十二月十六日
十二日以後同ジ状況ヲ繰返シツヽ十六日ニ至ルヤ軍艦秋津洲助ヶ船トシテ馬公ヨリ來着セリ、此時ハ最早病院モ篤志及雇入ノ看護人ヲ段々オ斷リシ(何時迄モ苦勞ヲ賴ムコトモ出來ザル故ナリ)我兵員ノ快方ニ赴ケルモノヲシテ看護ニ當ラシメ、艦内モ漸釣床ガ片付キ一兩囘ノ艦内消毒モ出來ルト云フ樣ニナリ病人ハ何レモ快復一方トナリ總テガ懸念スベキ状況ヲ脱シ、一方秋津洲ニテ來レル立川馬公要港部軍醫長及少軍醫並ニ秋津洲軍醫長ハ陸上ニ宿泊シ病院ノ方ヲ受持チ、矢矧軍醫長モ艦内ガ片付クト共ニ之ニ加ハリ、日本醫師總員ト協力シテ診療ヲナスニ至リシ故、病人中ニハ「之デ始メテ前後ヨリ胸ヲ見テ貰フヲ得眞ニ診察ヲ受ケタル樣ナ心地セリ」ト喜ベルモノスラアリタリ、此後ハ死亡者モ減ジ吾々ノ眼ニハ尚十名ハ死亡スルモノト見込ヲ附ケ居ルモ幸ニ夫レ程ニハ至ラズ、二十日迄ノ内ニ四、五人ヲ亡ヒタル丈ニテ死亡ハ全ク終止シタリ、即チ死亡者ハ四日ニ一名ヲ出シタル以後一日トシテコレ無キハナク十六日間ニ四十八名ヲ亡ヒタルモノニテ、毎日々々ノ葬儀ニハ眞ニ人心地ハセザリシガ茲ニ至リテヤット息ヲツクヲ得タリ。
病気手當其他ニ斡旋盡力シ呉レタル三善機関大佐、新田機関中佐、菅大軍醫其他五六ノ便乗者ハ兩三日前商船便ニテ出發歸朝セリ、其盡力ハ眞ニ感謝ニ堪エザルナリ。偖病人ハ死亡サヘセザレバズンゝ快癒スルカト云フニ中々然ラズ、中ニハ聾トナレル者二、三名、全身不随トナレル者モアリ恢復遅々トシテ意ノ如クナラズ、十二月中ニ歸朝シ得ルニ至ラント思ヒシ望モ水泡トナリ、大正七年ハ終ニ暮レタリ。
大正八年一月
一月十日頃ニハ愈出港シ得ベシト現状報告等ヲ出シアリシモ到底六ヶ敷、出港後又死亡者ヲ出ス如キ事アリテハ大變ナリ、且艦ニハ五十名以上ノ缼員(新嘉坡ニテ他艦ニ轉勤セシムル等相當ノ缼員アリシ所ヘ此度ノ死亡者ヲ加ヘ)アリ十日頃迄ハ航海ニ堪エザル者尚約五十名ニテ、如何トモ詮方ナキ故全員殆快復スル迄滞泊ト意ヲ決シテ腰ヲ据エタリ。
一月二十日 馬尼刺出港佐世保ニ向フ
此頃ニハ働キ難キ者十餘名トナレルヲ以テ愈一月二十日馬尼刺ヲ出港シ、次官ヨリノ注意ニ從ヒテ佐世保ニ向ヒ二十五日到着消毒ヲ行ヒ、一月三十日呉ニ歸着シタリ、全身不随ノ者一名ハ入院セシメタルガ漸次快方ニ向ヒ其他ハ皆先ヅ健康ヲ恢復セリ。
今回ノ才災厄ハ艦長ガ上陸ヲ允許セル事並初發一二名ノ病人(新嘉坡ニテ入院中ノ同病兵員ヲ見舞ヒタル者ノ如シ)普通ノ感冒ト誤信シテ出港セルニ因シ、終ニ無理ナル航海ヲ繼續スルノ已ムヲ得ザルニ至レルモノニシテ責ノ大ナル事勿論ナリト雖モ、一旦如斯状況境遇ニ陥リタル以後ハ之ガ傳染ヲ防止セントスルモ人力ヲ以テシテハ實際到底不可能ニシテ眞ニ不可抗力ト謂フノ外ナク、就中病人ノ看護監督ヲ命ゼラレテ服務中罹病シタル者ノ如キハ云フ迄モナク公務罹病ト謂フベキ者ナリ。
