■ライバルの源氏を抑え、平家の時代を築いたのは、皮肉にも傍系貴族の【藤原信西】と【藤原信頼】の確執からである
か
1156年に起こった【保元の乱】以来、後白河天皇の寵臣として両者は大いに権勢をふるっていた。しかし、藤原信頼に出世欲が強すぎたことなどから、両者の亀裂は次第に深まっていった
■藤原信頼
藤原信頼は、藤原忠隆の三男
藤原道長の兄の道隆の子孫
藤原家の主流は弟・道長に伝わり
以後その子孫が継いできた
そのため信頼の藤原家は、傍系の立場に甘んじるしかなかった
この一因は、道隆の子・隆家が、
花山法皇を射て流罪にされたことにある。それ以降、道隆の子孫は摂関家の傍系として落ちぶれ貴族を余儀なくされた
そうした宿命を背負わされた信頼であったが、後白河天皇には大層気に入られ、次々と昇進した。このような昇進は本来ならば主流の摂関家などでなければ考えられない。これは後白河天皇の権力が強くなったのに対して、摂関家の権威が衰えてきたということだ
後白河天皇のワンマン体制が敷かれると、その力を利用して傍系貴族が主流を押し退けて政治の舞台へ躍り出て来た
■藤原信西
本名は藤原通憲
信西は仏門での号である
信頼の25歳以上年長
藤原家傍流だが多くの学者を出した南家・武智麻呂系統で、信西も若くして能力を発揮していた
妻は後白河天皇の乳母
1155年、後白河天皇が即位すると、信西はにわかに重用され政治の表舞台に飛び出した。保元の乱後は権勢は増して、政治を左右するほど大きな存在となる
■同じ寵臣でも、信西は確固たる実績を残しているが、信頼は無才無能であった
信西は自らの成功を鼻にかけるようなことはなく、自分の能力が発揮できれば、それで満足するタイプ。野心もない。ただ子どもたちのいく末は案じていた。それが台頭してきた源平の武士に色気を見せるきっかけとなった
信西の気持ちは平清盛に傾いていた。清盛は喜んだ。さっそく清盛は16歳になる娘を信西の息子へ嫁がせ縁戚関係を結んだ
■これに苛立ったのは、源義朝。もともと関東にいた諸平氏は源氏の家人。そんな平家などに負けたくないという気持ちが強い
義朝も政界第一の信西と縁戚関係を結んでおきたいと考え、信西の三男に自分の娘を嫁がせようと申しこんだところ、信西は断って来た
これに義朝は堪忍袋の緒が切れた。怒りは恨みに変わっていった
■無才無能の信頼は、主流でさえ簡単には許されないような出世を繰り返しながら、いっこうに出世欲はおさまらなかった
後白河天皇が二条天皇に位を譲り院政を開始すると、今度は信頼は後白河上皇に、大臣の官位が欲しいと願い出て来た。後白河上皇は信西に相談。信西は昇進に反対した。信西にとって信頼はとるに足らない存在。恨みなどない。それよりも官職の安売りをする後白河上皇に、忠告をする意味も含めた意見だった
■信西は後白河上皇の器には懐疑的だった。『玉葉』の中で上皇について「比類少なき暗主なり」と言っている「謀反の臣かたわらにいるも、一切覚悟の御心なし」という情けない状態だったからである
謀反の臣とは信頼
彼をのさばらせることは、けっして上皇のプラスにはならない。ますます暗主になる、、ということが、謀反なのである
信頼の願いは聞き届けられずに終わった。これを知った信頼は面白くない。反対した信西はもちろん、その言葉を聞き入れた上皇に対しても憎悪を抱くようになった
この信頼の憎悪が平治の乱を引き起こす起爆剤となったのだ
つづく、、