るるの日記

なんでも書きます

魔族・藤原氏【平城天皇、またもや怨霊にとり憑かれ皇位を弟に譲る】藤原兄妹がっかり

2021-10-05 16:05:40 | 日記
平城天皇は、早良親王の怨霊への恐怖感からひどいノイローゼになったほど、気の小さな迷信家だったから伊予親王の死についても平静でいられるわけはなかった
事件の翌年808年暮れ頃からまたしてもひどい不眠不食の状態となり、たえず何かにおびえ、動悸が高まった。当時の言葉で「風病」といわれた神経系の疾患で、今でいう躁鬱病のようなものである

またしても早良親王母子の祟りと思い合わせた平城天皇は、ついにこの恐怖にたえかねて、翌年突然皇太弟・神野親王へ譲位。神野親王は何度も固辞したが聞き入れられなかったので4月13日即位の式をあげ嵯峨天皇となる。そして平城へのせめてもの配慮として、平城の皇子を皇太子にたてた

平城を唯一の出世の頼みとしていた薬子と仲成は、大反対だったが、物の怪にとり憑かれてヒステリック状態の平城をどうなだめるすべもなかった


魔族・藤原氏【兄から弟への皇位継承はしのぎを削る藤原諸流の陰謀に狙われる】

2021-10-05 15:44:24 | 日記
薬子の権勢を、立身出世に利用したのが、兄の藤原仲成だ。彼は父種継が暗殺されたため、たいへん出世が遅れていて焦らずにはいられなかった

■807年、事件が起きた
平城天皇の異母弟の伊予親王が
謀反の疑いをかけられ、平城天皇の命令で生母の藤原吉子とともに捕らえられ、大和の川原寺に幽閉された
飲食まで止められた母子は毒を飲んで自殺した

下級公家の密告に端を発したこの事件の真相は不明で、愚かにも平城天皇は、早良親王事件の二の舞を踏んだ
この事件といい、桓武のときの早良親王事件といい、どちらも天皇が弟親王を謀反容疑というだけで殺してしまっている

■この頃は皇位の継承は嫡子へではなく、兄から弟へ継承されていたので、他の弟親王たちも条件さえ揃えば皇位継承者になる権利があった。これら多くの親王に、娘を送りだしている藤原氏諸流が、勢力拡大のためにしのぎを削っていたので、天皇の座はたえず不安定で、いやでも天皇は疑い深く神経質となり、真相不明のうちに容疑者を抹殺する疑獄事件はいつまた起こってもおかしくなかった

■事件の結果
吉子を出した藤原南家の大納言・
雄友(かつとも)と、中納言・乙叡が失脚し、逆に薬子と仲成兄妹が
平城天皇との連携を強め権勢を伸ばしたから、この兄妹の陰謀だろう
が、その確証はない。この事件をさかいに薬子・仲成兄妹と平城天皇の密接ぶりが露骨すぎたので、朝廷内外の人々はこの兄妹をひどく嫌う、と同時におそれていた



魔族・藤原氏【藤原種継娘・薬子の妖艶な色魔】

2021-10-05 15:01:52 | 日記
安殿皇太子(平城天皇)が薬子と初めて出会ったのは、皇太子妃〈帯子〉が病死した794年以後のことで、安殿25歳頃である

桓武天皇の側近・藤原種継の娘である薬子は、そのとき藤原式家の縄主に嫁いで三男二女の母であった。薬子の長女が安殿の後宮へ入ったのがきっかけで、薬子は東宮の女官として出仕することになった。薬子32、3歳

安殿は、妃を喪ったとはいえ多数の女性がはべっていた。そんな中
30を過ぎた5人の子持ちの薬子が安殿の目にとまり、その寵愛を一身に集めたのだから、、もちろん美人でしかもきわだつ魅力を備えていなくてはならない。それはそれは妖艶な魅力でなければならない。いや、そうであってほしい

桓武天皇は彼女のその妖の部分に何か不吉で嫌なものを直観し、薬子を追放した

桓武天皇が崩御して、安殿が即位するやすぐさま薬子を宮中によび戻し、以前よりはるか上級の【尚侍】に就けた。平城天皇は即位したのが33歳だったから薬子は40歳を過ぎていて、なおこれほど平城を魅きつけていたのだからその容色は想像を絶したものであったはず

尚侍というのは女官を統括する長であり、一方で臣下からの奏上を取りつぎ、勅語を伝宣する職掌であったから、その権勢は推して知るべし。官人の首のすげかえまで思うがままだった。そして薬子は皇后になったつもりでいた





魔族・藤原氏【平城天皇の神経衰弱】

2021-10-05 14:30:35 | 日記
なぜか平城天皇は、父である桓武天皇にことごとく反発的な態度をとった。政治面はもちろんだが、不可解な反発として、桓武天皇が「続日本紀」から削除させた〈藤原種継暗殺事件〉の記事を復活させたことである

