蔵書目録

明治・大正・昭和:音楽、演劇、舞踊、軍事、医学、教習、中共、文化大革命、目録:蓄音器、風琴、煙火、音譜、絵葉書

『MADAM BUTTERFLY 蝶々夫人』 (三浦環) (1936.6)

2020年06月27日 | 声楽家 三浦環、関谷敏子他

 

 MADAM BUTTERFLY 
 蝶々夫人   三浦環

 發行所 京橋銀座二ノ三 東京聯合婦人會

 MADAM BUTTERFLY 
     上演 1936
    6月27 28 毎夕7時半 
    マチネー28日午後一時半。

    登場歌手

  蝶々夫人            ソプラノ  三浦環
  アメリカ海軍士官ピンカートン  テナー   永田絃次郎
  (マチネー出演)              渡邊光
  長崎駐在米國領事シヤープレス  バリトン  下八川圭祐
  僧侶(蝶々夫人の伯父)     バリトン  山本春雄
  高官              バリトン  横田孝
  五郎(口入業者)        テナー   毛利幸尚
  ピンカートン夫人ケイト     ソプラノ  百崎さの子
  蝶々さんの子供               クロキ節子
  蝶々夫人の小間使鈴木      ソプラノ  南部たかね
  
   合唱                   三浦環合唱團
   管絃楽                  中央交響樂團
   指揮                   篠原正雄

   背景製作                 長谷川源次郎
   舞台装置                 内山惣十郎
   衣裳製作                 三越衣裳部
   小道具製作                藤浪與兵衛
   演出                   伊庭孝

     主催 東京聯合婦人會

 『蝶々夫人』梗概
     ー 全二幕三場 ー
 
 三浦環女史を語る 

  世界一の蝶々夫人  放送局報導部主事      賴母木眞六
  虎の門時代の環さん 日銀副総裁清水賢一郎氏夫人 清水信子

 虎の門の女學館といへば、そのころではなかゝ尖端的な女學校で、はじめて袴を用ひはじめたのも此處なら、リボンをつけはじめたのも女學館で、したがつて生徒達はいづれも當時のモダン・ガールだつたわけです。
 三浦さんはなかでもとりわけ可愛くて、目立つてゐました。たけながをかけた唐人館や、桃割やらに結つて、袴をつけた姿が今でも目に殘つてゐます。自轉車に乗つて通學されて行人の目をそばだてたのもこの時代です。
 そのころは、ほっそりした美人で、ものごとにこだはらない、誰にでも朗らかで圓滿な方でした。
 昔からお聲が素敵にきれいで、際立つて居られました。矢張り栴檀は双葉より香しかつたわけです。

  三浦さんも本望   ジャパンタイムス社長    芦田均
  心服する唯一人   逓相夫人          頼母木こま子

 私がこれまでにきいた歌手のなかで、三浦環さんの聲ほど私の耳をよろこばせてくれるものはありません。全く素晴らしい聲です。もちろん私の狭い内地での経験ですが、外人の歌手をきいても、感心したのは、かつて來朝されたオランダの駐日公使夫人ラウドンさんだけでした。
 そしてこのラウドンさんに、三浦さんがならはれたといふのも、不思議な因縁だと思つて居ります。今度その三浦さんの有名な歌劇「蝶々夫人」が見られる事になつたので、いまからその日を心まちにしてゐる次第です。
   
  先見の明                          杉浦ちか子

 私はずつと昔、音樂學校と虎の門の女學館をかけもちで、聲楽の教授をしてゐたものですから、当時女學館の生徒であつた三浦さんをお教へして居りましたが、そのころから非常に美しい声の持主でした。
 それから数十年たつた今日でも、その時分と同じ美しい声をもつてゐらっしゃるのは只驚くばかりです。三浦さんの聲の美しさは天賦のものだと考へる他ありません。
 最初三浦さんに音樂學校入学をおすゝめしたのは私でしたが、今から考へると確に先見の明があつたと心秘かに誇らしく思つてゐる次第です。
 三浦さんは聲も美しい方でしたが、声のやうに姿もこころも美しい方でした。學校の成績も優等で、音樂學校では特待生、社会に出ては楽壇のナンバーワンになられたのも偶然ではない気がします。

