るるの日記

なんでも書きます

魔族・藤原氏【小悪魔?甘え上手な藤原信頼👿】

2021-10-06 17:22:54 | 日記
■ライバルの源氏を抑え、平家の時代を築いたのは、皮肉にも傍系貴族の【藤原信西】と【藤原信頼】の確執からである

1156年に起こった【保元の乱】以来、後白河天皇の寵臣として両者は大いに権勢をふるっていた。しかし、藤原信頼に出世欲が強すぎたことなどから、両者の亀裂は次第に深まっていった

■藤原信頼
藤原信頼は、藤原忠隆の三男
藤原道長の兄の道隆の子孫
藤原家の主流は弟・道長に伝わり
以後その子孫が継いできた
そのため信頼の藤原家は、傍系の立場に甘んじるしかなかった

この一因は、道隆の子・隆家が、
花山法皇を射て流罪にされたことにある。それ以降、道隆の子孫は摂関家の傍系として落ちぶれ貴族を余儀なくされた

そうした宿命を背負わされた信頼であったが、後白河天皇には大層気に入られ、次々と昇進した。このような昇進は本来ならば主流の摂関家などでなければ考えられない。これは後白河天皇の権力が強くなったのに対して、摂関家の権威が衰えてきたということだ

後白河天皇のワンマン体制が敷かれると、その力を利用して傍系貴族が主流を押し退けて政治の舞台へ躍り出て来た

■藤原信西
本名は藤原通憲
信西は仏門での号である
信頼の25歳以上年長
藤原家傍流だが多くの学者を出した南家・武智麻呂系統で、信西も若くして能力を発揮していた
妻は後白河天皇の乳母
1155年、後白河天皇が即位すると、信西はにわかに重用され政治の表舞台に飛び出した。保元の乱後は権勢は増して、政治を左右するほど大きな存在となる

■同じ寵臣でも、信西は確固たる実績を残しているが、信頼は無才無能であった
信西は自らの成功を鼻にかけるようなことはなく、自分の能力が発揮できれば、それで満足するタイプ。野心もない。ただ子どもたちのいく末は案じていた。それが台頭してきた源平の武士に色気を見せるきっかけとなった
信西の気持ちは平清盛に傾いていた。清盛は喜んだ。さっそく清盛は16歳になる娘を信西の息子へ嫁がせ縁戚関係を結んだ

■これに苛立ったのは、源義朝。もともと関東にいた諸平氏は源氏の家人。そんな平家などに負けたくないという気持ちが強い
義朝も政界第一の信西と縁戚関係を結んでおきたいと考え、信西の三男に自分の娘を嫁がせようと申しこんだところ、信西は断って来た
これに義朝は堪忍袋の緒が切れた。怒りは恨みに変わっていった

■無才無能の信頼は、主流でさえ簡単には許されないような出世を繰り返しながら、いっこうに出世欲はおさまらなかった
後白河天皇が二条天皇に位を譲り院政を開始すると、今度は信頼は後白河上皇に、大臣の官位が欲しいと願い出て来た。後白河上皇は信西に相談。信西は昇進に反対した。信西にとって信頼はとるに足らない存在。恨みなどない。それよりも官職の安売りをする後白河上皇に、忠告をする意味も含めた意見だった

■信西は後白河上皇の器には懐疑的だった。『玉葉』の中で上皇について「比類少なき暗主なり」と言っている「謀反の臣かたわらにいるも、一切覚悟の御心なし」という情けない状態だったからである

謀反の臣とは信頼
彼をのさばらせることは、けっして上皇のプラスにはならない。ますます暗主になる、、ということが、謀反なのである

信頼の願いは聞き届けられずに終わった。これを知った信頼は面白くない。反対した信西はもちろん、その言葉を聞き入れた上皇に対しても憎悪を抱くようになった
この信頼の憎悪が平治の乱を引き起こす起爆剤となったのだ

