るるの日記

なんでも書きます

日本神話は、事実と比喩が混ざりあっている

2021-10-30 17:21:55 | 日記
大物主とは
大いなる、物の、主

物→もののふ(物部)
武力・軍事に長けた者
これが氏族名になるのは後のこと

偉大なる物部の主とは
物部氏の氏祖であるウマシマジの伯父である長髄彦(ながすねひこ)
古代大和において、長髄彦は武人の象徴だったが、天神・ニギハヤヒの裏切りによって、ニギハヤヒに指示されたウマシマジに殺された。これは神武東征軍が大逆転する重要ポイントとなるが、このニギハヤヒ裏切りの表現は国譲りの比喩である

オオクニヌシノミコトの国譲りは神話。神武の東征は歴史である。神話で行われた国譲りを、歴史的事実として神武は体験しなければならなかったのだ

オオクニヌシノミコトが国譲りし、それを受け取るニニギは、なぜか高千穂に降臨する。出雲か大和に降臨せずに、、、
これではその子孫が出雲、大和まで出かけなければならない、、
神武東征は事実だが、国譲り神話はその事実を受けて比喩として書かれたものだろう



草薙の剣=オオモノヌシノカミ=ヤマタノオロチ=長髄彦

2021-10-30 16:41:37 | 日記
■ヤマトタケルは、父景行天皇より、熊襲を討てと命じられ、戻る間もなく今度は東夷の征伐を命じられた。この時、ヤマトタケルは伊勢神宮へ赴き、叔母のヤマトヒメノミコトから天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)を授けられ、東国へ出征した

ここで、ヤマトタケルが剣を受けとるという手続きがなかったら、剣は熱田へ行かない。鏡とともに伊勢神宮にそのまま鎮座していたことになる。剣の名も草薙剣にならず
天叢雲剣のままだった

■第10代・崇神天皇の時
八咫の鏡と天叢雲剣が祟りを為したので、皇居の外に祀ることとした
場所は笠縫邑(かさぬいむら)。その後、檜原神社となる地で、奉斎したのはトヨスキイリヒメ。そして
ヤマトヒメに引き継がれる

ヤマトヒメは二種の神器にふさわしい鎮座地を求めた。最終的に伊勢の地が鎮座地となる。これが伊勢神宮で、ヤマトヒメが初代の斎宮となった。伊勢神宮の運営が最重要の国家祭祀となったのはこの時からである

■その初代斎宮が奉仕して鎮めなければならないほどの神威の神は何者か?八咫の鏡は、皇祖神アマテラスオオミカミの依り代であるが、天叢雲剣はいかなる神の依り代か?
現在はスサノオノミコトの依り代ということになっているが、由来を考えると、十握剣(とつかのつるぎ)がスサノオノミコトの依り代であれば合点がいくが、天叢雲剣(草薙剣)だとすると理屈に合わない

スサノオノミコトがヤマタノオロチを退治した際に、その尾から出てきたのが天叢雲剣。それならばヤマタノオロチ退治を成し遂げた十握剣こそがスサノオノミコトの依り代として祀られるべきだろう

十握剣は勝者の剣
ヤマタノオロチの体内の剣は敗者の剣、、
だからこそ天叢雲剣は怨霊神となって崇神天皇の代に祟りを為した。敗者が祟るのであって勝者のスサノオノミコトが祟るいわれはない
天叢雲剣はスサノオノミコトの依り代ではなく、別の誰かの依り代である

■崇神天皇は、剣の祟りを鎮めるために大神神社を祀った。その大神神社の祭神はオオモノヌシノカミ
天叢雲剣はオオモノヌシノカミの依り代以外ありえない。祟り神はオオモノヌシノカミ

オオモノヌシノカミは祟りをなす強力な神であったが、天皇によって手あつく祀られたことにより、国家の守護神となった。そのオオモノヌシノカミの依り代は三種の神器の一つとして、皇位継承の証ともなった

■つまりつまり
ヤマタノオロチはオオモノヌシノカミであったのだ。オオモノヌシノカミは、これほど巨大な神でありながら、三輪系統の神社でしか祀られていない。オオモノヌシノカミを祀る神社は三輪以外にはない

大神神社は日本で最も古い神社の一つである。にもかかわらず信仰が限定されているのは、別名で広く信仰され崇敬される神であって、しかもその偉大さを大和政権は高らかにうたいあげるわけにはいかなかったのだ、、、長髄彦、、

出雲大社の怨霊を封印しているスサノオノミコト

2021-10-30 15:41:50 | 日記
■須我神社
スサノオノミコトを祭神とする神社は13000余社ある。八坂神社が一番多くて2500余社。須我神社が二番目に多く500余社