【藤原種継暗殺事件】
これは、桓武天皇の絶大な信任を受けていた中納言・藤原種継(仲成・薬子の父)が、長岡遷都の計画を天皇に認められ、その工事監督中に暗殺された事件である
首謀者は、種継の政敵で、桓武の弟・早良親王ということになり、寵臣種継を失った桓武は激怒し、早良を乙訓寺に監禁した。そして淡路島へ流刑中、早良は十日間食を断ち、淀川下流の山崎で絶命した

その後、この早良がひどく祟るというので、桓武は崇道天皇の尊号を贈ったりしたが、早良の怨霊は新皇太子になった安殿親王(平城)に憑き、安殿はひどい不眠症と神経衰弱に陥ってしまった
そこで桓武は早良の遺骸を埋めた淡路に寺を建て、この事件に関係して罪を得た人を赦すことで、ようやく怨霊は収まった

なぜ平城は、父桓武が
朝廷の記録として不適切だと
「続日本紀」から削除したこの記事を復活させたのだろう?
平城の後継ぎの嵯峨天皇が再びこれを削除している程だから、それ相当の理由がなくてはならない

思いあたるのは、平城の皇太子時代に、東宮御所の高級女官となった
藤原薬子と平城が深い関係を結んだのを、桓武がたいそうこの情事を嫌って、薬子を東宮から退けたことである。

平城は即位直後に、その薬子をさっそく宮中によび、いっそうの高位を与え寵愛したのをみると、平城の薬子への執心は普通ではなく、それだけに父桓武を恨んでいたのではなかろうか

魔族・藤原氏【藤原仲麻呂破滅】孝謙強し

2021-10-05 13:48:48 | 日記
藤原仲麻呂は驚いた
これまで兄妹のように親しくしていた孝謙太上天皇が、いまや仲麻呂の敵になってしまった

■怒りに燃える孝謙は、つづいて
★仲麻呂と親しかった少僧都(僧・尼を統率する役)・慈訓を追い出し、代わって道鏡を少僧都とした

★翌年、仲麻呂の支配下にあった
造東大寺司の長官に、仲麻呂のために左遷されていた吉備真備を就任させた
造東大寺司は、大量の器材・人員をかかえる。事があると巨大な軍隊に変われる役職である。孝謙はいざというときを想定して先手を打ったのだ

■仲麻呂は
★人事で、衛府の兵を掌握
★愛発の関、不破の関を手に入れ
戦闘準備をはじめた
★孝謙を支持する反仲麻呂派
大伴家持、佐伯今毛人、石上宅嗣
3人は都から遠ざけて、九州に追いやった
↓同族をも敵にまわしていた仲麻呂
【仲麻呂の専横に有力貴族たちは反発し、藤原式家次男・宿奈麻呂がその中心人物になっており、彼は
石上、佐伯、大伴らと計って仲麻呂暗殺計画を練っていたところ密告され、謀反前に四人が逮捕されたことがある。中心の宿奈麻呂は
「俺一人で計画した。他の連中は関係ない」とがんばり通した
仲麻呂としても同族を潰す訳にもいかず、官位と姓の剥奪だけで事を穏便にすませざるをえなかった】

■仲麻呂は軍事の強化をねらって
兵事使という官に就任
任務は四畿、三関、丹波、播磨の国の兵を、国ごとに20人ずつ集め5日間ずつ訓練すること
ところが仲麻呂は通常20人を600人ずつ集めるよう、太政官に命じた
これはあきらかに非常手段の武力をもって、孝謙の権力を奪い返す準備だった
命令された太政官は9月11日
孝謙太上天皇に密告した

■孝謙はただちに少納言・山村王に
「淳仁天皇のいる中宮院に行き
駅鈴と天皇御靈を回収せよ」と命じた。
駅鈴と天皇御靈は天皇のシンボルである。これがなければ何一つ宣命は下せない。いわば宣戦布告である

■仲麻呂邸へは、勅使が派遣され
「逆賊仲麻呂親子から官位、俸給の一切を剥奪する。藤原姓を名のってはならぬ」という勅命が宣言された

逆賊となった仲麻呂は、一部郎党を引き連れて邸を脱出。自分の勢力内である近江の保良へと急いだが
孝謙側は反仲麻呂の諸貴族を動員して、これを追いかけた

■勢多の長橋についた仲麻呂らは、すでに孝謙側の手により橋が焼かれているのを見て、琵琶湖西岸を北進し息子が国守をしている越前へ向かったが、息子はすでに殺され、愛発関も奪われていた
万事休す

■仲麻呂は、妻子数十人と湖上に船をくりだし、そこでついに斬殺された。享年58歳。9月19日のことだった。郎党三十余人もみな湖畔で処刑された。これが【恵美押勝の乱】
である

■翌日から論功行賞があった
仲麻呂によって左遷されていた藤原豊成が右大臣として復帰

道鏡は大臣禅師として政界へ登場した。そして孝謙は淳仁天皇を廃して淡路島に流し、みずから復位して称徳天皇となった
以後七年間朝廷は称徳女帝と道鏡との政治がつづくのである