藤原氏という一つの家系が
なぜ、日本の政界を長期にわたって動かすことができたのか?
藤原氏以外の貴族はただ黙って見ているだけだったのか?
日本政治の伝統といえば、天皇を思いうかべるが、実際の政治は長期にわたって藤原氏によって担われたのである
藤原不比等が基礎を築き奈良時代の政争を勝ち抜いた藤原氏だが、7世紀後半に鎌足から始まった新興貴族にすぎず、足をひっぱろうとする貴族が多かった
この藤原一族はなぜか優秀な人物を次々に輩出し、敵対する貴族を滅亡に追い込んでいった
当然このような藤原一族の権力の強化を快く思わない勢力もいた
特に皇族は、天皇をないがしろにして政治を運営されることに根強い反感を持っていたし、その皇族に同調する貴族たちもたくさんいた
こうした雰囲気をもとにして成立するのが10世紀はじめの源高明による政治である
源高明は醍醐天皇の皇子
臣籍降下した後左大臣となる
なにしろ血筋は抜群で、人格識見ともにすぐれ、人望もあつかった
まわりに多くの人材が集まり
醍醐天皇、村上天皇を支えた
古代の律令政治とおぼしき政治が実行された
しかし、藤原氏のつけこむ隙はあった。突如源高明を大宰府に左遷し京都朝廷から追い出した。犯罪を犯したわけではないから、典型的な左遷である。三年後に京都に帰るものの朝廷には居場所はなく、失意のうちに生涯を終えた
この左遷は、藤原氏の意を含んだ、源満仲の密告によるものだった
事件のとき
藤原兼家は41歳
藤原兼家が左遷劇に関係していた
以後藤原氏は摂政関白を世襲に近い形で一族に伝え、藤原氏の摂関政治が出現する
この左遷劇より前
960年9月
内裏が炎上した
内裏は天皇の私的住居
平安京遷都以来奇跡的に命運を保っていた。当時の邸宅は耐用年数がくるまでに失火によって焼失する
内裏は二百年近く失火にみまわれなかったが、この年焼失した
このことは、天皇を中心とする政治がまさに転換の時期、つまり天皇中心の律令政治の衰退を示しているようで興味深い
天皇中心とする政治形態は大化の改新から三百年続いたわけで、日本の古代はこの律令体制によって前進した。それほど定着していた律令体制ではあったものの、10世紀に至り制度疲労を起こし変質を余儀なくされた
その政治上の一つの結果が源高明左遷劇であり、時代の変わり目であることを象徴する事件が内裏炎上である