翻テ思フ、新嘉坡ニ於テ最初ニ患者ノ發生セル時ニ行ヘル隔離ガ奏効セル結果其當時患者ヲ續發セザリシモ、後日ニ至リ一時雌伏セル病勢ハ猛然暴發シ又術ノ施スベキナキ迄ニ至レルヨリ見テ、隔離ヲ行ハザリシカ又ハ隔離ガ奏効セザリシナラバ新嘉坡出港前已ニ患者續發艦内ニ蔓延シ善後ノ處置ニ便宜ヲ得テ、隔離ニ奏効セザリシヨリモ却テ或ハ好都合ナリシナランカト、隔離ノ奏効ガ却テ怨メシク思ハルル心地モスルナリ。
此度病気ノ治療看護ニ從事セル馬尼刺同胞中醫師一名玉田夫人其他傳染罹病セルモノアリシモ何レモ大事ニ至ラスシテ間モナク快癒シタルト、米陸軍ノ看護卒カ一人モ罹病セザリシトハ誠ニ幸ナリト謂フベキナリ。而シテ是等種種斡旋盡力シ呉レタル人人ハ眞ニ人ノ嫌惡スル危険大ナル病気、而モ赤ノ他人ヲ看病シ死水ヲ取ルト云フ有樣ニテ、雇入ノ者モアル故全體トハ言フ程ナラザレド一般ニ何レモ國家ノ爲トシテ危険ヲ物トモセズ献身的ニ力ヲ盡セルナリ、其篤志誠意實ニ感謝措ク能ハサル者多多アリタリ茲ニ重ネテ特記スルモノナリ。
墓碑建設、納骨式及呉ニ於ケル合同大葬儀
副長以下四十八士ノ死ニ就テ考フルニ病気ニ關スル責ハ艦長ニ在リトスルモ、死亡者ハ不可抗力又ハ公務ノ爲ニ死シ此馬尼刺ノ地ニ於テ神トナレル者ナリ。就テハ此地ニ於テ他日我同胞等ノ死者ノ靈ヲ憑吊禮拜スル事望マシク、之カ爲何トカシテ記念物ヲ建設シ置ク必要アリトシ、島崎秋津洲艦長其他ト種種協議ノ結果分骨シテ此地ニ墓碑ヲ樹ツルニ決シ、「軍艦矢矧病歿者之墓」ト題シ(矢矧分隊長島村綱雄氏筆)四十八士ノ名及本件ノ由來(附録墓碑銘参照)ヲ刻シ、之ヲ英國墓地「サンピドロ、マガチ」ニ建設スルコトトシ、一月十九日竣工(墓碑ハ全高一丈六尺ニシテ墓地ノ中央ニ位シ大ニ異彩ヲ放チ居レリー附録寫眞参照)同日納骨式ヲ行フ、矢矧及秋津洲乗員殆全部、在日本人多數並小學校生徒等参列シ荘厳ナル式ヲ擧行シ、小學校生徒ハ特ニ作歌セル追悼歌(附録参照)ヲ謠ヒ参列者一同ヲシテ袂ヲ絞ラシメタリ、斯クテ茲ニ後來ノ爲極メテ有名有力ナル建碑成リタルハ艦長トシテ眞ニ滿足ニ堪エザル所ナリ。此維持費トシテハ先ヅ三百圓内外(墓地ノ大サ六人分ニテ、一人分掃除費等一年五圓ノ規定ナル故年三十圓トシテ十ヶ年分)ノ金員(此金額ハ其後事故有リテ多少減少セルモノノ如シ)ヲ記録ト共ニ日本領事館ニ托シ、其後ノ維持ハ勿論萬事ハ在留同胞(主トシテ日本人會)ニ依托ノ口約ヲナシ、且寺院即チ日本ノ禅宗及眞宗兩方ヘハ後來年一囘、副長死亡ノ十二月九日ヲ命日トシテ病歿者一同ノ囘向(其後建碑式日即チ一月十九日ニ、尚其後更ニ同地一般戦死者追悼日ナル五月三十日ニ祭禮ヲ行フ事トナレルモノノ如シ)ヲ依賴シ相當ノ金圓ヲ香料トシテ納メタリ。
