るるの日記

なんでも書きます

魔族・藤原氏【藤原良房・いつもクーデター(疑惑)を利用し出世する藤原氏】

2021-10-02 17:18:00 | 日記
■藤原北家の隆盛の基礎をつくった
藤原冬嗣の次男として生まれたのが
藤原良房
804年に生まれた良房は名門の貴公子として成長を続け、その抜きん出た才能と風采とによって嵯峨天皇に好まれた
嵯峨天皇の皇女潔姫を妻とし
2人の間には明子(あきらけいこ)が生まれる
そうはいっても826年に父の冬嗣が没した時は、まだ蔵人という立場に過ぎなかった

■淳和天皇期に、良房は東宮亮(とうぐうのすけ)として、皇太子であった後の仁明天皇との関係を結ぶことに成功したので、仁明天皇即位に際して良房は蔵人頭となり、834年には参議に昇進。良房31歳のときである
さらに翌年七人の上席者を越えて権中納言の地位に就いた
そんな折りに起きたのが承和の変である

■承和七年に淳和上皇、承和九年に兄・嵯峨上皇が崩御した。事件はその後起こった

嵯峨上皇崩御の2日後、仁明天皇政府は、伴健岑(とものこわみね)、橘逸勢(たちばなはやなり)を逮捕した
事の発端は、平城天皇の皇子・阿保親王が、皇太后にもたらされた密書にある。それには「伴健岑と橘逸勢が皇太子の恒貞親王を擁して兵をあげクーデターを起こそうとしている」という

密書を受けた皇太后は、藤原良房を招いて対策をねり、その結果、良房によって密書の内容は伝奏(天皇にとりつぐ)された
逮捕されて6日後の8月23日にいたって、ついに事件は決定的なものとなり、皇太子を軟禁したのである

恒貞親王に出仕していた良房の叔父で大納言の藤原愛発(ちかなり)、中納言の藤原吉野も出仕しており、ともに軟禁された

仁明天皇は伴健岑・橘逸勢を隠岐と伊豆にそれぞれ配流するが、橘逸勢は伊豆へ送られる途中、遠江において憤死。皇太子恒貞親王は廃太子とされた
その他、連坐した者は60名余りの多数に及んだ

■その後の新たな人事で
良房は大納言に
源信は中納言に
源弘(ひろむ)、滋野貞主は参議にそれぞれ昇進した

次いで皇太子に仁明天皇の長子である通康親王(文徳天皇)が立てられた。彼はこの時16歳であり
母は良房の妹の順子であった
ここに承和の変は幕を閉じる


魔族・藤原氏【北家藤原冬嗣の巧妙な人事・恩を着せその恩を次世代のわが子に返させる】

2021-10-02 16:20:02 | 日記
■薬子の変の後
藤原冬嗣の兄真夏は参議を解任
藤原北家の嫡流は冬嗣に移った
そして811年冬嗣は参議になった
それからは
権中納言
中納言
大納言
右大臣
左大臣(825年)
とめざましく出世した
嵯峨天皇の危機を救い
政権を支えた功績を考えれば当然の地位である

■しかし冬嗣の歴史的価値は、出世の華々しさではない。彼が藤原北家隆盛のもとになったことにある
冬嗣の後は藤原北家の、しかも冬嗣の一流へ絞られた

それはなぜか見てみよう

■冬嗣の発言力が強くなった後、冬嗣が没時までに参議に列した人たちは16人である。この16人は2つの傾向がある
1、藤原氏ではなく他氏出身が多い
2、藤原北家の比重が高くない。冬嗣関係は弟くらいである
しかし、それは表面的で
冬嗣は巧妙な仕掛けを施していた

仕掛け(1)
つまり、対抗できそうな力を持つ人たちは参議に加えず、登用されれば恩にきそうな庶流ばかり。そして大事なのは、その子供には引き継がれず、単発の抜擢で、継続的に名流をつくることに繋がらない
そうゆう条件での採用、抜擢だった

仕掛け(2)
冬嗣は2年以上競争相手もいないのに右大臣にならなかった。左大臣には死の前年までならなかった
まさか冬嗣を越して「左大臣、右大臣になりたい」とは言えない
冬嗣が左大臣になってくれれば参議に2人入れるというのに、、、
参議になれる家柄でも、これではなれない、、

つまり、すべて藤原北家以外の人たち以外の藤原家を参議に入れないための策略なのである
藤原四家の主導権争いは北家の嫡流だけが残るように細工をしているのだ

冬嗣の人事には人の心を読みきった緻密な計画がある。手持ちの駒が十分育っていないなか(自分の子供)で、次世代を見越した人事。その足跡をたどれば希代の策士の風貌が見えてくる

※藤原氏内の強力な敵対者を排除
※他氏や藤原四家の庶流を登用
※登用されたことに恩をきせる
※その恩を冬嗣の子の良房に返すよう依頼
※良房をサポートしてくれそうな人たちだけを朝廷に残す
♦️良房の絶対的地位が約束される