 泣ける「お蝶夫人」                     吉本明光
 私と蝶々夫人                        三浦環

海外生活二十年の間には、私は「蝶々夫人 マダムバタフライ」のオペラを二千回上演致しました。一年平均やく百回といふわけです。
 歐米ではプツチーニの「蝶々夫人」は吾が國の忠臣藏のやうに繰り返しゝ上演されて、上演の都度観衆の涙をさそつてゐるオペラです。
 マダム・バタフライの初演は、一九〇五年で、この時には作曲者のプッチーニの指導で、スカラ座でストルキオが歌ひました。
 この第一回の上演はさんゞの不成功で、プツチーニの妹は卒倒するし、ストルキオは泣きだすといふさわぎ、その結果はプッチーニの生存中は決してスカラ座ではこの作を上演させないといふ、大変なことになつて了ひました。
 このストルキオと、アメリカのゼラリンフアラーとが蝶々夫人の歌手としては有名です。私の蝶々夫人もプツチーニから、今までに澤山の蝶々夫人をみたが、三浦環の蝶々夫人こそ理想的だと非常に喜んで貰ひました。私はプツチーニのこの言葉をきいて以来、今日にいたるまで、まだ一度も他の人の蝶々夫人をみたことがありません。
 見る必要もないし、また他人のをみて自分の獨自性を損なひたくないからです。
 亡くなつたカルーゾー、ベニヤミのジリー、フランスの国立劇場のラヒツト、スペインのイポロトラザロなどのピンカートンに、歌つた事もありますが私は何時でも背が低いので、相役の胸の辺までしかありません。それに外國人にまけてはならない、と思ふものですから、ほんとに一生懸命で、一ころは毎幕のはじめに玉子を二つづつ食べたものです。
 だもんで大抵のピンカートン歌手は、私とでは長くつゞきませんでした。
 今度はかねての念願が達して、日本では始めて私の蝶々夫人のオペラをお見にかけることが出來るやうになりました。
 嬉しいと同時に何だかこはいやうな気がします。世界一のテナーとして有名なカルーゾーすら、祖國でのデビユーは散々失敗で、爾来彼は其祖國の舞台に立つことをこのまなかつたといはれて居ります。
 バタフライは、日本を背景とするだけに、演出に対する批判も各方面からなされるでせうし、その他いろゝな意味で私には處女演出のやうな緊張と努力で致して居ます。
 外國では、用ひる衣裳にしても、大道具小道具にしても、日本そのまゝとはゆかず、キモノにしても模樣が左前についてゐるので、左前にきる他ありません。
 足袋と下駄をはかせたら、一時間とたゝないうちに抗議が出て、駄目だつた事があります。
 そのやうにオペラの内容の理解にしても、外人には蝶々さんの自殺の心理や、日本婦人の貞操観などは、充分にのみこめないで、蝶々さんの自殺を、何か嫉妬のための自殺のやうに考へてゐる者も多いのであります。
 外國で上演する蝶々夫人は、万事このやうに不備な所があり、これはまた外國で上演する以上止むを得ない制約でもありました。
 それが今度は蝶々さんの舞台である日本でするのですから、これらの不満や不自然さを出來るかぎり取りのぞいて、眞個にこれが眞実の蝶々夫人ですといふ演出の標準をうちたてるつもりで一生懸命になつて居ります。

 主催者の立場から 東京聯合婦人會を代表して    吉岡彌生

 歌舞伎座を借り切つて、三回に渉る興行は當會としても、今回が始めての大仕事です。最初この話があつた時、第一に問題になつたのは、何分大した費用のかゝる仕事だからといふ事でした。勿論當會で主催する以上は募金運動と関連しなくてはならないのに、萬一赤字でも出しては大變といふ危惧の念は誰しも同じ樣に抱いたのでした。
 けれども申すまでもなく、三浦夫人の「蝶々夫人」は他に比類なき世界的のものです。あれほど海外でもてはやされ、世界の大舞台で二千回も上演されてゐるといふのに、祖国日本で一度も上演されないのは我々女性の立場からしても如何にも残念な事で、むしろおはづかしい事だし、環夫人としても肩身狭い事でせうから、一つ冒険的にやつて見やうぢあありませんか、といふのが、この催の出発点でした。
 ところが一度この計画が発表されますと、待つてゐたとおつしやつて御後援下さる方も思ひの外に多く、廣田首相夫人よりも花輪を賜るとの仰せ、有田外相御夫妻も出來る丈都合して行きませうとの仰せその他外交團、各方面の知名人士等より多大の御後援頂いて、誠に力強く感じてゐる次第です。
 又上演に必要なる小屋、オーケストラ、衣裳、宣伝等については、松竹社長、松坂屋、三越、白木屋その他各方面の多大の御支援を頂き、おかげ樣で萬事好都合に運びました。只々感謝の外はありません。
 どうか環夫人のこの日本に於ける初舞臺がよりよき芸術であるやうに、より華かなものである樣に、その上澤山の純益をあげて社会事業團体に寄附出來ます樣ににとひたすら念じてゐる次第です。
 