英國墓地「サンピドロマガチ」ニハ菅沼貞風氏及諸野亨候補生ノ墓モアリ旁参拝等ニハ好都合ナリト信ズ。墓碑建設ハ特ニ日本人會副會長井上眞太郎氏ノ斡旋ニ待チシコト大ナリ。
呉ニ歸リシ後ハ又諸方ヨリ多大深甚ナル同情ヲ寄セラレ、加藤呉鎭守府司令長官ヲ始トシ其他所在海軍當局者ノ非常ナル盡力ニヨリ二月一日盛大ナル一大合同葬儀ヲ呉海兵團練兵場ニ於テ施行スルヲ得遺族一同モ此盛儀ト馬尼刺ニ於ケル建碑トニハ滿足少カラザルニヤニ見受ケ、斯クテ幾分ナリトモ死者ノ靈ヲ吊ヒ遺族ヲ慰藉シ得タルハ艦長トシテ私ニ欣幸トスル所ナリ。
附録
〇大正七年十一月三十日現在 軍艦矢矧乗員表(附便乗者)
(イ)准士官以上 三十五名
(ロ)下士官 百十七名
(ハ)兵 三百十名
(ニ)傭人 九名
合計 四百七十一名
(ホ)准士官 以上官職氏名
〔省略〕
以上大正七年十一月三十日現在
(ヘ)便乗者
〔省略:11名〕
〇大正七年十二月 軍艦矢矧感冒死亡者表
死亡年月日 場所 官職 氏名
〔省略〕
備考 危篤ニ陥リ特ニ其上級ニ任ゼラレ又進級セシモノハ昇級セシ其官ヲ掲グ
〔場所毎では、馬尼刺「セントポール」病院40名、「セントポール」病院搬送中1名、馬尼刺「ゼネラル」病院1名、艦内6名の計48名。〕
〔日付毎では、12月4日1名、7日1名、8日2名、9日4名、10日14名、11日5名、12日8名、13日4名、14日2名、15日1名、16日1名、17日2名、18日2名、20日1名。〕
〇墓碑銘
這次坤輿ノ大戰ニ方リ本艦太平印度兩洋ニ策動スル二年漸ク任務ヲ終ヘ新嘉坡ヨリ凱旋ノ途殆ド全員流行性感冒ニ冒サレ航海困苦ヲ極メ客月五日辛フジテ當港ニ入ルヲ得タリ爾後在留同胞及當地官民ノ熱誠ナル援助ト秋津洲及軍醫等ノ特派ヲ受ケ極力治療看護ニ力メシモ十二月四日ヨリ同二十日ニ亘リ副長以下四十八士ヲ失フニ至レリ痛恨何ゾ勝ヘン或ハ病篤フシテ配置ヲ離レズ病苦ヲ顧ミズシテ戰友ヲ看護シ或ハ終焉ニ臨ミテ職務ヲ語リ脈搏絶テ 陛下ノ萬歳ヲ唱フ皆之レ忠勇義烈ノ士永久ニ帝國ノ戰史ヲ飾リ國民精神ヲ指導スベシ諸士瞑スベキナリ茲ニ遺骨ノ一部ヲ合葬シ謹デ諸士ノ忠魂ヲ弔フ
紀元二千五百七十九年 大正八年一月十九日 矢矧艦長 山口傳一
(本銘ハ墓石中姓名ヲ記セル部ノ背面ニ刻セルモノナリ)
〇軍艦矢矧 四十八士追悼歌 馬尼刺日本人小學校
(一)國を隔つる七百里 雲煙こめし韮律賓
