〇コッホ博士ヲ迎フ Robert Koch 博士ハ萬里ノ波濤恙ナク去ル十二日横浜灣頭我朝野ノ名士ニ迎ヘラレ同日ヲ以テ入京シヌ、博士ハ實ニ細菌學ノ創設者トシテ傳染病學ニ根本的改造ヲ加ヘ又原生動物ノ研究ニ從ヒ三タヒ蠻地ニ出入シテ熱帶醫學ヲ開拓シ人文ノ開發ヲ促シ人類ノ福祉ヲ進メ功成リ業遂ケテ今春故園ヲ出テ世界漫遊ノ壯途ニ上リ今ヤ新綠濃カナル我帝都ニ客タリ吾人ハ此ノ偉人珍客ヲ如何ニ優遇シ如何ニ款待センカ吾人ハ博士カ雨露ノ如キ恩惠ニ酬ユヘキ何等ノ方法アルヲ發見スル能ハス請フ滯留幾旬ノ間、我山河天然ノ美ヲ假リテ其神ヲ養ヒ我民衆熱誠ノ情ヲ酌ミテ其勞ヲ慰セラレンコトヲ左ニ都下三十四學會ノ聯合發起シタル同博士歡迎會ノ槪況ヲ記シ吾人カ熱情ノ一斑ヲ示サン
前號既ニ博士歡迎ノ準備ニ關シ記スル所アリシカ其後聯合學會ニ花柳病豫防會、陸軍獸醫會、東京齒科醫會、齒科醫學會、齒科學會及デーデー會ノ六ヲ加ヘ合計三十四ノ學會ハ相團結シテ各數名ノ委員ヲ擧ケ更ニ式場、庶務、會計、接待、餘興ノ專務ヲ選ヒテ夜準備ニ努メ遂ニ六月十六日午後二時ヲ以テ東京音樂學校ニ於テ刀圭界空前ノ盛儀ヲ擧ケタリ定刻前ヨリ車馬絡繹トシテ來集シ場内復タ立錐ノ地ナキニ至リ場外更ニ堵ヲ築キ會衆幾百千ナルヲ知ラス式場ニハ獨逸國旗ノ三色布モテRKノ記章アル牌ヲ纏ヒテ裝飾トナシ左右ニ月桂冠ヲ懸ケタリ斯クテ時至ルヤ朝野ノ名士場の左右ニ列シコッホ博士ハ石黑男爵ノ案内ニテ北里博士ヲ隨ヘ中央ニ着席ス石黑男爵先ヅ起テ開會ノ辭ヲ述ヘ博士ノ徳ヲ頌シ三浦博士ハ修辭上光彩アル獨逸文ニテ書ケル歡迎ノ辭ヲ朗讀シ、牧野文相ハ來賓ヲ代表シテ英文ノ祝辭ヲ朗讀シ、獨逸大使ムンム男ハ活潑ナル語氣ニテ腹稿ナキ即席演説ヲナシ、次ニコッホ博士ハ壇上ニ立チテ「睡眠病ノ原因トレパノゾーメン寄生蟲」ニ關スル講演ヲ爲シ北里博士其大略ヲ通譯シタリ次イデ靑山博士ハ一同ヲ代表シテ獨逸語ニテ謝辭ヲ述ヘ式全ク終ヲ告ク時方ニ午後五時ニ垂ントス會〻騷雨沛然トシテ至リ暑熱ヲ洗ヒ去リテ靑空忽チ星羅ノ輝クヲ見ル
午後七時觀劇ノ會ハ再ヒ歌舞伎座ニ開カレヌ同座前ニハ Willkommen ノ扁額ヲ掲ケ綠門ヲ設ケ場内ノ裝飾亦頗ル備リ貴賓ヲ迎フルニ傔焉タルモノナシ斯クテ正面階上ノ貴賓席ナル花束モテ圍メル大氷塊ノ後方ニ博士夫妻ヲ請シ來賓席、婦人席、委員席、會員席ヲ分チ綺羅星ノ如ク和氣靄然タリ演伎ハ「義經千本櫻」「夜討曾我」「二人道成寺」「國ノ華」(女舞)ニシテ能ク我國ノ風俗ト時代トヲ寫シ博士夫妻ニ感ヲ與ヘタルコト少カラサルヘキハ幕毎ニ其拍手喝采セラレタルヲ以テ證スヘシ此間長與、北里、森ノ三博士ハ絶エス夫妻ノ間ニ介在シテ一々説明セラレシヲ以テ一層其興ヲ深カラシメタルモノアラン散會セシハ午後十一時ニ及ヘリ
序ニ右演劇ノ筋書ニ就テ森會長ノ談ヲ左ニ紹介シヨウ
