るるの日記

なんでも書きます

善神・藤原氏【後醍醐天皇側近・藤原藤房出家して行方不明に】腹立つ!

2021-10-07 16:14:41 | 日記
鎌倉幕府が滅亡すると、京都へ帰った後醍醐天皇は、新しい政治に着手した。常陸へ流されていた藤原藤房もただちに帰京し、新政権に加わった。様々な人々の期待を集めて
【建武の新政】が始まった

藤房は、新政権にとって何より重要な論功行賞を担当する部署、恩賞方の責任者になった
【公明正大な論功行賞】が、新政府を軌道にのせるための必須条件なのだ。ここで新政権支持者を納得させなければ、出港した船はたちまち座礁してしまうだろう

ところがひそかに後宮から天皇に働きかけて、朝敵だった者や功労のない者が所領を与えられた。コネや賄賂がまかり通り、北条氏の膨大な旧所領が、遊女、歌い女、蹴鞠上手、宮中の女房、官人などに与えられ、功労のある忠臣に与える所領がなくなるという有様だった

実際に幕府と戦ったのは武士なのだ。武士への恩賞が薄くては、政権スタートから強力な支持者を失望させてしまう。あまりに武士を軽んじる後醍醐天皇に藤房は諫言した
「武士たちが官軍に加勢したのは、恩賞にあずかろうとしたからです。ところが公家のほかには、功績のあった者に未だに恩賞が与えられていません。そのため新政権を恨み、不満を抱いて、皆が国に帰っていきます。本来ならそうした者たちに真っ先に恩賞を与えて不満を散じるべきです」

諫言は一度ではなかった。しかし一向に改善の気配なく、藤房はとうとう恩賞方を辞退した。その後藤房は次第に新政府全体にわたっても諫言を行うようになった
「恩賞どころか、内裏造営のために諸国に税を課し、ただでさえ兵火で疲弊している者に苦痛を与えるのは最悪です」という調子で政治の基本姿勢を批判した

政治の基本姿勢は後醍醐天皇の考えの反映である。それを批判するのだから後醍醐天皇がいい顔をするはずはない
しかし、藤房が後醍醐天皇に嫌われてまで諫言し続けても、結局は
「天皇、ついに御許容なかりし」に終わった

新政が始まって一年余、藤房は突然出家し姿を隠した

魔が外れた藤原氏【後醍醐天皇への忠臣・藤原藤房】笠置山落ち

2021-10-07 15:42:27 | 日記
■一度目の倒幕計画露見
正中元年4月(1324)、藤原藤房が参議に任じられ公家の仲間入りをした。その5ヶ月後に倒幕計画が露見し【正中の変】、日野資朝ら後醍醐天皇の腹心が配流された。このとき、藤房の父宣房は勅使として鎌倉まで赴き、宣房の弁明によって
後醍醐天皇が処罰されるのを防いだ

■二度の倒幕計画露見
藤房は後醍醐天皇の腹心となっていた
元弘元年8月、2度目の倒幕計画露見
【元弘の変】したとき、藤房はしっかり後醍醐天皇に近侍していた

8月24日夜、六波羅探題(幕府の京都駐在所)が動くのを察知した護良親王が御所に知らせた
後醍醐天皇は驚くばかりで何の指示も出せない有様。ようやく側近に「どうしたらいいか」尋ねると
即座に藤房が
「ここはひとまず難を逃れるべきです。思案しているうちに時を失います。一刻も早く御所をお出になられませ」と促し、後醍醐天皇を女房車に乗せ脱出。京都を離れ笠置山に入った
後醍醐天皇が笠置山に楠木正成を呼び寄せるときは使者となって、二人の間を取り次いだ

元弘の変は、捕らえられた後醍醐天皇が隠岐へ流されて一応の終結をみるが、倒幕ののろしは次なる乱を呼びおこした

■変から乱へ、そして倒幕
倒幕の火は楠木正成の蜂起によって点火され、護良親王の檄によって燃えあがり、元弘の変から2年足らず
元弘3年5月幕府を壊滅させた

【元弘の変】の最中、天皇を守り通し、的確な補佐を行った藤房がいなければ【元弘の乱】へは続かなかった。楠木正成の蜂起を説得したのも藤房なのである

■笠置落ち
元弘元年晩秋
木津川上流の奥深い山で
藤房は乞食のような風体でさ迷っていた。さらに驚くことに、藤房の後ろには、藤原にしがみついて歩く
後醍醐天皇の姿があった

