奈良麻呂の謀反から1年後
758年8月孝謙女帝退位
皇太子は即位し淳仁天皇となった
その月末、藤原仲麻呂は淳仁天皇から恵美押勝(えみのおしかつ)という名を贈られている
仲麻呂の専横はさらに続いた
自分の官位が最高峰を極め頭打ちになると、今度は子どもたちを要職につけはじめた。そして親子四人で
閣僚を占めた。前代未聞のことである。公私混同もいいかげんにしろ!だ。。だが仲麻呂の権勢もここらまでが絶頂。あとは下るのみ
■760年頃から藤原仲麻呂は朝廷内部で孤立しはじめた
その第一の原因は6月、仲麻呂の後ろ楯となっていた光明皇太后が死亡したこと。その結果母の重石がとれた未婚女帝・孝謙太上天皇が勝手きままな行動をとりだしたのだ
看病禅師として近づいてきた道鏡と親密な関係になり、逆に仲麻呂は邪魔な存在となってしまったのである
孝謙と道鏡の結びつきは、孝謙が病気になり、その看病にあらわれたのが道鏡だった
仲麻呂にとって、これまで自分の方に向いていた孝謙のまなざしが、道鏡に向けられたことは不愉快であった。嫉妬心である
そこで淳仁天皇を通じて、孝謙の不謹慎な態度を注意させた
「太上天皇ともあろうものが、僧に心を奪われては、みっともないですよ」
■孝謙怒る💢
突然、平城京に帰ると法華寺に入り
五位以上の者を全員集め宣言した
「私は女ながらに嫡系を継ぐただ一人として天皇の位にあったが、今の淳仁天皇に譲位したところ、天皇はうやうやしく従うことがない。
だいたい道鏡の関係などとやかく言われる覚えなどない。法華寺に入ればもう言い掛かりのつけようもあるまいが、くやしくてならぬ。
まあこれも菩提心を起こす仏縁と思えばいい。だから私は出家する
ただし今後、今の天皇は神祭や小さな事にかぎって裁決するがよい。国家の大事と賞罰は、私がする!」
孝謙は怒りの宣命で
淳仁天皇と藤原仲麻呂の権力を奪ってしまったのである