■藤原道長時代が
藤原氏の摂関政治の全盛期である
娘を次から次へと天皇家に入れ
その結果、娘三人の皇后冊立を実現
道長は栄華の頂点になった
1018年三女・威子(いし・20歳)が後一条天皇(11歳)の皇后に冊立されたことにより
※長女が太皇太后(彰子しょうし)
※次女が皇太后(妍子けんし)
※三女が皇后(威子いし)
三后をすべて道長の娘で独占
「この世をば、我が世とぞ思ふ
望月の、欠けたることもなしと思へば」藤原道長が誇らしげな歌を詠み
日記には「今の気持ちを言葉では表せない」と吐露している
■道長の嫡子、頼通の摂関政治は
後一条、後朱雀、後冷泉の三代の長期に及んだ。その頼通が摂関を退いて隠居したのは、外戚関係を持続できなくなったからである
彼には外孫の皇子がいなかった
頼道は妻の隆姫への愛が強く
他の女性との婚姻をひかえていた
妻は村上天皇の孫であり、道長もこの結婚については「男の価値は妻しだい。尊い宮家なら申し分ない」と歓迎していた
しかし、、子が生まれない
ある時、三条天皇から皇女をすすめられたのを渋る息子に対して道長は
「妻一人しか持たないなんてばかげている」とたしなめた
摂関体制保持を進める道長の結婚観なのである
結局隆姫は子をなさず
別腹の娘や養女を入内させたが
そこも皇子の誕生はみられなかった