後醍醐天皇が、藤房に手をひかれ
藤房の弟季房に支えられて亡霊のように歩いていた。主従三人は鎌倉幕府に追われ三昼夜逃げ回っていた

8月に倒幕計画を察知された後醍醐天皇は、京都を脱出し笠置山に立て込もったが、幕府軍の前に笠置山は陥落。皇族や公暁たちは、後醍醐天皇を包むように逃げた。だが、激しい風雨、夜の暗闇の中でとうとう主従3人だけの逃避行になったのだ

三日目、三人は笠置山から四里の木津川沿いにある有王山山麓にたどりついた。起伏の激しい山岳を、追っ手の目を避け、道なき道を行く後醍醐天皇は、慣れない歩行のため、「一足には休み、二足には立ち止まり」という状態だった

主従はこの後、有王山の近辺で捕らわれの身となった

後醍醐天皇の危機。最後まで側にいて離れなかったのは、藤原藤房なのである



魔が外れた藤原氏【寄生先の天皇家自体が衰えた】時代は変わる

2021-10-07 14:30:36 | 日記
■後醍醐天皇には〈後三房〉とよばれた忠臣がいる。
★〈藤原〉万里小路(までのこうじ)宣房
★吉田定房
★北畠親房

ところが、後三房と同じ共通点を持つ人物がもう一人いる
★万里小路藤房だ(宣房の長男)
後醍醐天皇の危機的境遇に、最後まで側にいて離れなかったのは、後三房ではなく万里小路藤房なのである

■藤房は、1295年に生れた
万里小路家の本姓は藤原
住む土地にちなみ万里小路を号した

藤房が生きた14世紀前半は、公家の支配権が武家に奪われて、現実に土地を支配する武家が、公家の観念的な支配権を認めなくなった時代

公家社会は、残り少ない土地を奪い合い、大覚寺統と持明院統に分かれ
武家社会は、拡大する土地の分配法をめぐって争った

北条氏の得宗専制政治に不満を持つ武士や悪党たちも、社会秩序を根底からゆさぶった

■藤房は、そのような断末魔の叫びをあげている公家政権で生き延びた
古代藤原氏のような、天皇家に寄生し競争相手を蹴落とすような生き方をする時代ではなかった
なぜなら、寄生先の天皇家の権力が衰え、公家全体の土地は武家に侵食され、公家同士の権力闘争に勝ったとてありつける土地はたかが知れているのだ

■後醍醐天皇はそうした公家社会の勢力拡大をスローガンにした。だからこそ派を問わず、多くの有能な公家が後醍醐天皇の忠臣となり
「天皇親権」「倒幕運動」に心血を注いだ。藤房もその一人だった



藤原氏【後鳥羽上皇・寵臣らの断罪令を出す・藤原光親斬首】藤原氏の悲しさ

2021-10-07 13:48:16 | 日記

後鳥羽上皇の北条義時追討の宣旨(実際書いたのは藤原光親)は関東諸国に届いた。宣旨に対する畏敬の念は相当なもので、御家人たちは自分たちを罪人のように感じた。そこに北条政子の演説が行われ、御家人たちに武士としての誇りを覚醒させた。「もはや武士は貴族の犬ではない」この時すでに鎌倉武士は、心で勝利していた

★幕府軍兵数は
東海道10万
東山道5万
北陸道4万

★後鳥羽兵数は
わずか1700
宣旨の威力に頼りすぎていた
6月14日宇治川大激戦で大敗
後鳥羽上皇は義時追討の宣旨を撤回
この戦は謀臣のしたことだと弁明する。

■御所に引きこもった後鳥羽は、門を叩く藤原秀康ら武将らに「武士どもは今は不要なり。いづこなりとも落ち行くべし」と非情な言葉を与えている😓

★秀康は弟秀澄とともに故郷の河内に逃げるが10月に捕らえられ、六波羅で処刑された

すでに7月1日、後鳥羽はみずから、側近の断罪令を出していた。

★藤原範茂
足柄山の早川で水中自殺
死ぬときに五体満足でないと後生の障りになるというので斬首をさけて自ら望んだ

★藤原宗行
駿河国藍沢原で斬首
最後の刻まで読経を怠らなかった

★一条信能
美濃岩村の相原で斬首
長く地元の人々によって祭られていたが、明治になって天皇の目にとまり正式に岩村神社となった
★藤原光親
7月12日、駿河国加古坂で幕府軍の大将武田信光に斬首される。鎌倉に護送される道中、光親は死の恐怖心から救いを求めた。出家である。近隣の寺から僧が呼ばれ、光親は剃髪し法華経を唱えている最中、光親の首を信光の郎党・内藤左衛門がはねた