つづく、、



魔族・藤原氏【藤原頼長・独特の正義感により大敗を喫す】

2021-10-06 15:34:28 | 日記
近衛天皇をめぐる藤原忠通・頼長兄弟の競争は無効に終わった
1155年7月近衛天皇が崩御したのである
崇徳院の子・重仁親王が即位する可能性が生じた。そうなれば崇徳院は院政を開くことができる

しかし鳥羽院が「叔父子」に院政を開かせることなど、あり得なかった。やがて崇徳院の弟雅仁親王が皇位についた。後白河天皇である

こうして崇徳院の希望は打ち砕かれた。鳥羽院と後白河天皇を倒す以外、崇徳院が世に出るチャンスはなくなった
天皇家も真っ二つに割れた
鳥羽院・後白河天皇と、崇徳院の対立である。この形成を見て、分断していた摂関家と源家の人々が、それぞれの側に加わった

★崇徳院方
藤原忠実・頼長父子
その家臣・源為義
平忠正

★鳥羽院・後白河天皇方
藤原忠通
源義朝
平清盛

1157年7月2時間
鳥羽院が亡くなった

7月11日
対立が激発した
【保元の乱】

■崇徳方では藤原頼長に源為義が夜討ちの計画を献策した。しかし頼長は最後まで頼長であった
頼長独特の正義感からこれを斥けたのである

結果は、後白河天皇方の、戦に練れている源義朝が、頼長方を夜襲した。しかも義朝は頼長方の籠る白河北殿に放火までしたのである。崇徳方頼長の大敗だった
流れ矢にあたった頼長は、やがて死んだ。37歳だった。


魔族・藤原氏【1000人の美女を集めてふるいにかけ1位に輝いた女性・常磐】

2021-10-06 14:59:01 | 日記
■白河・鳥羽両院政の黒い手のお蔭で
★源家は真っ二つに割れていた
為義と長男・義朝との対立である

★藤原摂関家も真っ二つに割れた
忠実(父)・頼長(次男)と
忠通(長男)の、父子・兄弟の対立である

しかし院政側の黒い手である分断政策は、天皇家まで分断してしまった

■鳥羽院の中宮・待賢門院璋子が生んだ崇徳天皇は、鳥羽院の胤ではなかった。鳥羽院の祖父・白河院の胤だったのである。これを知った鳥羽院は、崇徳を「叔父子」と呼んだ
祖父の子、父の弟だから「叔父」
自分の中宮が生んだから「子」
という意味である

当然鳥羽院は、崇徳を疎ましく感じていた。白河院の命令で崇徳を皇位につけたが、白河院が死ぬと鳥羽院は、崇徳天皇を欺いて、自分の血筋の近衛天皇に譲位させた

■やがて、忠通・頼長兄弟の間に、
近衛天皇の後宮をめぐっての競争が始まった
頼長は右大臣の娘・多子を養女にして、近衛天皇の皇后にした
忠通は太政大臣の娘・呈子を養女にして、近衛天皇の中宮とした
どちらが先に、近衛天皇の皇子を生むか、競争が始まった

■忠通は一策を案じた
美人コンテストを行って
優勝者を呈子に近侍させ
近衛天皇を呈子に惹き付けようとした。まず美女千人が選ばれ、その中から900人が落とされ
さらに残った100人の中から90人がふるい落とされ
こうして選ばれた美女10人の筆頭が、常磐だった。常磐は呈子の雑用係に取り立てられたが、かといってそれで呈子が近衛天皇の子を生むことにつながるだろうか?