マカチが岡の其の上に 悲しき墓標は立られぬ
これぞ御國の守りなる 大和健兒が痛ましく
病の爲めに身まかりし 英魂をまつる四十八
(ニ)雨なす砲弾も波風も 莞苒と笑て雄々しくも
敵をばたふす武夫が 恨をのみてねむるらし
かなしやゝ我々は 御艦の矢矧のなき人に
落つる涙をたむけとし 精忠世々に傳へなん
〇只今流行 ハヤル 世界風 西班牙語ではトランカソ 日本語では流行性感冒 インフルエンザ
(一)人の命もたわいなく 「トランカソ」には殺さるる
現にマニラに碇泊の 日本軍艦矢矧 ヤハギ 艦
其乗組員四百人 艦長一人其後は
皆此の風に犯されて たった四日其中に
十六人も死にました。
(二)偖 サ て此の風の原因は 細かき小さき微菌 バイキン で
咳嗽 セキ する患者の息を嗅ぎ 使った手拭「ハンカチ」で
鼻や口から這 ハイ り込み 風でも引くか酒呑むか
身 カラダ にくるゐある時に 熱を起して苦める。
(三)「インフルエンザ」其ものは そんなに恐くはなゐけれど
肋膜炎や肺炎や 神經痛や衰弱症
耳を犯して中耳炎 ミミンダン 肺結核をも引起す
(四)偖而此の風に罹 カカ る人 急に惡寒 サムケ 戦慄 フルエ して
四十度前後の熱を出し 頭が痛み膓 ハラ 痛む
手足の関節 フシブシ 腰までも 疲勞 ツカレ 倦怠 ダル くて尚痛む
咽喉 ノド が腫れたり痛んだり 咳嗽喀痰鼻汁 セキニタンニハナジル に
食事もとんと頂けず 肺炎起した其時は
赤き痰まで喀 ハ き出す
(五)昔の人の云ふ如く 豫防 ヨボウ の一日 ヒトヒ 治療の十日
罹らぬ先の豫防が肝心 蒲団に寝 カイマキ 毛布に枕
度々出して日に晒 サラ し 着物も身體も垢おとし
患者の痰には煮湯 ニエユ を入れて 寒 サ めての後に便所にすてよ
「ピリン」「ヘブリン」「キニーネ」等其他あらゆる解熱剤 ネツサマシ
用ゆる事は却って危險
紀元二千五百七十八年 西暦一千九百十八年 戌午 O.D.C. 病院
(本歌ハ矢矧カ馬尼刺入港後四五日中益大事ニ至レル際居留民ノ誡トシテ謠歌スベク病院ニテ作成頒布セルモノナリ以テ此病流行ニ對スル騒擾ノ一端ヲ推知スルニ足ラン)
〇誄詞 〔下は、その一部〕
去歳十一月三十日新嘉坡ヲ發シ馬尼刺ニ向フヤ突如流行性感冒ノ襲フ所トナリ其ノ傳播急激ニシテ乗員殆ンド皆之ニ冒サレ航海ノ困難言語ニ絶シ各々死力ヲ盡シ萬難ヲ排シ其ノ職ヲ守ルト艦内到ル處患者ノ苦痛觀ルニ忍ビザルト状況實ニ凄愴ヲ極メ二月五日辛シテ馬尼刺ニ到着スルヲ得タリ爾後在留同胞及同地官民ノ熱誠ナル援助ト軍艦秋津竝軍醫等ノ特派ヲ受ケ倶ニ共ニ治療看護ニ努メシモ不幸ニシテ諸士ト永別ノ悲運ニ會ス
