蔵書目録

明治・大正・昭和:音楽、演劇、舞踊、軍事、医学、教習、中共、文化大革命、目録:蓄音器、風琴、煙火、音譜、絵葉書

「青山脳病院」 年賀状・絵葉書 (1907.12)

2017年02月14日 | 医学 2 病院、病気

 

 上の写真は、明治四十年十二月三十一日の日付印が押された年賀はがきである。通信欄には、下の内容のスタンプが押されている。

 裏面  : 謹賀新正 明治四十一年 一月元旦 青山病院邸内帝国脳病院 Dr. K. Saito , Director des Aoyama Hospitals in Tokyo Japan.
 スタンプ:  東京青山 脳病神経病 帝国脳病院 | 青山病院 精神病専門 電話新橋三六四五番

 なお、「東京赤坂 靑山腦病院繪葉書」とある袋の絵葉書は、次の4枚である。

     

 ・Dr. K. Saito 〔斉藤紀一〕, Director des Aoyama Hospitals iu Tokyo Japan. 青山脳病院
 ・Direct des Aoyama Hospitals in Akasaka Tokyo Japan 青山脳病院羅馬式建築部
 ・The Bnilding of Roman Style in the Aoyama Hospitals. 青山脳病院娯楽室ノ図
 ・The hause of Amusement and Spot 娯楽室

 

 Dr. Med. K. Saito
  Director des Aoyama Hospitals in Tokyo Japan.

     帝国脳病院 青山病院院長 ドクトル 齋藤紀一

 明治二十四年東京帝国医科大学ニ入校シ病理学内外科学衛生学精神病学及法医学等ヲ撰修シ同二十七年同校撰科卒業同二十八年帝国脳病院長トナリ同三十一年脳神経精神及脊髄病研究ノ為メ欧行仏国パリス大学ニ入リ同三十四年独乙伯林大学ヘ転校シ同三十六年同校卒業シドクトルメヂチネノ学位ヲ得テ同三十七年皈朝青山脳病院ノ設立工事ヲ起シ同四十年竣功シ同四十一年再ヒ脳神経専門学研究ノ為メ欧行シ米国ヨリ仏国西班牙和蘭英国独乙墺太利伊国瑞典丁抹露西亜其他十余ヶ国ニ於テ脳神経精神脊髄病等ノ治療法幷ニ看護手配等ニ関スル視察ヲナシ同四十四年帰朝ス

 上の人物写真と説明文は、絵葉書のものである。 

 青山病院帝国脳病院

 赤坂区青山南町五丁目に在り院長をドクトルメディネー齋藤紀一とし、脳病、精髄病、神経病治療を専門とす。内、青山病院は明治三十六年四月の創立に係り、病室の構造は、独逸国ハーレー在ニューテレーベン精神病院を模範とし、室を男女に区別し、右翼に女室廿五、左翼に男室三十二、及脳病室二十を有す。帝国脳病院は、三十九年十月の創立にして、仏国巴里に於けるアルグアイチ、ホスピタールに模型を取り、羅馬式脳病室十七室を有する二階建也、其外、娯楽室、伝染病隔離室、死体室、運動場等の設備あり。診察時間は、偶数日の午前八時より午後一時迄を院長診察とし、奇数日の午前八時より午後一時迄を医長診察とす。診察料は二円、処方箋五円、診断書一円以上十五円迄、往診は市内五円以上、府下十円以上、地方五十円以上、入院料は特別二等三円五十銭、特等二円、一等五十銭、二等一円、三等七十五銭也。

 上は、明治四十年発行の『東京案内』下巻 166-167頁 の記述である。

  

 青山脳病院全焼 
  患者多数無惨の焼死
   大正十三年十二月二十九日


 大正十三年十二月廿九日午前零時半赤阪区青山南町の青山脳病院炊事場から発火し本館及新館附属舎等四百室を全焼した外隣接民家二階三戸も焼失し同三時半頃に至って鎮火した。元来同病院は脳病専門の事とて癲癇、狂人等三百五十余名を収容しあり、出火と共に極力収容に努めたが何分狂人とあって意の如くならず多数の患者は無惨の焼死を遂げ同午後一時までに十九の黒焦死体を発見した程である。これが原因は同病院炊事場で患者を賑はすべき餅つきを行った残火より此大事を惹起したのである。写真は焼失せる病院の残骸上と鎮火直後の現場死体発掘の光景である。

 上左の写真と解説は、大正十四年 〔一九二五年〕 二月一日発行の 『写真通信』 第百卅貮号 大正拾四年 貮月号 のものである。

 死者十九名を出したる青山脳病院の焼跡

 十二月二十九日午前零時二十五分東京青山南町三丁目なる青山脳病院の賄所から発火し、折柄北西の烈風に煽られて火は忽ち平屋本館の燃え拡がり更に二階建新館に延焼し同病院全部総建坪三千坪の大建築を全焼して午前三時二十分漸く鎮火した 当時病院内には公費患者二百四十三名の外に私費患者五十五名合計二百九十八名の患者を収容してゐたが、出火と共に入院患者は何れも窓の鉄棒に取りすがって悲鳴叫喚を挙げたが重病患者は戸締り厳重な為救助思ふに任せず遂に十九名の惨死者を出すに至った。写真は同病院焼跡の光景で中央に白木の箱を積めるは焼死体を納むる棺である。

 上右の写真と解説は、大正十四年二月一日発行の 『歴史写真』 第百三十九号 大正十四年 二月号 のものである。

 なお、「帝国脳病院第壹回看護婦卒業式」という写真も所蔵する。



コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。