意外にも常磐と源義朝とが結ばれたのである。二人の間にやがて
今若、乙若、牛若の三子が生まれることになる。そして義朝は常磐を通じて忠通側につくことになった



魔族・藤原氏【 自己流の責任感を貫くためなら殺人も辞さない藤原頼長】本末転倒

2021-10-06 14:18:33 | 日記
■過去約200年もの間、藤原摂関家は、天皇の母方で、政務の実権を掌握し続けてきた

ところが1086年11月
白河天皇が皇子・堀河天皇に譲位すると、天皇の父ということで院政をしいてから状況は一変した。白河院政からの攻撃が摂関家に加えられたのである。かなり悪どいということから【白河院の黒い手】とも呼ぶ

攻撃の一つは、幾度も出された
「荘園整理令」
書類がキチンとしていなかったことを理由に、摂関家領荘園は次々に没収され白河院領になっていった

■やがて白河院政は終わり
鳥羽院政になった
白河院政の黒い手が終わり
鳥羽院政の黒い手にが始まった

院政が得意とした黒い手の一つに
「敵方勢力に分裂を起こさせる」
手がある

★黒い手 1
源家の棟梁だった為義は36年間昇進がなかった。しかし長男義朝は、鳥羽院から目をかけられ、1153年3月従五位上の下野守に任じられた
父為義は、一段下の従五位下だった
必然的に父子の間に対立が生じた

父為義は先例のままに、摂関家の
藤原忠実に仕えた
子の義朝は、忠実の長男忠通に仕えた

黒い手 2
そして忠実と忠通も、院政の黒い手によって対立するようになっていた
長男忠通と対立した父忠実は、次男頼長(兄忠通とは23歳差がある)を偏愛した

■【1150年9月26日のこと
左大臣藤原頼長が東三條殿に到着すると、すでに源家の軍兵が守護していた。源家の歴代は藤原摂関家の用心棒を努めてきた。だから頼長の父忠実は、源家の棟梁・源為義を事前に召し出しておいたのである

頼長の兄とその一派を除いて、その他の藤原一門の主だった者たちが集まってきた。これもまた父・忠実がひそかに召し集めておいたものだった

午後二時
人々の前に忠実が現れ演説した

「いまの摂政忠通は、我が嫡男なり。されど我れに不孝あり。よって摂政を辞すべしと命ずること、すでに十度に及ぶ。されど忠通、これに従うことなし。
よって今、父子の義を絶し、忠通を勘当す
なお、摂政の職は、天子の授くるものなり。よって我れ奪うべからず。されど藤原氏の氏の長者の地位は我れが譲るところにして、勅宣にあらず
されば氏の長者の地位、忠通より奪いて、頼道に与えん。氏人たるもの、すべて頼長を一族の長者と仰ぐへわし」
背後に源家軍兵の甲冑姿があったことで、演説の説得力を強化させ、反対は無かった

頼長は一応は辞退した。兄を勘当してはならぬと、一応は父を諌めた
いずれも形式だけだった
やがて頼長は「致し方ない」という風情で氏の長者になることを承諾した

忠実が頼長を摂政にと、鳥羽院に願い出た時、鳥羽院は忠通を摂政のままで置き、同時に頼長を内覧に任じた
摂政と内覧は同じものである
こうして対立していた忠通、頼長兄弟がともに摂政として並ぶことになった

■変わり者の藤原頼長
ものすごい読書家
読書癖が昂じて独特の正義感を抱くようになった。会議に遅れて来た公卿を声高に叱りつけるのはしばしばだった。時には遅刻した公卿の家を、部下に命じて焼き打ちさせたこともある
それどころか頼長は、自己流の責任感を貫くためなら殺人も辞さなかった。恩赦になった犯罪者を刺客を送って殺させたのである
そしてその殺人のことを日記に詳しく書いた上に「実は私がやらせたのだ」と得意気に書き添えていたのである
頼長の変人ぶりはすでに異常の域に達していた。




魔族・藤原氏【「平将門の敗死の報」で藤原純友軍勢は陰り、朝廷軍は勢いづく】戦いの勝敗はプラシーボ現象

2021-10-06 12:55:49 | 日記
■官を辞して大州へ戻った純友は、
荘園経営によって力をたくわえ、同時に海賊たちとの結びつきも強めていった。また京にも館をかまえ、伊予との間を行き来しつつ、しだいに都の貴族と、瀬戸内海の海賊、いずれにも名の知れた「豪強の輩(やから)」に成長していった