 〔写真:19葉〕

            

 ・三浦夫人の近影 〔上左から1枚目〕
 ・永田絃次郎氏
 ・-渡邊光氏-
 ・上 伊庭孝、中 下八川圭祐氏、山本春雄氏
 ・上 篠原正雄氏、中 毛利幸尚氏、下 横田孝氏
 ・三浦夫人の扮する蝶々さん色々 〔三葉〕 〔2、3、4枚目〕
 ・クロキ節子嬢、百崎さの子嬢、南部たかね氏 〔南部たかね氏:5枚目〕
 ・虎の門女學館時代を語る同級会、東京聯合婦人會幹部との顔合せ
 ・千九百二十一年平和記念日にニューヨーク、マヂソンスクエアにて日本を代表して「君が代」を歌う環女史後方に立てるは石井大使、ウイルソン氏外各大公使館付武官 〔6枚目〕
 ・ダルモンテ夫人から贈られたチチを抱いて日本に歸る環夫人 〔7枚目〕

 演出者の言葉                  伊庭孝
 特筆すべき歴史的演出 環夫人の蝶々夫人     牛山充

 三浦環夫人の名は國際的にプツチーニの傑作「マダム・バタフライ」の同義語となつてゐる。それにも拘らず本國たる日本では演奏會形式の斷片的演奏の外、夫人による此名作の全演出を見る機會を恵まれなかつたのは、夫人の海外に於ける活躍とこれによつて得た盛名とを知る我々にとつて大いに遺憾とするところであつた。
 「待つを知るものにはすべてのものが來る」といふ諺の如く、我々が多年待望し、尅望してゐた三浦夫人主演の「マダム・バタフライ」が歌舞伎座の檜舞臺で脚光を浴びる日が彌々到着した。洵 まこと に我音樂史上特筆大書すべき歴史的事件である。
 夫人が此悲劇の女主人公に扮したのは既に數千回の多きに上り「蝶々さん」の主役者として最高記録の保持者であることは云ふ迄もない。併しそれよりも重大なことは此不幸なる女性の性格の解釋と其藝術的表現とに於て非常な深く突き込んだ研究と工夫とをされ、他人の企及を許さない、夫人獨得のものを有つて居られる事である。
 我々は既に故松平里子夫人によつて東劇の舞臺に山田耕筰氏演出の「お蝶夫人」を見た。
 斷片的演出では原信子女史のものも見る事が出來た。これに加ふるに帝劇に於けるロシア歌劇團やカーピー歌劇團の演出によるものを以つてすると十指を屈するに足る「マダム・バタフライ」を比較論評することが出來る。此間に伍して今回の三浦夫人主演の「蝶々さん」が斷然異彩を放つものであることは、毫も疑ひを容れない。
 歌劇の本格的上場が巨資を要する關係上、三浦夫人としても今後屡々これを反復演出されることは恐らく至難であらうと思はれる。從つて或はこれが夫人の日本に於ける唯一の完全なるバタフライ演出とならないとも限らない此事情は今回の上演を益々歴史的事件として重要なる意味を有つものたらしめる。 