スサノオノミコトはヤマタノオロチを退治して、その尾の中から草那芸之大刀を発見した後、自らの宮を建設する土地を出雲でさがした。須賀という土地に来たところ
「この地に来たら私の心はすがすがしく感ずる」と言われ、この地に宮を建設して住まわれた
【現在この地には須我神社が建つ】
この地より美しい雲が立ちのぼるのを見て「やくもたつ、出雲八重垣、つまごみに、八重垣つくる、其の八重垣を」の歌を詠んだ

■須我神社から各地に分霊勧請した際に、遠慮して【素鵞神社】と置き換えられた神社がある。素鵞神社は135社ある。読み方は「ソガ」。「スガ」。佐賀県の一社は「スサノオ」
祭神はすべてスサノオノミコト

★島根県には素鵞神社は10社ある。出雲はスサノオノミコトの故郷でありスサノオ神話は出雲の地においてのものであるのに、八社が【境内社】となっているのは、素鵞神社が冷遇されてきたからだ。
いずれも10社は式内社(延喜式神名帳に収録)ではない式外社である。まるでスサノオノミコトは天神ではないような扱いである

★中臣神道
延喜式内社を選定したのは中臣氏。中臣氏の意に添わない神社は式内社から除外されている。中臣神道と相容れない独自の信仰体系を確立しているものや、仏教などと習合しているものは除外された

★延喜式神名帳には収録されていないが、それよりはるかに古く成立している風土記には収録されている神社がある。中でも【出雲国風土記】は733年成立し、延喜式は967年施行なので風土記の方がはるかに古い

島根県の素鵞神社10社の中には
★方結神社
★三保神社
★玉作湯神社
★加多神社
の四社が風土記に収録されている
中央からは冷遇されたが、出雲地方においては尊重されてきたということ。中でも最も重視しなければならないのは、【出雲大社境内社】となっている素鵞社である

■出雲屋敷信仰
★建築、土木工事に先立って、
その土地の東・西・南・北・中央の
五ヶ所に【浄めの砂〈出雲大社の土〉】を埋め込む。これを行った建築物を出雲屋敷と呼び、オオクニヌシノミコトの守護を受ける
★またそれとともに建築物内に神棚を設けて、そこに【五方札】と呼ばれる神札を祀る。するとその土地建物はオオクニヌシノミコトの屋敷になったことになり、全面的に強力な守護を得られる

■五ヶ所とは五行
この世界の森羅万象要素は
木・火・土・金・水の五行であり
五行は【相生・相剋】の循環や力関係を持つ

★生じるという発展的連鎖・力関係が〈相生〉という循環をもたらす
木は火を生じ
火は土を生じ
土は金を生じ
金は水を生じ
水は木を生ずる

★勝つ、打ち負かすという力関係を〈相剋〉という
木は土に剋ち
土は水に剋ち
水は火に剋ち
火は金に剋ち
金は木に剋つ

■出雲屋敷は五ヶ所に浄めの砂を埋めることによって、その地を神の土地に変えてしまうという呪術であり、大地主であるオオクニヌシノミコトに守護を願うもの。これによって屋敷が聖地と化する

♦️浄めの砂は、現在では【潮砂】としている。稲佐の浜の海から出雲大社の神職が採取した潮砂を、大社においてオオクニヌシノミコトの霊威を砂に遷す祭祀を行っだものだ

本来は潮砂でなく、素鵞社の床下の土を分けていただくものだった。出雲大社の床下でなく、素鵞社の床下から採るというのが重要な意味を持つ

つまり、大地を守護する出雲の地主神は、オオクニヌシノミコトではなく、スサノオノミコトなのである
オオクニヌシノミコトは壮大な出雲大社に鎮座しているにもかかわらず、その背後に鎮座する小祠・素鵞社のスサノオノミコトに見守られている。

オオクニヌシノミコトは国譲りをした。だからもはや国土の主宰神、守護神ではない。幽世の主宰神となって現世とは関わりのない神となったはず、、ところがその後も出雲では、地主神は依然としてオオクニヌシノミコトであり、さらにその祖先神、スサノオノミコトこそが大地主神であるのだ

国譲り、、実態は服属
各地に怨みわだかまっていたスサノオノミコトの末裔たちを出雲大社に祀り上げることによって、大和政権は成立した。それまでは多くの血が流されたであろうし、大和政権に対する怨みも残っていた。出雲大社はその鎮魂の社であり、出雲大社を背後から見守る素鵞社は、怨霊化を封印している



