るるの日記

なんでも書きます

魔族・藤原氏【孝謙激怒💢😠💢淳仁天皇と藤原仲麻呂の権力を奪う】

2021-10-05 12:36:31 | 日記
奈良麻呂の謀反から1年後
758年8月孝謙女帝退位

皇太子は即位し淳仁天皇となった
その月末、藤原仲麻呂は淳仁天皇から恵美押勝(えみのおしかつ)という名を贈られている

仲麻呂の専横はさらに続いた
自分の官位が最高峰を極め頭打ちになると、今度は子どもたちを要職につけはじめた。そして親子四人で
閣僚を占めた。前代未聞のことである。公私混同もいいかげんにしろ!だ。。だが仲麻呂の権勢もここらまでが絶頂。あとは下るのみ

■760年頃から藤原仲麻呂は朝廷内部で孤立しはじめた
その第一の原因は6月、仲麻呂の後ろ楯となっていた光明皇太后が死亡したこと。その結果母の重石がとれた未婚女帝・孝謙太上天皇が勝手きままな行動をとりだしたのだ
看病禅師として近づいてきた道鏡と親密な関係になり、逆に仲麻呂は邪魔な存在となってしまったのである

孝謙と道鏡の結びつきは、孝謙が病気になり、その看病にあらわれたのが道鏡だった
仲麻呂にとって、これまで自分の方に向いていた孝謙のまなざしが、道鏡に向けられたことは不愉快であった。嫉妬心である
そこで淳仁天皇を通じて、孝謙の不謹慎な態度を注意させた
「太上天皇ともあろうものが、僧に心を奪われては、みっともないですよ」

■孝謙怒る💢
突然、平城京に帰ると法華寺に入り
五位以上の者を全員集め宣言した
「私は女ながらに嫡系を継ぐただ一人として天皇の位にあったが、今の淳仁天皇に譲位したところ、天皇はうやうやしく従うことがない。
だいたい道鏡の関係などとやかく言われる覚えなどない。法華寺に入ればもう言い掛かりのつけようもあるまいが、くやしくてならぬ。
まあこれも菩提心を起こす仏縁と思えばいい。だから私は出家する

ただし今後、今の天皇は神祭や小さな事にかぎって裁決するがよい。国家の大事と賞罰は、私がする!」

孝謙は怒りの宣命で
淳仁天皇と藤原仲麻呂の権力を奪ってしまったのである



魔族・藤原氏【藤原仲麻呂・バックに女の庇護ある独裁政権】

2021-10-05 11:51:07 | 日記
■藤原仲麻呂の起こした
【恵美押勝の乱】は
孝謙女帝と藤原仲麻呂の政権抗争だ

その本質は
男と女の嫉妬心から出た
宮廷スキャンダル

別言すれば
女性庇護のもとで立身出世した男が
その庇護がなくなった時
どうなったかをものがたる

■藤原仲麻呂
藤原不比等が祖父
藤原南家を興した武智麻呂を父として次男、706年生まれ
長男の兄は3歳ちがいの豊成
叔母は聖武天皇の皇后光明子
叔母はとりわけ仲麻呂を可愛がった

従兄弟の藤原広嗣が反乱をおこした際、聖武天皇は5年間東国を彷徨うが、このとき仲麻呂は天皇と皇后を護衛し信頼を得、急速に出世

仲麻呂38歳のとき参議に入った
聖武天皇が譲位し、娘阿倍内親王が
孝謙天皇となった749年秋には
大納言になった

■紫微中台
孝謙女帝は【紫微中台】という役所を設けた。これは光明皇太后が
娘の孝謙女帝を補佐する機関としてつくったもの。天皇に代わって皇太后が勅を出すことを認めていた
長官は藤原仲麻呂

左大臣、右大臣らで構成する
表太政官に対し
光明皇太后、仲麻呂を中心とする
裏の権力機関である

■仲麻呂独裁政権への道
756年、左大臣だった橘諸兄死去
その4ヶ月後、聖武太上天皇崩御
仲麻呂は孝謙天皇の皇太子に任じられていた天武天皇の孫で反藤原勢力である道祖王(ふなどおう)の廃立作戦を実行

【翌年春、皇太子道祖王が、聖武喪中にもかかわらず民間の女と通じ、朝廷の機密を漏らした、というあまりにも都合のよい事件が起きた】

孝謙女帝は道祖王の皇太子を廃し
後任の皇太子を立てるための会議をはかる
仲麻呂は会議をリードし、自分の思い通りになる【大炊王】を皇太子に立てた

【大炊王は、かつて仲麻呂の長男に嫁いだ粟田諸姉を娶っており、長男が早逝後、仲麻呂のすすめで粟田諸姉と結婚させていた】

こうして
皇太子大炊王を掌中に
背後に光明皇太后と孝謙女帝を持つ仲麻呂は独裁政権への道を歩みだした

■反仲麻呂勢力を断罪
死刑、流罪443人

仲麻呂は大幅な人事異動発令し
反藤原勢力が一掃された
仲麻呂独裁政権が強まるにつれ
反藤原勢力も黙ってはいない
中心人物は橘奈良麻呂
だがクーデターの全貌が明らかにされたことにより、多数の反仲麻呂勢力が処刑された
死刑、流刑された数443人
いかに仲麻呂の専横ぶりが酷かったかを証明している

