■使節団メンバーは内政改善を最優先に考えており、征韓論には大反対だった
西郷隆盛と大久保利通の間で激論が展開された。大久保は事前に三条実美を口説き落とし、西郷の上奏(天皇に意見を申し上げる)を許可せぬ約束を取り付けていた
が、、西郷が
「朝鮮への遣使が実行されないなら、自分は辞職し、死んで朋友に謝罪する」
と、切り札を出して実美につめよったので、結論は翌日に持ち越されたが、翌日も収拾がつかず、
最後は実美と岩倉の判断に委ねられることになった
■三条は、陸軍大将の西郷が辞めたら、彼を信奉する近衛兵が黙っていない。それを危惧した三条は大久保との約束を破って西郷の遣使を決定した。翌日、大久は激怒して辞表を叩きつけ、木戸、大隈らもこれに続いた
■翌日、閣議が召集された。朝鮮大使の上奏手続きを行うためである。ところがこの日、岩倉が病と称して欠席し後に辞職を告げた
実美は窮地に追い込まれた
「明日まで待ってくれ。もし明日岩倉が出席しなければ、私の判断で必ず上奏するから」と周囲に泣きついた
憐れに思った西郷は申し出を了解した
■その日、実美は岩倉のもとを訪れ、必死の説得を試みたが、岩倉は強く遣使に反対し、ついに自説を曲げなかった
実美は今度は西郷を自宅に呼び寄せて岩倉の意思を告げるが、西郷も頑として譲らなかった
実美は最大の窮境にたった
■翌日未明、実美は
にわかに精神に異常をきたした。極度のストレスから来たパニック障害である。病状は翌日快復に向かっていたが、しばらく政務に復帰するのは無理だと判断され、岩倉具視が太政大臣代理に任命された
■征韓論争は、西郷が岩倉具視に激しく上奏を迫ったのに対し「俺と三条殿との考えは違う」と一言冷たく突き放したことで西郷の敗北はあっさり決定した
明治6年
■明治10年、西南戦争勃発。西郷隆盛は敗死する
■明治18年、内閣制が開始されたことで、実美は太政大臣を引退
明治24年急病にかかり、亡くなった。享年55歳