読書記録・【オオクニヌシ、出雲に封じられた神】

2021-10-30 12:58:37 | 日記
■国譲りを強制されたオオクニヌシノミコトは、怨霊神や祟り神にはならなかったのはなぜか?
一般的な解釈によれば、オオクニヌシノミコトは天孫族によって十分な慰霊鎮魂が行われ、手厚く出雲大社に祀られ神威を保証されたから、、とある

しかしこれだけの仕打ちを受けたなら、やはり【怨んで当然】だし、怨霊神や、祟り神は生き残った人がつくる

出雲大社の巨大な注連縄は、祀る者たちの恐怖心畏怖心の大きさを表している

■注連縄とは
古事記、天の岩屋戸の段
岩屋戸に注連縄を張り巡らしたから、もう二度とアマテラスオオミカミは入ることはできなない、と注連縄の意義が示されている

こちらから入ることも
あちらから出ることもできない、、
注連縄は封印の証である

出雲にある神社は、その多くが巨大な注連縄で封印されている。それは多くの神が怨霊神であることの証。しめ縄とは、閉め縄、封印なのだ






出雲地方の主要神社の方角は東向きなのは東方への恋慕から。出雲大社は恋慕がないので南向き

2021-10-30 12:41:56 | 日記
■神社の多くは南を向いている(9割以上・太陽信仰に基づく)。その他の向きの神社は独自の理由があり、建てた人々の意志や志向が反映されている

■ところが、出雲地方の主要神社のほとんどは東向きである
出雲地方の東方には何があるのか?
日の出を享受するためか?
出雲大社は明治までは【天日隅宮(あめのひすみのみや)】と呼ばれていて、やはり日の出から最も遠いところにある宮ということであるが、、

■出雲地方の
★【神魂(かもす)神社】は
出雲国造家が、平安中期から25代まで奉務しており、出雲大社の元宮ともいわれている。その神魂神社の東方には平安京があった

★神魂神社の創建より古い時代に創建された熊野大社などの東向きの神社の東方には、平城京があった

★そして出雲大社の〈オオクニヌシノミコトの霊威は、京都亀岡の【出雲大神宮】から遷ってきた〉という伝承がある

※出雲大神宮(通称元出雲)
京都府亀岡市千歳町出雲
祭神・オオクニヌシノミコト
・ミホツヒメノミコト
・スクナヒメノミコト

★出雲という地名は、島根県から遠く離れた奈良の桜井・三輪地方にも存在する


■出雲大社
★創建年代を特定するのは困難(出雲大社にかぎらず
6世紀以前は神社はなく、特定の山や樹木などに礼拝していた。やがてそこに簡単な社(やしろ)が設けられ、そして社を増改築する形で神社がつくられた
よって創建の時期はおぼろげである

★出雲大社の公式な起源は、オオクニヌシノミコトが国造りを終えて、その全権を天つ神に委譲するとき、その隠居所を出雲に建てさせたとある。社伝によれば高さが97メートルあったという(東大寺の大仏はその半分)
その高さのため、しばしば転倒したので、現在の高さに

★これほど巨大な宮殿を建てた理由は、オオクニヌシノミコトの偉大さにある。天つ神は国を生んだが、その国を実際造りあげたのはオオクニヌシノミコトであった。スサノオノミコトの6世孫にあたる

スサノオノミコトから「葦原の中つ国」を引き継ぎ、スクナビコナノミコトの協力を得て国造りを完成させた。その後、ニニギノミコトの天孫降臨に際して国土を譲り、出雲の地に隠れた

★スサノオノミコトは、出雲大社本殿の真後ろの【そがの社】に、出雲大社本殿を見守るように鎮座する

オオクニヌシノミコトは、スサノオノミコトの娘のスセリヒメを妻としていて、スサノオノミコトの支配する根の国から、スセリヒメを連れて地上へ帰還した

オオクニヌシノミコトは、持ち帰ったスサノオノミコトの神宝である剣、弓矢、琴を使って敵を打ち破り、ついに葦原の中つ国の主となった
つまりスサノオノミコトの力を借りて政権を打ち立てたのである。オオクニヌシノミコトは今なお義父スサノオノミコトに見守られている

★出雲大社の祭神はもともとスサノオノミコトだった。京都亀岡の出雲大神宮からオオクニヌシノミコトを勧請して合祀することになった。この時に出雲族の移住と、出雲の地名がもたらされた

■他の主要神社が東向きなのは、東方への恋慕があるのであれば、この出雲大社は恋慕がないゆえに南向きなのである