つづく、、








魔族・藤原氏【藤原広嗣、朝敵となっていることを戦いの最後に気づく】空気読めない

2021-10-05 10:15:54 | 日記
■藤原広嗣は筆をとり、天皇に奉る意見書を一気に書き上げた

まず悪政を咎めた文
次に広嗣の主眼とする玄昉と真備への批判の文

「僧侶玄昉、常に紫色の袈裟に身を隠し、仏法に違反し、諸々の女人を邪道に染ませる。財宝を山と積み、酒を醸す。種々の偉儀を失いて香華をもって身を飾り、女色を愛著す

今に見る玄昉、正法を絶ち、
遂に金色一丈六尺の仏眼より涙を流させてしまうこと法滅の兆しである

吉備真備は器狭量の人
海外に遊学し、智あり勇あり弁あり謀反あり。いわゆる利口をもって
国を覆す人

この二人を早くに除かねば
後悔の憂いを残す

意見書は
740年8月中旬に大宰府から発送
8月下旬に平城京に届いた

■9月3日都から
宣戦布告ともいえる解答が届いた
天皇の名による勅封が大宰府の役人や農民らに撒き散らされた

「逆臣・藤原広嗣
その父・宇合は常に広嗣の嘘言を憎悪し暗殺することを願っていたが、朕(聖武天皇)それを制止していた

昨今に至り藤原親族を誹謗するに及び、広嗣を大宰府に左遷したのは、亡き父の徳を忍び、改心することを願ったからほかならぬ

しかし、今に至るも悪口三昧の計略止むことなく、良民の心を惑乱するとは、親不孝、朕に不忠のかぎりである

広嗣を抹殺したる役人は官位を伸ばし、民百姓なら五位以上の等級を授ける」

天皇の名による官位、等級を与える勅封だ

■広嗣挙兵
1
9月上旬
広嗣は「こんな出鱈目な宣伝に乗るな!」と各地に檄を飛ばし兵を募った
約1万の兵士が3つの軍団に分かれ関門海峡を守護する九州の要所・【三つの鎮】めざして動き出す
朝廷でも1万7千人の兵士が北九州めざして進軍開始した

2
9月中旬
広嗣軍と2つの軍団は、2つ鎮に到着したが、しかし第3軍団はついに現れなかった

3
9月・下旬
朝廷軍は続々と海を渡って三つの鎮を猛烈に攻め上げ大激戦となる
予定の兵力を欠いた広嗣軍は攻め落とされた

広嗣の軍勢は敗走途中で兵士の集団投降や脱落が相次ぎ、滅亡は目前に迫っていた
だが、いかなる悲運にあっても、自分を見捨てることなく再び高みに登るであろう、と広嗣を信じ抜く人もいた。広嗣はそんな人物だった

4
10月初め
広嗣は態勢を立て直す
薩摩・大隅の勇敢な隼人で編成した軍団を率い、板櫃川の西岸まで進出
東岸に陣を構える朝廷軍を挟んで、ちまちました矢の応酬後急に静まりかえった

5
その時、天皇勅使の佐伯常人が進み出る。広嗣は馬をおりて拝礼し
何用かと訊ねると
「朝廷に歯向かうとは何事か
あなたは、身分を逸脱し、兵を動かし、大宰府の指揮系統を乱し、法令に背いた。どのような言い訳も立たない」

広嗣には返答する言葉が浮かばない

この問答を聞いて広嗣の軍団は、朝敵の汚名を着せられると知り、続々と朝廷軍に降伏しはじめた
広嗣は数名の側近とともにその場から逃走した

6
広嗣行方不明の報告が平城京に届いた。広嗣は従者と志賀島から小舟で玄界灘に漕ぎ出していた
西方の海上めざして逃れ出た
だが、潮流に戻され
値嘉島を最後の場に定めた

■10月23日
漁民の密告により、遂に広嗣は、朝廷軍に捕らわれた。
9日目の11月1日処刑

【この頃、宮中ではおかしなことが
起こっていた。聖武天皇は平城京を出て東国へ行ったのだ。以後5年間にわたり夢遊病さながら各地を彷徨う】、、

皇后と玄昉の関係は本当で、そのショックを受けたための行動だったのかもしれない🤔

魔族・藤原氏【藤原広嗣左遷・玄昉に天皇皇后が操られとる怒る】操るのは藤原氏なのに

2021-10-05 08:32:10 | 日記
■藤原広嗣は、玄昉が僧侶、真備が学者の分際に留まる限り文句は言うつもりはなかった

だが人事を左右し、天皇を動かし、政治介入し、宮中が玄昉と真備に独占され魔殿と化し、皇室が操り人形になってゆく、、
玄昉と真備、この者こそ俺を大宰府へ左遷に追いやった妖怪だ、、

広嗣は左遷の焦りから次第に
【天下国家の危機感】
に飛躍する考えにとらわれて行く

■広嗣は左遷され大宰府にいる
大宰府は大陸に対する軍事・外交の最前線基地。軍備費削減のため東国からの防人や兵士の派遣もなく、それを地元九州諸国の青年男子でまかなえという。その肩代わりの兵役は農民からまかなうこととなり、働き手を失った農村は困窮する

そこへ国ごとに国分寺、国分尼寺創建プランや、大仏建立まで構想されていることが伝わる
これは、もはや、民衆を苦しみに叩き落とす超悪政ではないか!
こんなバカげたプランを練り上げた奴は玄昉と真備にちがいあるまい
行政の簡素化、経費削減などの美辞麗句も全国に寺院を建てたり大仏を造る費用捻出のための猿芝居だ

広嗣義憤