 蝶々夫人の解剖                 鹽入龜輔
 三浦環女史の半生 ー 世界的歌手の絢爛たる過去 -
 
 三浦環女史は、芝で生れ、鞆繪小学校を卒業すると、日本一のモダーン女学校として有名な虎の門の女學館に学んだ。
 その頃既に女史の聲樂家としての素質は萌芽をあらはし、音樂學校教授で同校に教鞭をとつてゐた杉浦ちか子女史を驚嘆せしめ、音樂學校入りをすゝめられた。
 上野の音樂學校に入學してからは、特待生で通した。
 「自轉車の麗人」として評判されたのはこのころの事、自轉車といへば近ごろの自動車運轉ぐらゐに尖端的なスポーツであつたので、通學の途中、悪戯者の男學生たちにからかはれた事も一再ではなかつた。
 もとの社会教育局長関谷龍吉氏なども悪戯組の一人、毎朝四、五人づれで女史の通學を神田橋にまちうけては、大手をひろげてとほせんぼした一人だつた。
 三浦女史は音樂學校に在學中、既に時の 皇后陛下の御前で獨唱する光栄に浴した。
 卒業すると直ちに母校の助教授として残つた。投じ女史の指導を受けた生徒に山田耕筰、鈴木のふ子などがある。
 去る三月逝去したサルコリー翁は、日本聲樂界の恩人であり、三浦女史の恩師でもあるが、この人が女史に「偉大なる天才歌手」の折紙をつけた。帝劇で上演された日本ではじめてのオペラカバレリヤルスチカナには、翁の相役として出演、その天分を遺憾なく發揮した。
 大正三年の春、音樂修業のために獨逸へ渡つたが、たまゝ世界大戦に遭遇し、ロンドンへ逃れた。
 此處で環女史の世界樂壇樂への第一歩が踏み出されたのである。
 世界有数の大劇場アルバートホールででの海外における女史の初舞臺は、キングジョージ、クヰンメリー御揃ひの御前であつた。この時日本娘姿で日本民謠を唱つたのが素晴らしい評判となり、ボストンのナショナルオペラ團から一ヶ年契約申込みをうけた。
 その後伊太利の王室劇場で演じた、マダムバタフライが、作曲者であるプッチーニにひどく気に入られ、ストルキオやゼラリンファラー以上に滿足したと絶讃されるに及んで、三浦環の名は世界各國に喧傳された。
 三浦環女史はこれまで、二十年間の海外生活に於て、各國の元首大統領の前でマダムバタフライを演ずること二千回に及んでゐる。
 歐洲各地、北米、南米、南亞、アジア方面と、女史の足跡の到らぬ所はないといはれ、そのいづれの時にも女史は賓客として待遇され、有名な世界的テナーカルーゾーやジリーなどを相役のピンカートンに、蝶々夫人を歌ひ抜いた。
 文字通り故國に錦を飾つて歸朝したのが大正十一年四月。
 六ケ月間の日本滞在は、饗宴、演奏會、招待會と、夜晝間斷なくつゞき、レコード吹込料のレコードを作つた。
 十月再び渡歐する時の送別晩餐會は百卅名の名士によつて帝國ホテルで開かれ、目賀田種臣男、淺野總一郎氏、大倉男、故澁澤子爵など、いづれも女史の爲に送別と激勵の言葉をのべた。
 この時、船につみ込つまれた蝶々夫人その他の衣裳代は約五萬圓と計算された。
 三浦女史の二十年間の海外生活は、日本の藝術紹介私設外交としての華々しい功績で、外遊した人々の間には正しく認識されてゐる。
 女史の美くしい聲と秀でた藝術と、親しむと愛慕せざるを得ない、パーソナリテイによつて、日本のためによき印象を歐米人の脳裡に植ゑつけ、祖國の光を發揚するところが極めて多いと云はれてゐる。
  
 出演者の略歴

  伊庭孝氏
  篠原正雄氏
  永田絃次郎氏
  渡邊光氏
  南部たかね氏

 新潟縣出身、大正五年帝劇歌劇部を卒業、震災後渡米し伊太利人の聲樂家マダム・グエリアリーにつき研究、滞米中の三浦環女史の紹介にてフライデルフイア歌劇團のプリマドンナとして招聘され、中央樂壇に認めらる。昭和五年歸朝以來我が國の歌劇發達に力をそゝいでゐる。

  百崎佐乃子氏
  下八川圭祐氏
  山本春雄氏
  横田孝氏
  毛利幸尚氏
  黒木節子嬢

 楽壇の?

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