るるの日記

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魔族・藤原氏【天皇政治と藤原氏政治の違い→先見性があるかないか】未来予知能力

2021-10-03 16:23:47 | 日記
藤原氏という一つの家系が
なぜ、日本の政界を長期にわたって動かすことができたのか?
藤原氏以外の貴族はただ黙って見ているだけだったのか?
日本政治の伝統といえば、天皇を思いうかべるが、実際の政治は長期にわたって藤原氏によって担われたのである

藤原不比等が基礎を築き奈良時代の政争を勝ち抜いた藤原氏だが、7世紀後半に鎌足から始まった新興貴族にすぎず、足をひっぱろうとする貴族が多かった
この藤原一族はなぜか優秀な人物を次々に輩出し、敵対する貴族を滅亡に追い込んでいった

当然このような藤原一族の権力の強化を快く思わない勢力もいた
特に皇族は、天皇をないがしろにして政治を運営されることに根強い反感を持っていたし、その皇族に同調する貴族たちもたくさんいた

こうした雰囲気をもとにして成立するのが10世紀はじめの源高明による政治である
源高明は醍醐天皇の皇子
臣籍降下した後左大臣となる
なにしろ血筋は抜群で、人格識見ともにすぐれ、人望もあつかった
まわりに多くの人材が集まり
醍醐天皇、村上天皇を支えた
古代の律令政治とおぼしき政治が実行された

しかし、藤原氏のつけこむ隙はあった。突如源高明を大宰府に左遷し京都朝廷から追い出した。犯罪を犯したわけではないから、典型的な左遷である。三年後に京都に帰るものの朝廷には居場所はなく、失意のうちに生涯を終えた

この左遷は、藤原氏の意を含んだ、源満仲の密告によるものだった
事件のとき
藤原兼家は41歳
藤原兼家が左遷劇に関係していた
以後藤原氏は摂政関白を世襲に近い形で一族に伝え、藤原氏の摂関政治が出現する

この左遷劇より前
960年9月
内裏が炎上した
内裏は天皇の私的住居
平安京遷都以来奇跡的に命運を保っていた。当時の邸宅は耐用年数がくるまでに失火によって焼失する
内裏は二百年近く失火にみまわれなかったが、この年焼失した
このことは、天皇を中心とする政治がまさに転換の時期、つまり天皇中心の律令政治の衰退を示しているようで興味深い

天皇中心とする政治形態は大化の改新から三百年続いたわけで、日本の古代はこの律令体制によって前進した。それほど定着していた律令体制ではあったものの、10世紀に至り制度疲労を起こし変質を余儀なくされた
その政治上の一つの結果が源高明左遷劇であり、時代の変わり目であることを象徴する事件が内裏炎上である

魔族・藤原氏【藤原魔族が道真怨霊に負けた】怨霊になる程に怒りを執着させる?そこまでのことをされたのか?拘りは強めな菅原道真

2021-10-03 15:16:37 | 日記
大宰府での菅原道真は、悶々と日を過ごした。そして903年2月25日
配所で没した。59歳だった

世間はその死を悼んで同情した
道真は帝を恨みつつ死んだと噂され
藤原時平もこの凶報にようやく後悔しはじめた。この頃から道真の怨霊が暗雲となって宮廷の上に覆いかぶさってきた

平安京に天候異変が生じた。日照りが続き、かと思うと大雨や雷がしばしば襲ってきた。稲妻や閃光がきらめいて、御所の中の人々はその都度右往左往した。この異変が道真に結びつけられた

「陰険な企みによって西国へ追いやられた菅公の呪いにちがいない。菅公の怨霊が雷となって都へ戻り祟りをなしているのだ」

あるとき、例によって雷鳴がとどろき稲妻が光って、いまにも御所の清涼殿に雷が落ちそうに見えた
たまたま居合わせた藤原時平は、すさまじい形相で太刀を引抜き
「御身は存命中も私の次位におられた。いまたとえ雷神となっても、この世では私に対して遠慮すべきではないか」
と大音声をあげて空を睨み付けた。そのときは雷神も時平の剣幕に屈して退散した

しかし時平はそれ以来ノイローゼになってしまった。高僧を招いて加持祈祷をさせたが効果はなく、ついに909年4月4日、39歳の若さで悶死した。人々は菅公の祟りだと噂した

朝廷は菅原道真を本官に復し、配流の詔勅を破棄して、これをなだめようとしたが、その後も怨霊の祟りはおさまらなかった
皇太子保明親王(時平妹の子)が若死し
次に立太子した慶頼王(時平娘の子)も5歳で死に
その母も死んだ

930年6月、清涼殿に雷が落ちて
道真左遷を謀った大納言藤原清貫が即死
醍醐天皇は恐怖のあまりついに発病
位を寛明親王(朱雀天皇)に譲ってこの年の9月に崩御

道真の怨霊は時平の子孫を取り殺しつつ、醍醐政治の最後まで荒れつづけたのである

魔族・藤原氏【藤原時平・菅原道真を失脚させたことで今も悪人のイメージだが同情の余地はある】

2021-10-03 14:24:14 | 日記
藤原時平という人

★時平主宰のもと、延喜式が編纂され延喜格十二巻が完成した

★「日本三代実録」「古今和歌集」の編纂に参画

★大寒の夜、諸国の民はどんなに寒かろうかと衣服を脱いで投げ出した

★自分からうちとけた様子を示せば、人々が接しやすいだろうと、いつも笑顔をたやさなかった

★朝廷では華美を禁じたが、公卿たちの贅沢癖は治らなかったので、天皇と時平は示し合わせた上で時平ははわざと華美な姿で宮中に参内し、わざと天皇に厳しく怒られ謹慎した
周囲には「左大臣でさえ禁をおかしせば、かくもきつく怒られるんだ」と人々は脅え、それ以後は贅沢な風は止んだ