十二日以後同ジ状況ヲ繰返シツヽ十六日ニ至ルヤ軍艦秋津洲助ヶ船トシテ馬公ヨリ來着セリ、此時ハ最早病院モ篤志及雇入ノ看護人ヲ段々オ斷リシ(何時迄モ苦勞ヲ賴ムコトモ出來ザル故ナリ)我兵員ノ快方ニ赴ケルモノヲシテ看護ニ當ラシメ、艦内モ漸釣床ガ片付キ一兩囘ノ艦内消毒モ出來ルト云フ樣ニナリ病人ハ何レモ快復一方トナリ總テガ懸念スベキ状況ヲ脱シ、一方秋津洲ニテ來レル立川馬公要港部軍醫長及少軍醫並ニ秋津洲軍醫長ハ陸上ニ宿泊シ病院ノ方ヲ受持チ、矢矧軍醫長モ艦内ガ片付クト共ニ之ニ加ハリ、日本醫師總員ト協力シテ診療ヲナスニ至リシ故、病人中ニハ「之デ始メテ前後ヨリ胸ヲ見テ貰フヲ得眞ニ診察ヲ受ケタル樣ナ心地セリ」ト喜ベルモノスラアリタリ、此後ハ死亡者モ減ジ吾々ノ眼ニハ尚十名ハ死亡スルモノト見込ヲ附ケ居ルモ幸ニ夫レ程ニハ至ラズ、二十日迄ノ内ニ四、五人ヲ亡ヒタル丈ニテ死亡ハ全ク終止シタリ、即チ死亡者ハ四日ニ一名ヲ出シタル以後一日トシテコレ無キハナク十六日間ニ四十八名ヲ亡ヒタルモノニテ、毎日々々ノ葬儀ニハ眞ニ人心地ハセザリシガ茲ニ至リテヤット息ヲツクヲ得タリ。
病気手當其他ニ斡旋盡力シ呉レタル三善機関大佐、新田機関中佐、菅大軍醫其他五六ノ便乗者ハ兩三日前商船便ニテ出發歸朝セリ、其盡力ハ眞ニ感謝ニ堪エザルナリ。偖病人ハ死亡サヘセザレバズンゝ快癒スルカト云フニ中々然ラズ、中ニハ聾トナレル者二、三名、全身不随トナレル者モアリ恢復遅々トシテ意ノ如クナラズ、十二月中ニ歸朝シ得ルニ至ラント思ヒシ望モ水泡トナリ、大正七年ハ終ニ暮レタリ。
大正八年一月
一月十日頃ニハ愈出港シ得ベシト現状報告等ヲ出シアリシモ到底六ヶ敷、出港後又死亡者ヲ出ス如キ事アリテハ大變ナリ、且艦ニハ五十名以上ノ缼員(新嘉坡ニテ他艦ニ轉勤セシムル等相當ノ缼員アリシ所ヘ此度ノ死亡者ヲ加ヘ)アリ十日頃迄ハ航海ニ堪エザル者尚約五十名ニテ、如何トモ詮方ナキ故全員殆快復スル迄滞泊ト意ヲ決シテ腰ヲ据エタリ。
一月二十日 馬尼刺出港佐世保ニ向フ
此頃ニハ働キ難キ者十餘名トナレルヲ以テ愈一月二十日馬尼刺ヲ出港シ、次官ヨリノ注意ニ從ヒテ佐世保ニ向ヒ二十五日到着消毒ヲ行ヒ、一月三十日呉ニ歸着シタリ、全身不随ノ者一名ハ入院セシメタルガ漸次快方ニ向ヒ其他ハ皆先ヅ健康ヲ恢復セリ。
今回ノ才災厄ハ艦長ガ上陸ヲ允許セル事並初發一二名ノ病人(新嘉坡ニテ入院中ノ同病兵員ヲ見舞ヒタル者ノ如シ)普通ノ感冒ト誤信シテ出港セルニ因シ、終ニ無理ナル航海ヲ繼續スルノ已ムヲ得ザルニ至レルモノニシテ責ノ大ナル事勿論ナリト雖モ、一旦如斯状況境遇ニ陥リタル以後ハ之ガ傳染ヲ防止セントスルモ人力ヲ以テシテハ實際到底不可能ニシテ眞ニ不可抗力ト謂フノ外ナク、就中病人ノ看護監督ヲ命ゼラレテ服務中罹病シタル者ノ如キハ云フ迄モナク公務罹病ト謂フベキ者ナリ。
