すず弁
■藤原広嗣の父は藤原宇合
宇合は藤原不比等の子四兄弟の三男だが、四兄弟は次々と疫病で死去した、と同時に玄昉が僧正に昇進した
■藤原不比等の娘・宮子は文武天皇の夫人であったが、文武天皇が崩御してからの30年間宮中で悶々と「憂愁の病」にとりつかれていた。宮殿からは一歩も外出せず、人に会うこともできなかったが、、つい最近、唐で学んだ玄昉の医術で全快した
宮子は広嗣にとっては叔母にあたる
巷の噂では、「玄昉の医術は夫人の肌に触る妖しい祈祷。男女の仲が高じると自然にできるものがある。夫人と玄昉との間に生まれた子が、寺に預けられた善珠さまだ」、、と
■人事
長屋王の弟・鈴鹿王が太政大臣に、橘諸兄(広嗣の祖父・不比等の後妻三千代と、三千代の前夫の子)が右大臣に、
広嗣は大養国(旧大和国)を支配する国守に任命された
叔母・光明皇后(聖武天皇皇后)のもとへ挨拶に参上すると、光明皇后と玄昉が身を寄せていた。しかしそれは、玄昉が唐から持ちかえった一切経を光明が書写の最中であったので、光明皇后と玄昉との関係はそれなりに正当化される
加えて玄昉は聖武天皇に招かれて宮中に迎え入れられてもいたし、、
しかし、、所用で再び光明皇后のもとに伺ったところ、今度は決定的瞬間を目撃してしまったのだ
光明皇后と玄昉が枕を並べて寝ているではないか!
、、もうその頃には光明皇后と玄昉の仲は公然の秘密として世間に広がっていたのだった
宮子は光明皇后の腹違いの姉
宮子は聖武天皇にとっては母
光明皇后は聖武天皇の妻
玄昉がこの二人を手玉にとる?
あの施薬院や悲田院を設け、病者救済にあたる慈悲深い光明皇后がなぜ?
広嗣は宮子と光明皇后の名をふせ
玄昉の行いを聖武天皇に言上したが反応はない。そして広嗣は大宰府へ左遷になった
■聖武天皇は生まれてから母・宮子に会ったことがないかった。が、、
玄昉の医術による宮子の回復で母と子は、初めての対面ができた。聖武天皇が玄昉を厚遇するゆえんである
そして37年ぶりの母子感動の対面場面を演出したのは吉備真備
真備と玄昉の親交は親密だった
この二人は共に入唐し帰国した仲だ
(同じ釜の飯を食うう)
■もともと藤原氏は神祇官である中臣を姓としていた。大化の改新の功として中臣鎌足の死に際して藤原の姓と大織冠の位を賜った
■鎌足の子・藤原不比等は、はじめ藤原の宗家を継がなかった。従兄弟の藤原意美麻呂を一族の長に立てた
後、不比等は相当な権力を握り、意美麻呂を中臣の姓にもどさせた
つまり、自らの子孫にしか、藤原姓を名乗らせないと決意したのだ
■藤原不比等には四人の男子があった
★長男・武智麻呂
★次男・房前(ふささき)
長女・宮子【文武天皇夫人】
次女・ながこ【長屋王妻】
三女・光明子【聖武天皇皇后】
★三男・宇合(うまかい)
★四男・麻呂
■長屋王という人物
天武天皇の孫
父は壬申の乱の英雄・高市皇子(たけちのみこ)で、草壁皇子の後の皇太子だったが、二人とも薨去
即位は実現しなかった
皇統は草壁皇子の妃だった阿閉皇女(あべのひめみこ)に継承され、皇太子妃の即位という異例な事態だった。元明天皇である
持統天皇、元明天皇と女帝が続く
草壁皇子と元明天皇の間には
★後の文武天皇
★氷高内親王(後の元正天皇)
★吉備内親王
がいた
長屋王邸はこの二人の内親王の邸宅でもあり、長屋王が転がりこんだのである。長屋王は吉備内親王を妃とする
長屋王は不比等の娘(ながこ)をも妻にして姻戚関係を結んでいたからか、不比等の娘宮子の生んだ皇子が即位して聖武天皇となると、長屋王は左大臣の位に登った
■神亀6年2月、長屋王を誣告(虚偽の訴え)する者があった
「長屋王は左道(呪術)を学んで、国家を転覆しようとしている」という
呪術的な力で天皇家を呪おうという意図があるという告発だ
ただちに長屋王の邸宅は包囲された。
全体の作戦の指揮をとったのは
藤原宇合だった。藤原一族のうちもっとも長屋王と親しかった人物だ
不和、鈴鹿、愛発の三関は、逃亡を防ぐため封鎖され、もはや逃げ道はない。長屋王は妃の吉備内親王とわが子もろとも自害してはてた