★何か可笑しいことがあって笑い出すと、とまらなくなる

■時平という人間の一風変わった面白みを感じるが、それでも政略家のイメージがぬぐえない。それもこれも、菅原道真を失脚させたという陰謀が時平に決定的ダメージとなっている
時平にも同情の余地がないではないが、道真の左遷は天下を震撼させ、人々の不評を買う、そんな人物であるのも真実なのである



魔族・藤原氏【宇多天皇の人事ミスで藤原時平は菅原道真に嫉妬し、菅原道真はは失脚】非適材適所

2021-10-03 13:53:40 | 日記
■宇多天皇は上皇となって仁和寺に入り、醍醐天皇の世となった

899年、上皇は
藤原時平に左大臣
菅原道真に右大臣
に任じて醍醐天皇の補佐を頼んだ
菅原氏という文章道家が政治の表舞台に躍り出て右大臣になったことは前例がなかった
道真も三度辞退したが、上皇は辞退を許さなかった

【何事か起こらずにはすみそうにない雲行き、、、】

■901年、突如道真を大宰権帥(だざいのごんそつ)に左遷する天皇の命令が下った

〈処罰の理由〉
「寒門より出て大臣になった道真は、その分をわきまえず、我が儘な振る舞いは目に余るものがある
上皇にへつらい、あさむき、女婿の斉世親王(宇多天皇第3皇子)を天皇にしようと画策している」

道真失脚の報に驚いた上皇は、すぐさま皇居にかけつけ、天皇に処罰撤回を要請しようとしたが、時平は上皇の政治介入を拒否し天皇に会わせなかった

■この道真左遷による失脚は、時平の反感が強くはたらいている
しかし時平の感情はもっと複雑だった。左右大臣として並列していても、宇多天皇の心はいつも道真に向けられ、敦仁親王立太子のときも、道真一人が宇多天皇の論定にあずかって時平は無視された
それに27歳年長の道真には学・徳ともに及ばないことに負い目を感じていた

■そんな中、廃立問題(臣下が勝手に天皇をやめさせる問題)で醍醐天皇の怒りが道真に向けられた

斉世親王(宇多天皇第3皇子)は阿衡事件のもととなった橘広相(宇多天皇側近)の娘を母とし、道真の娘を妃としている
道真にそのような野望があったかは不明だが、時平にとって醍醐天皇の怒りを煽り、道真失脚へもっていく絶好の機会となった

■道真は宇多上皇に無実を訴えて
和解一首を献じた
「流れゆく、われはみくずに、なりぬとも、君しがらみと、なりてとどめよ」
配所へ流されていく我が身を水のゴミにたとえ、上皇に柵(しがらみ)となって引き留めください、との哀しい訴えだったが、いまの上皇にはもう道真を救う力はなかった

ということは、醍醐天皇は父から自立する決意を固め、時平との提携を強めたことを意味する
醍醐天皇は父と異なって藤原一門との関係が深い



魔族・藤原氏【宇多天皇の非藤原氏運動→藤原氏の菅原道真への妬み→天皇は安定のために藤原一族藤原胤子との子に譲位】

2021-10-03 13:03:28 | 日記
■菅原道真に対する宇多天皇の信頼は高まった。しかしその分だけ、道真は藤原氏から敵視される立場になっていった

■菅原氏はもと喪葬に関与した家職だったが、じょじょに学問の家筋に移行して、道真のときその頂点に達した
道真は藤原氏権勢欲のすざまじさに対抗するには、個人の実力、すなわち学問によって藤原一門に頭を下げさせる他ないと決意して猛勉強した男だ
まじめ人間によくあるタイプで、やや狭量でつきあい下手。宴会嫌い、酔っ払い嫌い。孤立して学者仲間の反感を買うことも多かった

■891年、藤原基経の死によって、宇多天皇自ら行う政治が復活し、非藤原氏の官僚を重用し、中流以下の貴族らに才能を発揮する場を与えた

菅原道真もこの方針に基づき
蔵人頭に任じられた
この職は代々藤原氏や源氏が任じられるのが通例で、道真ははじめ辞退した、、が許されず
敦仁親王(醍醐天皇)が皇太子になると、道真はめざましく官位を進め
897年には権大納言近衛大将となる
だが、、この信任の厚さは藤原氏を刺激せずにはおかなかった

■もちろん天皇も藤原氏を無視したわけではない。藤原基経の嫡子時平も大納言兼左近衛大将となって、道真と時平を二本柱とする朝廷体制が確立された

■時平がようやく摂関家の誇りをひけらかし傲慢になってくると、宇多天皇は、藤原一族から入っている藤原胤子との間にできた敦仁親王に早く譲位した方がすべての安定につながるのではないかと考えるようになった
道真はこれに反対した
このことがやがて宮廷内で噂になった

897年7月
宇多天皇は敦仁親王に譲位した
ここに醍醐天皇(13歳)が即位する