翻テ思フ、新嘉坡ニ於テ最初ニ患者ノ發生セル時ニ行ヘル隔離ガ奏効セル結果其當時患者ヲ續發セザリシモ、後日ニ至リ一時雌伏セル病勢ハ猛然暴發シ又術ノ施スベキナキ迄ニ至レルヨリ見テ、隔離ヲ行ハザリシカ又ハ隔離ガ奏効セザリシナラバ新嘉坡出港前已ニ患者續發艦内ニ蔓延シ善後ノ處置ニ便宜ヲ得テ、隔離ニ奏効セザリシヨリモ却テ或ハ好都合ナリシナランカト、隔離ノ奏効ガ却テ怨メシク思ハルル心地モスルナリ。
此度病気ノ治療看護ニ從事セル馬尼刺同胞中醫師一名玉田夫人其他傳染罹病セルモノアリシモ何レモ大事ニ至ラスシテ間モナク快癒シタルト、米陸軍ノ看護卒カ一人モ罹病セザリシトハ誠ニ幸ナリト謂フベキナリ。而シテ是等種種斡旋盡力シ呉レタル人人ハ眞ニ人ノ嫌惡スル危険大ナル病気、而モ赤ノ他人ヲ看病シ死水ヲ取ルト云フ有樣ニテ、雇入ノ者モアル故全體トハ言フ程ナラザレド一般ニ何レモ國家ノ爲トシテ危険ヲ物トモセズ献身的ニ力ヲ盡セルナリ、其篤志誠意實ニ感謝措ク能ハサル者多多アリタリ茲ニ重ネテ特記スルモノナリ。
墓碑建設、納骨式及呉ニ於ケル合同大葬儀
副長以下四十八士ノ死ニ就テ考フルニ病気ニ關スル責ハ艦長ニ在リトスルモ、死亡者ハ不可抗力又ハ公務ノ爲ニ死シ此馬尼刺ノ地ニ於テ神トナレル者ナリ。就テハ此地ニ於テ他日我同胞等ノ死者ノ靈ヲ憑吊禮拜スル事望マシク、之カ爲何トカシテ記念物ヲ建設シ置ク必要アリトシ、島崎秋津洲艦長其他ト種種協議ノ結果分骨シテ此地ニ墓碑ヲ樹ツルニ決シ、「軍艦矢矧病歿者之墓」ト題シ(矢矧分隊長島村綱雄氏筆)四十八士ノ名及本件ノ由來(附録墓碑銘参照)ヲ刻シ、之ヲ英國墓地「サンピドロ、マガチ」ニ建設スルコトトシ、一月十九日竣工(墓碑ハ全高一丈六尺ニシテ墓地ノ中央ニ位シ大ニ異彩ヲ放チ居レリー附録寫眞参照)同日納骨式ヲ行フ、矢矧及秋津洲乗員殆全部、在日本人多數並小學校生徒等参列シ荘厳ナル式ヲ擧行シ、小學校生徒ハ特ニ作歌セル追悼歌(附録参照)ヲ謠ヒ参列者一同ヲシテ袂ヲ絞ラシメタリ、斯クテ茲ニ後來ノ爲極メテ有名有力ナル建碑成リタルハ艦長トシテ眞ニ滿足ニ堪エザル所ナリ。此維持費トシテハ先ヅ三百圓内外(墓地ノ大サ六人分ニテ、一人分掃除費等一年五圓ノ規定ナル故年三十圓トシテ十ヶ年分)ノ金員(此金額ハ其後事故有リテ多少減少セルモノノ如シ)ヲ記録ト共ニ日本領事館ニ托シ、其後ノ維持ハ勿論萬事ハ在留同胞(主トシテ日本人會)ニ依托ノ口約ヲナシ、且寺院即チ日本ノ禅宗及眞宗兩方ヘハ後來年一囘、副長死亡ノ十二月九日ヲ命日トシテ病歿者一同ノ囘向(其後建碑式日即チ一月十九日ニ、尚其後更ニ同地一般戦死者追悼日ナル五月三十日ニ祭禮ヲ行フ事トナレルモノノ如シ)ヲ依賴シ相當ノ金圓ヲ香料トシテ納メタリ。