歌舞伎座デコッホ博士ヲ招待シテ演劇ヲ觀セルニ就テ、獨逸文ノ筋書ヲ作ッテコッホ氏其ノ外來賓、歡迎會員ニ頒チタイトイフ議ガ成立シタ、其ノ時北里博士カラ予ニ起草ヲ託セラレタ、其ノ筋書ガ歡迎會ノ當日ニソレゞ配布セラレテ、ソノ事ニ就テ新聞ナドニ記事ガ出タ、ソレカラ日本醫事週報社デ筋書ヲ轉載シタイトイフノデソレモ予ガ承諾シタ、就テハ筋書ノ起草ニ就テ後チノ想出ノタメニ話シテ置キタイヿガアル、筋書ヲ作ルコトヲ承諾シタガ繁劇ナ身ノ上デアルカラ其ノ爲メニ調査ヲシタリ又充分ノ時間ヲ費シテ書ク譯ニハ行カナカッタ、ソコデ手近カナ材料ヲ集メテ一晩徹夜シテ書イタ、曾我ノ劇ハ大體歷史ト違ハナイカラ歷史ニ據テ書イタ曾我ノ討入ハ建久四年五月二十八日デアル、コレヲ洋暦ニ直シテ見ルト千百九十三年七月五日トナッタ、五月雨ガ七月ノ雨ニナルノハ已ムコトヲ得ナイ、コレヨリ前ニ曾我兄弟ノ父河津三郎祐康ガ、伊豆ノ奥ノ狩場デ工藤祐經ニ射殺サレタノガ、安元二年十月デアルカラ、洋曆デハ千百七十六年十一月ニ當ル、カウイフ風ニ曆ヲ改算シタ、コレハ西洋人ノ立テ場カラ史劇ヲ見ルトキニハ、必ズ第何世紀ノ出來事デアルカトイフコトガ最初ニ考ヘラレル、コレニ滿足ヲ與ヘルニハ洋曆ニ 改算スルコトガ必要ダト認メタノデアル、次ニ千本櫻ノ道行ヲ演スルノデアッタ、源義經ガ吉野山ニ入ッタノハ文治元年十一月六日デアル、洋曆ニ改タルト千百八十五年十二月六日ニナル、歷史デハ此ノ時靜ガトモニ山ニ登ッテ、文治元年十一月十七日ニ下山スル、義經ハ同月二十二日ニ吉野山ヲ出テ多武峰ニ向フトシテアル、脚本デハ義經ノ山ニ入ッタ翌年ノ初メニ靜ガ尋ネテ行クコトニシテアル、筋書ハ其ノ積リデ書イタ、最後ニ道成寺ガ演ゼラレタ、此ノ話ガ何世紀ノ出來事カトイフ問題ノ解決ハ甚ダ困難デアル、安珍ノ傳説ノ初メテ現ハレテ居ルノハ、本朝法華驗記ノ第百二十九デアル、此ノ書ハ長久元年ノ季秋ニ出來タトシテアル、然レバ千〇四十年ノ編輯トナル、ソレカラ今昔物語、元享釋書ナドニモ載セラレタ、安珍ノ出來事ガ何年ニアッタトイフヿハ此等ノ書ニハ一モ書イテナイ、タゞ道成寺縁起トイフ畵本ガアル、コレハ遙カ後チ天正元年十二月ノ奥書ノアル書デアルガ、其ノ中ニ安珍ノ出來事ハ延長六年戊子八月ノコトトシテアル、寺ノ縁起ナドトイフモノハ不確カナモノデ此ノ年號ナゾモ何ンニ基イタカ分ラヌ、シカシ安珍ハ鞍馬ノ僧デアッテ熊野ニ參詣スル道デ傳説ノヤウナコトニ遭遇シタトイフコトニナッテ居ル、安珍ノ身ヲ匿シタ鐘ハ、紀伊國日高郡矢田村ノ道成寺ノ鐘デアッテ、コノ寺ハ文武天皇勅願ノ寺デアル、文武天皇ノ時代ハ六百九十七年カラ七百七年マデニ當ル、山城國愛宕郡ノ鞍馬寺ハ道成寺ヨリ後ニ建ッタト傳ヘテ居ル、即チ延曆十五年デ、七百九十六年ニ當ル、以上ノ事實カラ推セバ安珍ノ出來事ハ鞍馬寺ノ建ッタ八世紀ノ末又ハ九世紀カラ法華驗記ノ出來タ十一世紀ノ央バマデノ間ニアリ得ルト判定スルコトガ出來ル、ソコデ其ノ積リニシテ書イタ、後ニ文學博士芳賀矢一氏ニ聞ケバ道成寺考トイフ書ガアッタサウデアルガ、其ノ書ハ知ラナイノデ參考スルコトガ出來ナカッタ、尤モ道成寺考ノ年代ノ考モ大差ナイコトトオモフ
上の文は、明治四十一年六月三十日発行の 『軍醫學會雑誌』 第百七十一號 陸軍軍醫學會 の 叢報 に掲載されたものである。
なお、上の写真2枚は、いずれも絵葉書のものである。
・左の絵葉書:東洋印刷株式會社印行、下はその記念印の日本語部分
コッホ氏歓迎記念
東京
明治四十一年六月十六日
各學會聯
・右の絵葉書:日本結核豫防協會發行 銀座上方屋〇〇、下はその説明文
結核豫防ノ二大恩人
結核研究ノ鼻祖コッポ先生
肺病自然療法ノ建設者ブレーメル先生
大正博覧會出品 日本結核豫防協會