るるの日記

なんでも書きます

新明治政府の御輿藤原氏【三条実美ストレス性パニック障害になる】

2021-10-08 17:17:23 | 日記
■使節団メンバーは内政改善を最優先に考えており、征韓論には大反対だった

西郷隆盛と大久保利通の間で激論が展開された。大久保は事前に三条実美を口説き落とし、西郷の上奏(天皇に意見を申し上げる)を許可せぬ約束を取り付けていた
が、、西郷が
「朝鮮への遣使が実行されないなら、自分は辞職し、死んで朋友に謝罪する」
と、切り札を出して実美につめよったので、結論は翌日に持ち越されたが、翌日も収拾がつかず、
最後は実美と岩倉の判断に委ねられることになった

■三条は、陸軍大将の西郷が辞めたら、彼を信奉する近衛兵が黙っていない。それを危惧した三条は大久保との約束を破って西郷の遣使を決定した。翌日、大久は激怒して辞表を叩きつけ、木戸、大隈らもこれに続いた

■翌日、閣議が召集された。朝鮮大使の上奏手続きを行うためである。ところがこの日、岩倉が病と称して欠席し後に辞職を告げた
実美は窮地に追い込まれた
「明日まで待ってくれ。もし明日岩倉が出席しなければ、私の判断で必ず上奏するから」と周囲に泣きついた
憐れに思った西郷は申し出を了解した

■その日、実美は岩倉のもとを訪れ、必死の説得を試みたが、岩倉は強く遣使に反対し、ついに自説を曲げなかった
実美は今度は西郷を自宅に呼び寄せて岩倉の意思を告げるが、西郷も頑として譲らなかった
実美は最大の窮境にたった

■翌日未明、実美は
にわかに精神に異常をきたした。極度のストレスから来たパニック障害である。病状は翌日快復に向かっていたが、しばらく政務に復帰するのは無理だと判断され、岩倉具視が太政大臣代理に任命された

■征韓論争は、西郷が岩倉具視に激しく上奏を迫ったのに対し「俺と三条殿との考えは違う」と一言冷たく突き放したことで西郷の敗北はあっさり決定した
明治6年

■明治10年、西南戦争勃発。西郷隆盛は敗死する

■明治18年、内閣制が開始されたことで、実美は太政大臣を引退
明治24年急病にかかり、亡くなった。享年55歳



明治新政府の御輿の藤原氏【三条実美・天皇の思いを推察し、西郷隆盛に希望的観測を加え、天皇の言葉として伝えてしまう】推察といえば宮内庁長官

2021-10-08 16:19:40 | 日記
【御輿は自ら動くことはできない
担ぎ手に不協和が生じれば傾くか
崩れ落ちるしかない】

■明治4年、新政府は近代化に向けて欧米の文化を吸収すべく、「岩倉具視・使節団」を派遣した。使節団には岩倉をはじめ、大久保、木戸、伊藤などそうそうたるメンバーが参加した

三条実美は、これだけのメンバーが数年間不在になることを非常に不安がり、大久保か木戸を残留させるように岩倉に訴えたが、岩倉は「使節団が帰国するまで新政策を一切遂行しない」と留守参議に誓わせ、全員を連れて旅立ってしまった

■実美が心配した通り、西郷隆盛ら留守番政府は、すぐ約束を破り次々と新政策を断行していった。なかでも実美が一番困惑したのは、朝鮮への派遣問題だった

当時朝鮮は鎖国政策をとっていて、日本の開国要求に一向に応じようとせず「無礼な朝鮮を討つ」そういう声が政府内で大きくなると、西郷隆盛自らが朝鮮へ出向いて開国を勧めると言い出した。あくまでも平和友好の使者だと強調したが、内実はわざと相手の怒りを買って自分が殺されることで、日朝戦争の契機をつくろうとしていた

■この頃、廃藩置県によって、特権を奪われた士族の不満が国内に渦巻いており、いつ反乱が起きてもおかしくない状況にあった。これを憂慮した西郷は士族を対外戦争へ動員し、鬱屈した不満を解消させようとした

けれども、今、西郷に死なれては困るし、戦争は国家を疲弊させ、列強諸国の干渉を受ける可能性もある。だから実美は、西郷の使者を認めなかった

■明治6年8月16日、西郷隆盛は三条邸を訪問した。実美は岩倉らが帰国するまで待てと諭す。西郷は「渋る理由を聞かせろ」と迫った

兼実は西郷の勢いに押しきられ、要求を受け入れる方向に動きだし、17日に参議会議を召集した。参議の大半が西郷派だったので、当然派遣が決定された。

■19日実美は、遣使の件を明治天皇に言上した。天皇は「岩倉の帰国を待って再度審議するよう」下命したが、人のいい実美は「遣使は許可されるだろう、、」との希望的観測を加えて、天皇の言葉を西郷に伝えた
同日、西郷は板垣退助に出した書簡の中に「生涯の愉快、この事に候」と狂喜している

