藤原仲麻呂は驚いた
これまで兄妹のように親しくしていた孝謙太上天皇が、いまや仲麻呂の敵になってしまった
■怒りに燃える孝謙は、つづいて
★仲麻呂と親しかった少僧都(僧・尼を統率する役)・慈訓を追い出し、代わって道鏡を少僧都とした
★翌年、仲麻呂の支配下にあった
造東大寺司の長官に、仲麻呂のために左遷されていた吉備真備を就任させた
造東大寺司は、大量の器材・人員をかかえる。事があると巨大な軍隊に変われる役職である。孝謙はいざというときを想定して先手を打ったのだ
■仲麻呂は
★人事で、衛府の兵を掌握
★愛発の関、不破の関を手に入れ
戦闘準備をはじめた
★孝謙を支持する反仲麻呂派
大伴家持、佐伯今毛人、石上宅嗣
3人は都から遠ざけて、九州に追いやった
↓同族をも敵にまわしていた仲麻呂
【仲麻呂の専横に有力貴族たちは反発し、藤原式家次男・宿奈麻呂がその中心人物になっており、彼は
石上、佐伯、大伴らと計って仲麻呂暗殺計画を練っていたところ密告され、謀反前に四人が逮捕されたことがある。中心の宿奈麻呂は
「俺一人で計画した。他の連中は関係ない」とがんばり通した
仲麻呂としても同族を潰す訳にもいかず、官位と姓の剥奪だけで事を穏便にすませざるをえなかった】
■仲麻呂は軍事の強化をねらって
兵事使という官に就任
任務は四畿、三関、丹波、播磨の国の兵を、国ごとに20人ずつ集め5日間ずつ訓練すること
ところが仲麻呂は通常20人を600人ずつ集めるよう、太政官に命じた
これはあきらかに非常手段の武力をもって、孝謙の権力を奪い返す準備だった
命令された太政官は9月11日
孝謙太上天皇に密告した
■孝謙はただちに少納言・山村王に
「淳仁天皇のいる中宮院に行き
駅鈴と天皇御靈を回収せよ」と命じた。
駅鈴と天皇御靈は天皇のシンボルである。これがなければ何一つ宣命は下せない。いわば宣戦布告である
■仲麻呂邸へは、勅使が派遣され
「逆賊仲麻呂親子から官位、俸給の一切を剥奪する。藤原姓を名のってはならぬ」という勅命が宣言された
逆賊となった仲麻呂は、一部郎党を引き連れて邸を脱出。自分の勢力内である近江の保良へと急いだが
孝謙側は反仲麻呂の諸貴族を動員して、これを追いかけた
■勢多の長橋についた仲麻呂らは、すでに孝謙側の手により橋が焼かれているのを見て、琵琶湖西岸を北進し息子が国守をしている越前へ向かったが、息子はすでに殺され、愛発関も奪われていた
万事休す
■仲麻呂は、妻子数十人と湖上に船をくりだし、そこでついに斬殺された。享年58歳。9月19日のことだった。郎党三十余人もみな湖畔で処刑された。これが【恵美押勝の乱】
である
■翌日から論功行賞があった
仲麻呂によって左遷されていた藤原豊成が右大臣として復帰
道鏡は大臣禅師として政界へ登場した。そして孝謙は淳仁天皇を廃して淡路島に流し、みずから復位して称徳天皇となった
以後七年間朝廷は称徳女帝と道鏡との政治がつづくのである