魔族・藤原氏【上皇といえど上位権限保持者である天皇に逆らうとこうなる】

2021-10-02 15:33:18 | 日記
平城上皇は平城宮への遷都を命じ
官人たちに平城京に遷るよう指示した。天皇を通さぬ命令が上皇から下った

「戦端は開かれた」
藤原冬嗣たちは理解した

冬嗣は造平城宮使という名目で平城上皇のもとに向かった。それは都づくりの工事を中止させ、上皇を幽閉するためだ

そして、越前国愛発、美濃国不破、伊勢国鈴鹿の三関を閉鎖

平安京にいた藤原仲成は逮捕し射殺
平城上皇と薬子は逃れようとしたが身柄を拘束された。薬子は自殺し、平城上皇は出家した
こうして薬子の変は収拾された

強硬手段で出たが、躊躇・逡巡していては長いものに巻かれてしまう
上位権限保持者である天皇に逆らう以上、こうした形しかなかった
これで藤原式家の力も大きく削がれた


魔族・藤原氏【情報戦】

2021-10-02 15:16:45 | 日記
嵯峨天皇派は
藤原冬嗣を軸に対策が練られた
冬嗣は、平城上皇とその側近勢力の打倒計画を立て、その情報漏洩を防ぐ手立てを考えた
なぜなら天皇側の情報は当時すべて筒抜けになっていたからだ

天皇が指示を出す時、これまで天皇の言葉は尚侍(ないしのかみ)を通して大臣などに伝えられたのだが、その尚侍が薬子なのだ。これでは平城上皇に耳打ちしているようなもの
そこで嵯峨天皇は天皇の秘書室として蔵人所を新設し、冬嗣をその長官に就け、若手官人が天皇側近となって天皇の周囲を固めた。冬嗣はその第一の側近として司令塔となり、天皇の言行、動静は尚侍に掴めなくさせた

平城上皇側は、観察使の藤原仲成、藤原真夏を参議として公卿会議に送りこんだ。会議では上皇への対処も重要な議題となる。そこでの情報をキャッチしようとした
嵯峨天皇からしたら、仲成、真夏がいては本当の議論ができるわけがない。公卿会議は無視し側近だけで処理するしかない。しかし長く側近政治を続けてしまえば公卿から反発が起きる
全面対決を早めるしかない

つづく、、

魔族・藤原氏【皇族を争わせることで頂点を目指す、藤原家サバイバルゲーム】

2021-10-02 14:52:04 | 日記
■藤原京家は衰微
南家、北家、式家の藤原三家のサバイバルゲームは平城朝からはじまった
【式家・藤原仲成が南家に攻撃をしかけた。】きっかけは伊予親王事件
である
伊予親王は桓武天皇の第三皇子
母は【南家・藤原是公の娘吉子】

807年10月
伊予親王と大納言藤原雄友(吉子の兄弟)は、「藤原宗成という男が謀反話を持ち込んでいる」と平城天皇と右大臣藤原内麻呂に報告
これを受けて藤原宗成は捕縛された
宗成はなんと
「首謀者は伊予親王だ」
と言い出した

伊予親王は親王号を剥奪され
藤原雄友は伊予国に流された
これは、藤原式家が藤原宗成を操って捏造した冤罪事件だった
これによって南家は失脚

次の狙いは皇太子(弟)神野親王(嵯峨天皇)の側近勢力に打撃を与えようとした
藤原北家・藤原冬嗣は神野親王の側近
藤原仲成からの攻撃に戦慄を覚え、また強い敵がい心も抱いた

ともかく
北家と式家だけが残った

■809年サバイバルゲームは再開
【薬子の変】である
平城天皇は風病に冒されていた
メンタルな病である
792年の占いでは、その原因は早良親王の怨霊とされた。早良親王は桓武天皇の弟で、父光仁天皇の意思によって桓武天皇の後継者と決められていた
しかし桓武天皇は後継に実子を立てたいと密かに願っており、早良親王を自殺に追い込んだ
その自殺は飲食を断つという方法で、まさに死を賭けての抗議だった
排斥した桓武天皇も、後を継いだ平城天皇も心を病み、罪悪感にさいなまされた

■809年4月、平城天皇は病に堪えきれず、弟の嵯峨天皇に譲位した。しかししばらく療養につとめたことで病状は回復した。そうなると復位の欲が出てきた
寵妃の藤原薬子
寵臣の藤原仲成
姉弟からの強い勧めもあり
上皇としての政治力を駆使し
国政をコントロールし
やがて嵯峨天皇を廃位に追い込む
そうゆう計画が立てられ
それが着々と実行に移されていった

■809年12月、平城上皇は平城宮に居を移すと宣言して出かけてしまい、そこから嵯峨天皇の政治を脅かすような指示を次々に発した

上皇と天皇は意思の疎通がなく
【二所の朝廷(みかど)】
といわれる政治状況となる
家臣たちは上皇、天皇どちらの指示に従うべきか困惑した

嵯峨天皇は平城上皇の力を封殺する決意をした。嵯峨天皇は自分の命を託せる者を呼び集めた
そこに登場するのが藤原冬嗣である

冬嗣の兄は平城上皇派の側近。しかも冬嗣は藤原北家庶流
信頼を寄せられるレベルの官人、家柄ではない
しかしこの時、嵯峨天皇は家柄などはもはや問題ではなかった。力があり信頼できるかどうかだ。この闘いの結果次第では自分の政治生命が閉ざされる、、という大切な時である
冬嗣は皇太子の時近侍しており、信頼がおけると思えた。半分は祈るような気持ちで冬嗣に賭けた

つづく