■藤原北家の隆盛の基礎をつくった
藤原冬嗣の次男として生まれたのが
藤原良房
804年に生まれた良房は名門の貴公子として成長を続け、その抜きん出た才能と風采とによって嵯峨天皇に好まれた
嵯峨天皇の皇女潔姫を妻とし
2人の間には明子(あきらけいこ)が生まれる
そうはいっても826年に父の冬嗣が没した時は、まだ蔵人という立場に過ぎなかった
■淳和天皇期に、良房は東宮亮(とうぐうのすけ)として、皇太子であった後の仁明天皇との関係を結ぶことに成功したので、仁明天皇即位に際して良房は蔵人頭となり、834年には参議に昇進。良房31歳のときである
さらに翌年七人の上席者を越えて権中納言の地位に就いた
そんな折りに起きたのが承和の変である
■承和七年に淳和上皇、承和九年に兄・嵯峨上皇が崩御した。事件はその後起こった
嵯峨上皇崩御の2日後、仁明天皇政府は、伴健岑(とものこわみね)、橘逸勢(たちばなはやなり)を逮捕した
事の発端は、平城天皇の皇子・阿保親王が、皇太后にもたらされた密書にある。それには「伴健岑と橘逸勢が皇太子の恒貞親王を擁して兵をあげクーデターを起こそうとしている」という
密書を受けた皇太后は、藤原良房を招いて対策をねり、その結果、良房によって密書の内容は伝奏(天皇にとりつぐ)された
逮捕されて6日後の8月23日にいたって、ついに事件は決定的なものとなり、皇太子を軟禁したのである
恒貞親王に出仕していた良房の叔父で大納言の藤原愛発(ちかなり)、中納言の藤原吉野も出仕しており、ともに軟禁された
仁明天皇は伴健岑・橘逸勢を隠岐と伊豆にそれぞれ配流するが、橘逸勢は伊豆へ送られる途中、遠江において憤死。皇太子恒貞親王は廃太子とされた
その他、連坐した者は60名余りの多数に及んだ
■その後の新たな人事で
良房は大納言に
源信は中納言に
源弘(ひろむ)、滋野貞主は参議にそれぞれ昇進した
次いで皇太子に仁明天皇の長子である通康親王(文徳天皇)が立てられた。彼はこの時16歳であり
母は良房の妹の順子であった
ここに承和の変は幕を閉じる