■一方海賊たちは、ますます勢いを増し、略奪行為をエスカレートさせていった。伊予国の郡役所が襲われ、蔵米三千余石が掠め取られるという事件まで起きた
ここに至り、早急な海賊対策の必要に迫られた朝廷は紀淑仁(きのよしひと)を伊予守に任命し、事態の収拾にあたらせることにした
紀がまず行ったのは、武力によって海賊を押さえつけるのではなく、彼らの言い分によく耳を傾けることであった。彼らと妥協すべきところは妥協し、うまくとりこむべきだと考えた

■紀は仲立ち役として、海賊たちに顔のきく純友に協力を求めた。純友は喜んで頼みを引き受け海賊たちの懐柔につとめた。純友の奔走によって、朝廷から衣食、田畑を与えられた海賊たちは、抵抗をやめて素直に帰服した。純友は男を上げた

評判の高まった純友のもとには、各地から次々と荒くれ者たちが集まってきた。彼らはいずれも水運に関わる海の豪強の輩である
純友のまわりに集まった海賊たちの目的は、もともと持っていた瀬戸内海水運の権利を朝廷から取り返すこと。そのためには中央との衝突は避けられないということだ

■939年12月
そんなとき、東国の方から知らせが伝わってきた。
【平将門が板東一円を攻め取り
「新皇」と称して独立国家を打ち立てた】
この報に瀬戸内海の海賊たちは色めきだった。朝廷が将門討伐に勢力をそそいでいる間に挙兵しようと、
藤原純友を首領に担ぎ上げた
純友は進んでこれを受けた
将門の乱に乗じれば朝廷軍に勝てると読んだ

■伊予守紀淑仁の説得を振り切り、
純友は兵船千数百艘を率いて伊予を出航した。もはや後戻りできない

伊予を出た純友船団は、朝廷軍を蹴散らしながら、瀬戸内海を東へ進み、淡路の国府を襲って蔵から大量の武器を略奪。この頃になると、純友軍は各地の浦浦から集まった海賊の船も加わり内海を黒々と埋め尽くした
反乱軍の勢いに朝廷軍はなすすべもなく、純友は瞬く間に瀬戸内海の水上交通を支配下に置いた

■「京へ攻め上り、一気に朝廷を倒す」純友軍の上洛は、まさに目前に迫っていた、、だが、、
【平将門が俵藤太、藤原秀郷らの軍勢に敗れ死んだ】
という報がもたらされるや、朝廷軍はにわかに息を吹き返して反撃に転じ、反乱軍は急速に勢いを失っていく
海賊たちは、浦浦へ引き上げて行き、純友もまた伊予へ戻った

■朝廷は、諸国に警固使を遣わし、純友にくみした党類を次々と追捕しはじめた。純友は地盤の南伊予に追いつめられた。純友は再び巻き返しをはかろうと、残された兵船四百余艘を率いて
伊予国府を襲い
讃岐国府を襲い
備前、備後に渡って朝廷方の兵船百余艘を焼き払った

■朝廷軍が小野好古を大将とする追討軍を伊予に派遣すると、純友軍の藤原恒利が寝返り、純友の隠れ処を密告して、道案内までかってでた
内部に裏切り者が出ては、戦いは決まったも同然。純友は大敗を喫して九州大宰府へ逃れた

筑前博多の津で小野好古の追討軍と一戦およんだ純友はここでも敗れ、一党は散り散りとなっていく
純友の終焉の地になったのは、故郷の伊予。今の松山市郊外にある大明神山である
天慶四年六月、残り少ない家臣とともに山に立て籠った純友は、矢に当たって落馬したところを、敵に斬られて果てた
海賊の大船団をひきいて巨魁海に出てから、わずか1年半後のことでした