この実美の一言のために、後に政府は大分裂をきたすのである。実美はあまりにも軽率すぎた

明治からの藤原氏的立場は薩摩藩士【三条実美・まさかの明治新政府のお飾りに】

2021-10-08 15:31:38 | 日記
■三条実美は、長州軍が東山の妙法院へ撤収したというので、人々を率いて合流した。妙法院には尊攘派三千人が雲集していた。進むか退くかについて激しい討論の結果、長州に撤退して再起をはかることになり、実美ら尊攘派公家七名は長州藩士に懇願され随行することになった
翌朝、実美は降りしきる雨の中、みの笠にわらじ履きで、仲間とともに徒歩で伏見街道を下って行った
〈七卿落ち〉

■西国に下ってからの実美は、着いて早々、毛利家から京都に帰って謹慎したらどうかと勧められた。藩内に俗論党(幕府派)が台頭したからこの発言があったようだが、実美は拒絶した

藩内で再び尊攘派が勢力を持つと、「京都へのぼり天皇を奪う」ために
1864年7月長州軍は大挙して都に乱入した。実美も同行したが、長州軍は薩摩・会津藩に敗れ敗走
〈禁門の変〉

この敗北により、長州では再び俗論党が政権を掌握。実美はまたもや邪魔者となり、1865年大宰府延寿王院に幽閉された
〈いいように長州藩の政争の具とされた〉

■帰洛できたのは、王政復古の大号令がでた後。都落ちから4年以上の歳月が経過していた

京都に着した日、実美はただちに新政府の議定となり、翌月副総裁に就任した。明治4年太政大臣になった。これは後の総理大臣以上の地位で、この国家最高の職に14年間在職した。
この抜擢は実美の家格とこれまでの経歴が考慮されたのであり、政治的手腕が買われたわけではなかった。実際の権力は、薩摩藩・長州藩の有士が掌握しており、実美に期待されたのは、明治新政府のお飾り、すなわち御輿としての役割であった

藤原氏【三条実美・免職、外出、面会禁止処分、長州藩警備はお役御免】

2021-10-08 14:56:22 | 日記
■1863年は尊攘運動が頂点に達したかと思ったら、にわかに崩落した年

志士たちは、
★攘夷に異を唱える人物を「天誅」と称して次々と殺害

★言論封殺

★上洛した将軍家茂に
「同年5月10日をもって攘夷決行の日とする」と言わしめた

★情けないことに将軍が、天皇の攘夷祈願のための賀茂神社行幸に随伴

★朝廷は10万石以上の大名に対し、1万石に1名の兵士を差し出すことを命じた
兵は1200名に達し、その総帥に三条実美が任命された

将軍が天皇に随伴することも
朝廷が直属軍に大名を持つことも
数年前には考えられなかった

■「幕府の権威は完全に失墜した。今まさに倒幕の時である」
そう勘違いした志士らは、諸大名に檄を飛ばし「幕府を倒す」無謀な挙兵計画を立てた
もはや尊攘派の暴走は誰にも止められない、、かのように見えた、、が
実はこの時、彼ら志士らを排除する公武合体派のクーデター計画が朝廷内で密かに進行していた

■1863年8月18日未明
クーデターは断行された
公武合体派は会津・薩摩藩兵を宮中に引き入れ、朝議を開いた

同日、朝廷は
「★攘夷決行は時期尚早ゆえに延期
★長州藩に従って、帝に容易ならざらぬ企てを迫った三条中納言(実美)らは免職、外出、面会禁止処分
★長州藩の宮門警備はお役御免」
と発表した




藤原氏【三条実美・はじめて江戸城内で将軍を下座にさせた】

2021-10-08 14:10:41 | 日記
1862年10月、朝廷は、幕府に攘夷の実行を迫るため、その勅使として三条実美を指名
実美は土佐藩士五百名
長州藩士百名、の護衛とともに江戸へ下向した

これまで勅使は江戸城登城のおりには、途中で輿を降りぬばならず、城内では将軍が上座、勅使が下座だった
この措置を実美は改めさせ、11月27日の江戸城登城の日、勅使一行は諸門をすべて通過し、玄関に輿を横付けした。将軍家茂は直々に外口まで勅使を迎え、屋敷に招き入れて実美を上座にすえた

実美は将軍に勅書をわたし、早急に攘夷決行の日を定めて諸大名に布告することを要求
家茂は、近々上洛して攘夷決行の日取りを言上すると確約した。将軍の上洛は二百数十年ぶりのことである

京都で実美は、朝威を高めた英雄となった。以後朝廷では、尊攘派が朝議を左右するようになった