鎌倉幕府が滅亡すると、京都へ帰った後醍醐天皇は、新しい政治に着手した。常陸へ流されていた藤原藤房もただちに帰京し、新政権に加わった。様々な人々の期待を集めて
【建武の新政】が始まった
藤房は、新政権にとって何より重要な論功行賞を担当する部署、恩賞方の責任者になった
【公明正大な論功行賞】が、新政府を軌道にのせるための必須条件なのだ。ここで新政権支持者を納得させなければ、出港した船はたちまち座礁してしまうだろう
ところがひそかに後宮から天皇に働きかけて、朝敵だった者や功労のない者が所領を与えられた。コネや賄賂がまかり通り、北条氏の膨大な旧所領が、遊女、歌い女、蹴鞠上手、宮中の女房、官人などに与えられ、功労のある忠臣に与える所領がなくなるという有様だった
実際に幕府と戦ったのは武士なのだ。武士への恩賞が薄くては、政権スタートから強力な支持者を失望させてしまう。あまりに武士を軽んじる後醍醐天皇に藤房は諫言した
「武士たちが官軍に加勢したのは、恩賞にあずかろうとしたからです。ところが公家のほかには、功績のあった者に未だに恩賞が与えられていません。そのため新政権を恨み、不満を抱いて、皆が国に帰っていきます。本来ならそうした者たちに真っ先に恩賞を与えて不満を散じるべきです」
諫言は一度ではなかった。しかし一向に改善の気配なく、藤房はとうとう恩賞方を辞退した。その後藤房は次第に新政府全体にわたっても諫言を行うようになった
「恩賞どころか、内裏造営のために諸国に税を課し、ただでさえ兵火で疲弊している者に苦痛を与えるのは最悪です」という調子で政治の基本姿勢を批判した
政治の基本姿勢は後醍醐天皇の考えの反映である。それを批判するのだから後醍醐天皇がいい顔をするはずはない
しかし、藤房が後醍醐天皇に嫌われてまで諫言し続けても、結局は
「天皇、ついに御許容なかりし」に終わった
新政が始まって一年余、藤房は突然出家し姿を隠した