英國墓地「サンピドロマガチ」ニハ菅沼貞風氏及諸野亨候補生ノ墓モアリ旁参拝等ニハ好都合ナリト信ズ。墓碑建設ハ特ニ日本人會副會長井上眞太郎氏ノ斡旋ニ待チシコト大ナリ。
呉ニ歸リシ後ハ又諸方ヨリ多大深甚ナル同情ヲ寄セラレ、加藤呉鎭守府司令長官ヲ始トシ其他所在海軍當局者ノ非常ナル盡力ニヨリ二月一日盛大ナル一大合同葬儀ヲ呉海兵團練兵場ニ於テ施行スルヲ得遺族一同モ此盛儀ト馬尼刺ニ於ケル建碑トニハ滿足少カラザルニヤニ見受ケ、斯クテ幾分ナリトモ死者ノ靈ヲ吊ヒ遺族ヲ慰藉シ得タルハ艦長トシテ私ニ欣幸トスル所ナリ。
附録
〇大正七年十一月三十日現在 軍艦矢矧乗員表(附便乗者)
(イ)准士官以上 三十五名
(ロ)下士官 百十七名
(ハ)兵 三百十名
(ニ)傭人 九名
合計 四百七十一名
(ホ)准士官 以上官職氏名
〔省略〕
以上大正七年十一月三十日現在
(ヘ)便乗者
〔省略:11名〕
〇大正七年十二月 軍艦矢矧感冒死亡者表
死亡年月日 場所 官職 氏名
〔省略〕
備考 危篤ニ陥リ特ニ其上級ニ任ゼラレ又進級セシモノハ昇級セシ其官ヲ掲グ
〔場所毎では、馬尼刺「セントポール」病院40名、「セントポール」病院搬送中1名、馬尼刺「ゼネラル」病院1名、艦内6名の計48名。〕
〔日付毎では、12月4日1名、7日1名、8日2名、9日4名、10日14名、11日5名、12日8名、13日4名、14日2名、15日1名、16日1名、17日2名、18日2名、20日1名。〕
〇墓碑銘
這次坤輿ノ大戰ニ方リ本艦太平印度兩洋ニ策動スル二年漸ク任務ヲ終ヘ新嘉坡ヨリ凱旋ノ途殆ド全員流行性感冒ニ冒サレ航海困苦ヲ極メ客月五日辛フジテ當港ニ入ルヲ得タリ爾後在留同胞及當地官民ノ熱誠ナル援助ト秋津洲及軍醫等ノ特派ヲ受ケ極力治療看護ニ力メシモ十二月四日ヨリ同二十日ニ亘リ副長以下四十八士ヲ失フニ至レリ痛恨何ゾ勝ヘン或ハ病篤フシテ配置ヲ離レズ病苦ヲ顧ミズシテ戰友ヲ看護シ或ハ終焉ニ臨ミテ職務ヲ語リ脈搏絶テ 陛下ノ萬歳ヲ唱フ皆之レ忠勇義烈ノ士永久ニ帝國ノ戰史ヲ飾リ國民精神ヲ指導スベシ諸士瞑スベキナリ茲ニ遺骨ノ一部ヲ合葬シ謹デ諸士ノ忠魂ヲ弔フ
紀元二千五百七十九年 大正八年一月十九日 矢矧艦長 山口傳一
(本銘ハ墓石中姓名ヲ記セル部ノ背面ニ刻セルモノナリ)
〇軍艦矢矧 四十八士追悼歌 馬尼刺日本人小學校
(一)國を隔つる七百里 雲煙こめし韮律賓