後鳥羽の寵臣たちは、君主の命令によってあっけなくこの世を去った
光親の死後、彼の筆跡による後鳥羽宛の書状数十通が発見された
「倒幕を思い止まるように、、、」というその内容に、北条時房・泰時は、光親殺害を悔やんだ

■藤原氏は天皇家と癒着し、名実をとってきた氏族である。時に天皇を傀儡にし、天皇を凌ぐ勢いをもったことで良くも悪くもいわれるが、光親を思うと、癒着せざるをえなかった人間の悲しさや哀れさを痛感する
光親はいつの世にも存在するのです

■藤原光親の墓
★静岡県御殿場市清後・久成寺に
光親の墓といわれる五重塔がある。当時この一帯は武田信光の領土で、光親護送の最に久成寺に立ち寄った縁から住職が光親の遺体を葬った
■藤原光親斬首現場の墓
★静岡県駿東郡小山町籠坂峠中腹
光親の遺体は荼毘にふされ、遺骨は彼の従者によって京に持ち帰られたというから、斬首の現場と久成寺に分骨された


都心から国道138号線を通り山中湖へ向かう車は多いが、途中の光親墓のために下車する人は、、あまり見られない




藤原氏【後鳥羽上皇・寵臣 藤原光親の悲劇】中流貴族の出世

2021-10-07 09:17:36 | 日記
■1198年、後鳥羽18歳の時
土御門天皇に譲位し院政を開始した
翌年、源頼朝が病死する
新将軍・源頼家はあっけなく叔父の北条義時に殺され、弟・実朝がその後を継いだ

■後鳥羽上皇は、側近で叔父でもあり義父でもある、坊門信清の娘を新将軍・実朝に娶らした。足利氏の娘との婚姻を破談にした上のことで、足利氏の台頭を防ぐ必要があったのだ
しかし1219年正月、実朝は兄頼家の遺児・公暁に殺された。将軍職を継ぐ源氏は絶えた

■北条政子は、後鳥羽上皇の皇子を将軍に迎えたいと願うが、上皇はこれを拒否。幕府はあくまでも朝廷の臣下であって朝廷と並ぶものではない。そんなこと頼める立場ではない、、という考えからだ
結局、新将軍は九条道家の三男
頼経(頼朝曾孫)が継いだ

■後鳥羽上皇は鎌倉幕府に、
妃・伊賀局の所領の地頭の解任要求を出す。この要求をのんだら、御家人制度が破れてしまう。所領と地頭あっての鎌倉幕府なのだから。
北条義時は解任要求を拒否したので
後鳥羽上皇は北条義時追放の宣旨を下した
この宣旨を実際書いたのは藤原光親
通称・葉室光親である

■藤原光親は、北家藤原冬継の傍系
摂関家ではないので、一流コースからは外れ、藤原一門の中では中流貴族の家柄であるが、先祖代々の土地や伝統を守り、家名を汚さないでいれば、安穏な一生を送ることができる

しかし藤原光親はそれを望まなかった。上皇に摂関家の後見の必要はないので、上皇の側近になれるチャンスがある。光親らの中流貴族にとって、上皇の側近への道は一旗上げる絶好のチャンスだった

光親は後鳥羽上皇の「年預別当(院中の雑務を掌握する任務)」にまで昇った。
光親の妻は後鳥羽皇子・順徳の乳母
光親の従兄弟も後鳥羽から領地を安堵され、藤原光親家と後鳥羽上皇の連携は強固になる

■光親の他にも後鳥羽上皇の周囲に、藤原氏の姿がチラホラあった。これら後鳥羽上皇のブレーンが、「いざ倒幕」という時の主力。というより貴族全体の同意はほとんど得られていなかった

九条兼実の弟で、天台座主の慈円は
武者の世になる道理に逆らうことはできない、と公武衝突に傷心している。北条義時追討宣旨は、後鳥羽上皇とその側近たちの空回りだった