■須我神社
スサノオノミコトを祭神とする神社は13000余社ある。八坂神社が一番多くて2500余社。須我神社が二番目に多く500余社
スサノオノミコトはヤマタノオロチを退治して、その尾の中から草那芸之大刀を発見した後、自らの宮を建設する土地を出雲でさがした。須賀という土地に来たところ
「この地に来たら私の心はすがすがしく感ずる」と言われ、この地に宮を建設して住まわれた
【現在この地には須我神社が建つ】
この地より美しい雲が立ちのぼるのを見て「やくもたつ、出雲八重垣、つまごみに、八重垣つくる、其の八重垣を」の歌を詠んだ
■須我神社から各地に分霊勧請した際に、遠慮して【素鵞神社】と置き換えられた神社がある。素鵞神社は135社ある。読み方は「ソガ」。「スガ」。佐賀県の一社は「スサノオ」
祭神はすべてスサノオノミコト
★島根県には素鵞神社は10社ある。出雲はスサノオノミコトの故郷でありスサノオ神話は出雲の地においてのものであるのに、八社が【境内社】となっているのは、素鵞神社が冷遇されてきたからだ。
いずれも10社は式内社(延喜式神名帳に収録)ではない式外社である。まるでスサノオノミコトは天神ではないような扱いである
★中臣神道
延喜式内社を選定したのは中臣氏。中臣氏の意に添わない神社は式内社から除外されている。中臣神道と相容れない独自の信仰体系を確立しているものや、仏教などと習合しているものは除外された
★延喜式神名帳には収録されていないが、それよりはるかに古く成立している風土記には収録されている神社がある。中でも【出雲国風土記】は733年成立し、延喜式は967年施行なので風土記の方がはるかに古い
島根県の素鵞神社10社の中には
★方結神社
★三保神社
★玉作湯神社
★加多神社
の四社が風土記に収録されている
中央からは冷遇されたが、出雲地方においては尊重されてきたということ。中でも最も重視しなければならないのは、【出雲大社境内社】となっている素鵞社である
■出雲屋敷信仰
★建築、土木工事に先立って、
その土地の東・西・南・北・中央の
五ヶ所に【浄めの砂〈出雲大社の土〉】を埋め込む。これを行った建築物を出雲屋敷と呼び、オオクニヌシノミコトの守護を受ける
★またそれとともに建築物内に神棚を設けて、そこに【五方札】と呼ばれる神札を祀る。するとその土地建物はオオクニヌシノミコトの屋敷になったことになり、全面的に強力な守護を得られる
■五ヶ所とは五行
この世界の森羅万象要素は
木・火・土・金・水の五行であり
五行は【相生・相剋】の循環や力関係を持つ
★生じるという発展的連鎖・力関係が〈相生〉という循環をもたらす
木は火を生じ
火は土を生じ
土は金を生じ
金は水を生じ
水は木を生ずる
★勝つ、打ち負かすという力関係を〈相剋〉という
木は土に剋ち
土は水に剋ち
水は火に剋ち
火は金に剋ち
金は木に剋つ
■出雲屋敷は五ヶ所に浄めの砂を埋めることによって、その地を神の土地に変えてしまうという呪術であり、大地主であるオオクニヌシノミコトに守護を願うもの。これによって屋敷が聖地と化する
♦️浄めの砂は、現在では【潮砂】としている。稲佐の浜の海から出雲大社の神職が採取した潮砂を、大社においてオオクニヌシノミコトの霊威を砂に遷す祭祀を行っだものだ
本来は潮砂でなく、素鵞社の床下の土を分けていただくものだった。出雲大社の床下でなく、素鵞社の床下から採るというのが重要な意味を持つ
つまり、大地を守護する出雲の地主神は、オオクニヌシノミコトではなく、スサノオノミコトなのである
オオクニヌシノミコトは壮大な出雲大社に鎮座しているにもかかわらず、その背後に鎮座する小祠・素鵞社のスサノオノミコトに見守られている。
オオクニヌシノミコトは国譲りをした。だからもはや国土の主宰神、守護神ではない。幽世の主宰神となって現世とは関わりのない神となったはず、、ところがその後も出雲では、地主神は依然としてオオクニヌシノミコトであり、さらにその祖先神、スサノオノミコトこそが大地主神であるのだ
国譲り、、実態は服属
各地に怨みわだかまっていたスサノオノミコトの末裔たちを出雲大社に祀り上げることによって、大和政権は成立した。それまでは多くの血が流されたであろうし、大和政権に対する怨みも残っていた。出雲大社はその鎮魂の社であり、出雲大社を背後から見守る素鵞社は、怨霊化を封印している