だが多くの人は、長屋王が冤罪であることを知っていた。長屋王のもう一人の妻で藤原出のながこや、ながこの生んだ子には何のお咎めはなく、密告者には外従五位下の位を授けられた。あきらかにこの密告が仕組まれたものだった証拠である
■神亀6年は天平元年と改元された。長屋王との関わりを忘れるためだ
この年は、藤原一族の光明子が
聖武天皇の皇后に立てられた
臣下の娘が皇后になるのはこれが最初である。それまでは皇后は皇族に限るという不文律があったのだ
もし、、長屋王が存命なら異議を唱えていたところだ
♦️長屋王抹殺の陰謀には、この光明子を皇后に立てるため、という動機があったのだ
■長屋王の死後、8年経った天平9年
疫病が大流行した。天然痘である
社寺に命じて加持祈祷
各地の長官には魑魅魍魎が入ってくるのを防ぐ「道あえの祭」を励行させた
だが、そんなことで疫病の勢いは止まらない
藤原四兄弟のうち最初に死んだのは
房前。4月17日
次いで麻呂。7月13日
次いで武智麻呂。7月20日
次いで宇合。8月5日
こうして長屋王抹殺に一役かった
藤原四兄弟はことごとく疫病によって死亡した
人々は長屋王の祟りと噂した
■★長屋王の一族の遺骸は、都の外で焼き、砕いて川や海へ流された
★長屋王の妃で天皇の娘・吉備内親王の遺骨だけは丁重に葬るように詔勅が出た
★長屋王の遺骨は土佐国へ運ばれ埋められたのだが、祟りで住民たちが死にはじめた。住民の訴えによって長屋王の遺骨はあらためて紀州奥の島(有田市沖ノ島とされる)に埋められた
藤原氏頂点に君臨した道長の後継者
頼通
藤原摂関政治の最盛期を駆け抜け
沈みゆく太陽を眺めるように
栄華のかげりを見つめた人物
一方で
平等院を建立し、極楽浄土に救いを求めた人生
藤原頼通の栄達は、まさしく超特急だったが、政治の実権は父道長の手中にあった。道長が逝去するや、おのずと頼通はトップの座に躍り出ることになる
しかし、姻戚関係を確固たる基盤にした政権にも凋落の兆しがやってくる。それは皮肉にも頼通の娘二人に皇子が生まれなかったことにあった
1068年皇位は藤原一門と姻戚関係のない後三条天皇が即位。それにより藤原摂関政治の栄華は次第に斜陽していく
頼通は1060年には左大臣を辞退
そして弟に関白職を譲った
藤原頼通は元来、温厚な貴公子で権力欲よりも文芸を愛する人であった。平等院などの経営は文人としての頼通を知る上で貴重なものである
平等院は頼通が父道長から伝領した別荘で、1052年に寺院とし
平等院と号したことに始まる
そること998年、左大臣・源重信の未亡人から買い上げた別荘が宇治殿であって、これをさらに頼通が立派なものに仕立てあげたのである
なお平等院建立の背景には「末法到来」がある
頼通は非常に末法の世を恐れた
故に人一倍極楽浄土を祈念し
その究極の形が平等院建立となった
1053年、阿弥陀如来を本尊とする阿弥陀堂が建立された。現在の鳳凰堂である
「この世をば、我が世とぞ思う望月の欠けたることもなしと思えば」
とゆう偉大な父
満ちれば欠ける凋落の兆しを見る頼通、、それが浄土への憧れがめばえていく原因となる
藤原道長は政権の座につく頃から腰痛を患っていた。その後も病と縁が切れず、喘息、糖尿病、胸病、白内障といった病と戦った。晩年は視力が1mしか離れていない人の分別もつかない程衰えている
道長は「望月」の歌を詠んだ翌年
病に打ち勝つため、54歳で出家したが、実際は息子で摂政頼通の政治に何かと口出ししているし、出家生活に専念ということではなかった
道長は死の2年前、皇太子妃であった娘・嬉子が皇子を出産後19歳で先立った。その皇子は後冷泉天皇となる
その1ヶ月前に娘・寛子(皇太子を辞した敦明親王の妃)が亡くなったばかりだった
この年は若くして出家した息子顕信、その4ヶ月後に皇太后の娘妍子を失った
さすがの道長もこうした逆縁をどうすることもできず、痛恨の極みであった。この時期、道長は如何なる思いで月を眺めたであろうか
1027年12月
道長は背中の腫れ物に苦しみながら悶絶死した。享年62歳
道長の死とともに藤原摂関の満月が大きく欠けはじめた