弥生先生との心のふれあい
一三、第一回卒業式と祝賀会
一四、東京女医学校昇格問題
一五、七年間の医局生活
・上左の広告:明治四十二年 〔一九〇九年〕 四月一日発行の 『婦人世界』 四巻 第四号 に掲載されたもの。
・上右の広告:明治四十二年八月一日発行の 『婦人世界』 四巻 第九号 に掲載されたもの。
上の写真は、明治四十四年 〔一九一一年〕 一月十日発行の『婦人画報 臨時増刊 現代名流婦人』 に掲載されたものである。
鷲山彌生女史
研究室に於ける東京女医学校長東京至誠病院長鷲山彌生女史
また、同号には、次の一文もある。
面白いこと、いやなこと 東京女医学校長 至誠病院長 鷲山彌生
男子に混じつて学んだ
私の父は医者でありまして、一つは其の家庭に生長 そだつ た為もありませう、私も婦人ながらいや婦人であるため女医にならうと決心しました。それは当方が婦人である為に、患者たる婦人又其の親族 みうち も安心して治療を受けることが出来ます。それやこれやの理由から女医にならうとした次第であります。併 しか し何をいふても私が医学を学びました時分は時が時でしたから、別に女医の学校といふものもなく、男子の中に混つて稽古いたすものですから、いろゝな圧迫や屈辱がありました。それを通り抜けて自己の意思を貫かうとするは容易なことではありませんでした。然し其等の間の苦心や経歴は毎度申し上げたことですから、今回は私が女医となりましてからのことに就いて一つ二つお話し申しませう。
上の写真は、昭和十六年 〔一九四一年〕 五月一日発行の『女子青年 愛知県版』 五月号 の掲載記事「吉岡彌生女史の母堂 みせ子刀自 市川喜久子」中に「晩年のみせ子刀自」として掲載されたものである。
忙しい間に面白いこと
私は朝起ますと、もうそろゝ外来の患者が詰めかけてまゐります。朝餐 あさげ をしまひ身支度をし、此等の患者の診察をはじめまして、午前中は総て外来患者の治療や診察をして、それから午後は往診、其の間には皆様に御面会をいたしたり、又私の経営いたして居ります女医学校の教授其の他のこともありまして、猶自宅には病室の患者もあるといふ次第であります。一家の主婦といふ外に、私は日々此等のことをいたして居ります。多忙と申したら、私程多忙のものは沢山は無からうと思ひます。到底人様の様に音楽を聞いて楽むとか、演劇を見て喜ぶといふ様なことは出来ません。全然 まるで 、趣味も何も無い様な人間と思はれるかも知れません。然し私は何とも思ひません。趣味、面白いといふことも自 おのづか ら此の忙 いそが はしい間に湧いて来ます。
患者の快復が面白い
例へますなら、朝病室を廻診いたします、患者が私の顔を見ますや否や、今朝 けさ 程はお蔭様で気分が善いとか何とかいはれます時は私は愉快とも何ともいはれません。それから従前 いままで 、病気の為に食物も充分に頂けなかつた、いや仮令 たとへ 好物にせよ私より或食物を禁制し居りました患者に、其の病気の快方に向つて行くことから其の禁制を解いてやりまして、其の患者の喜ぶ顔を見ます時など、私は其の患者の心を思ひやり私も共に喜ぶ様になります。又外来患者にしましたところが、日々通つてまゐります中 うち にだんゞと其の病状が薄らいて行くのを見ますと真に我を忘れて其の治療が面白くなります。其の患者の来ます時刻が待ち遠い様な気持ちがします。それから婦人病の慢性に罹つたものが、あちら、こちらの医師ー男子ーの許 もと を迷ひ廻つたものが、遂に私の処にまゐり、いろゝの打ち明け話までも出て其の経過が充分に聞き取られて、其の治療に取りかゝり、それが全快する時などは、私が真に女医たる目的が達せられた様な心になり、女医の世に必要なることを唱道いたして居ります私は何だかますゝ勝利者となつた様な気がいたします。この外医師とし患者に接して、それが私の研究となりましたりいろゝなことがありますが、要するに、私は患者の恢復といふことが面白いのであります。
出し抜かるゝ程不愉快はない
然し私がかうやつて女医として世に立つ行きますに、一から十まで尽く愉快面白づくめなことばかりではありません。中には随分不愉快なやなことも少くはありません。其の中でも最も不愉快に感じますことは、往診の家で、何時の間にか医師を変へて置き、私が其の家に往診にまゐりますと折角のお出 いで でありますが、親類共の勧めで患者は病院の方に入れましたから、お戻りを願ひますとか、何とか、一寸と体裁のよい繕 つくろ い語 ことば !其の実は疾 とく に当方に察せらるゝ語で逐 お ひ帰さるゝことです。実に此時ほど不愉快ないやなことはありません。また新来の外来患者で、当方がよく其の患者を知らぬことから、其の経過を見る為に試みの治療をやつて居ります中に、患者は其の治療の効がてきめんに現はれませぬものから、当方の技倆を疑がひ、ふいと来なくなることがありますこれが面白くないことの一であります。
東京 女医学校 組織変更 生徒 募集
今般文部大臣ヨリ専門学校ノ認可ヲ得東京女子医学専門学校ト改称シ来ル四月八日ヨリ新学年ヲ開始ス
○入学志望者ハ四月五日迄ニ入学願書ヲ提出ス可シ
○入学資格高等女学校卒業
○募集定員壹百名
○規則要郵券参銭
東京市牛込区市ヶ谷河田町
私立 東京 女子 医学専門学校
上の広告は、明治四十五年 〔一九一二年〕 四月一日発行の『新婦人』 四月の巻 に掲載されたものである。