マカチが岡の其の上に 悲しき墓標は立られぬ
これぞ御國の守りなる 大和健兒が痛ましく
病の爲めに身まかりし 英魂をまつる四十八
(ニ)雨なす砲弾も波風も 莞苒と笑て雄々しくも
敵をばたふす武夫が 恨をのみてねむるらし
かなしやゝ我々は 御艦の矢矧のなき人に
落つる涙をたむけとし 精忠世々に傳へなん
〇只今流行 ハヤル 世界風 西班牙語ではトランカソ 日本語では流行性感冒 インフルエンザ
(一)人の命もたわいなく 「トランカソ」には殺さるる
現にマニラに碇泊の 日本軍艦矢矧 ヤハギ 艦
其乗組員四百人 艦長一人其後は
皆此の風に犯されて たった四日其中に
十六人も死にました。
(二)偖 サ て此の風の原因は 細かき小さき微菌 バイキン で
咳嗽 セキ する患者の息を嗅ぎ 使った手拭「ハンカチ」で
鼻や口から這 ハイ り込み 風でも引くか酒呑むか
身 カラダ にくるゐある時に 熱を起して苦める。
(三)「インフルエンザ」其ものは そんなに恐くはなゐけれど
肋膜炎や肺炎や 神經痛や衰弱症
耳を犯して中耳炎 ミミンダン 肺結核をも引起す
(四)偖而此の風に罹 カカ る人 急に惡寒 サムケ 戦慄 フルエ して
四十度前後の熱を出し 頭が痛み膓 ハラ 痛む
手足の関節 フシブシ 腰までも 疲勞 ツカレ 倦怠 ダル くて尚痛む
咽喉 ノド が腫れたり痛んだり 咳嗽喀痰鼻汁 セキニタンニハナジル に
食事もとんと頂けず 肺炎起した其時は
赤き痰まで喀 ハ き出す
(五)昔の人の云ふ如く 豫防 ヨボウ の一日 ヒトヒ 治療の十日
罹らぬ先の豫防が肝心 蒲団に寝 カイマキ 毛布に枕
度々出して日に晒 サラ し 着物も身體も垢おとし
患者の痰には煮湯 ニエユ を入れて 寒 サ めての後に便所にすてよ
「ピリン」「ヘブリン」「キニーネ」等其他あらゆる解熱剤 ネツサマシ
用ゆる事は却って危險
紀元二千五百七十八年 西暦一千九百十八年 戌午 O.D.C. 病院
(本歌ハ矢矧カ馬尼刺入港後四五日中益大事ニ至レル際居留民ノ誡トシテ謠歌スベク病院ニテ作成頒布セルモノナリ以テ此病流行ニ對スル騒擾ノ一端ヲ推知スルニ足ラン)
〇誄詞 〔下は、その一部〕
去歳十一月三十日新嘉坡ヲ發シ馬尼刺ニ向フヤ突如流行性感冒ノ襲フ所トナリ其ノ傳播急激ニシテ乗員殆ンド皆之ニ冒サレ航海ノ困難言語ニ絶シ各々死力ヲ盡シ萬難ヲ排シ其ノ職ヲ守ルト艦内到ル處患者ノ苦痛觀ルニ忍ビザルト状況實ニ凄愴ヲ極メ二月五日辛シテ馬尼刺ニ到着スルヲ得タリ爾後在留同胞及同地官民ノ熱誠ナル援助ト軍艦秋津竝軍醫等ノ特派ヲ受ケ倶ニ共ニ治療看護ニ努メシモ不幸ニシテ諸士ト永別ノ悲運ニ會ス