るるの日記

なんでも書きます

魔族・藤原氏【藤原純友・何不自由のない恵まれた若き土豪】短気

2021-10-06 09:55:30 | 日記
■藤原純友の生まれは3つの説がある

★藤原冬嗣の流れをくむ藤原良範の子(中流貴族)

★藤原氏とは無縁の越智一族
伊予国の土豪・高橋友久の子が
藤原良範の養子となり
藤原純友と称した
(良範は一時期、伊予守をつとめ、その際に高橋氏とつながりができたのか。しかし血筋を重んじる貴族が、在地の土豪の子を養子に迎えるというのは考えにくい)

★藤原良範の隠し子
藤原良範が伊予守時代に、高橋氏の娘と密かに関係を結び、その間に生れたのが純友で、高橋友久の息子として育てられ、のちに藤原良範の子と認知され、藤原純友を称するようになった

■藤原純友が生まれたのは、伊予の大州。肱川のほとりに開けた盆地にある。
大州は霧深い。町の中央を水量豊かな肱川が流れ、いつも川霧が立ち込めている。
水が豊富だからか、木々の緑はみずみずしく、春になると花々が野山に明かりを灯したように美しく咲く

純友がはじめて都へ上ったのは、元服してのちのこと。地方豪族の子弟が都へ上るのは、朝廷に仕えてなにがしかの官職をもらい、経歴にハクをつけるためだ。
下っ端役人であっても、故郷の人々の見る目が違う。それだけでも十分地方豪族たちをまとめ上げていく力となる。

■上洛後の純友は、実父藤原良範のつてをたどって、下級役人に任官した。任官できただけまだましな方で、同じように京へ上った平将門は、摂関家の藤原忠平に仕えながら、ついに官職を得ることができなかった。やはり純友の場合、父である良範の尽力が大きかった
実父の許しを得て、藤原純友と名乗ったのも、宮仕えのときだ

■京での宮仕えのあと、藤原純友は伊予国へ戻り、伊予国府の三等官である「伊予のじょう」となった
一等官の守
二等官の介は、中央の貴族がつとめ
三等官以下は在地豪族がつとめる
純友の職は土豪としてはトップの役職で、武力を背景に裁判、治安維持などをつかさどっていた
順風満帆。何不自由のない恵まれた若き土豪

■933年
このころ瀬戸内海では、あたり一帯を航行する船を襲い、物資を横領する海賊たちの動きが活発になっていた
海賊たちはもともと漁師や船乗りで、瀬戸内海や北九州沿岸を生活の場としていた海人の流れを引く者たちだった。その船上生活者たちが力をつけ、徒党を組んで海賊行為をはたらくようになっていた

目ち余る海賊たちの横行に、朝廷は瀬戸内海沿岸諸国に警固使が派遣された。純友の伊予国にも警固使が下ってきた
伊予で育ちの純友は、瀬戸内海交通を握る海賊たちとも関わりを持っていた。純友は、中央から来た警固使の横柄な態度に腹を立てて衝突。ついには「伊予のじょう」の職を辞して大州の館へ引き上げてしまった

まだこの時期の純友は朝廷への反逆の意志を明確に持っていなかった



魔族・藤原氏【バカな子(平城上皇)ほどかわいい】

2021-10-06 08:46:26 | 日記
つづき

■嵯峨朝廷の体制は強化していった
しかし大同四年末から嵯峨天皇が病を発し、翌年夏から悪化しだした
この嵯峨天皇の病気の原因もまた
早良・伊予両親王の祟りによるものだったので、朝廷は亡き二親王と吉子の供養のために祈ったりして、天皇の回復に懸命だった

■平城側はこの反撃のチャンスの時をとらえ、突如その年の9月6日
平安京を廃して、都を奈良の地に移す命令を出した

異例の上皇の命令に対して嵯峨天皇は、「上皇の命令だから、都を奈良に遷そう」と言って内裏を出て東宮御所に移り平城側を油断させ、高官たちを奈良へ送りこんだ。目的は平城上皇の説得と、内情偵察である。それから4日後高官らからの情報を得た嵯峨天皇は平城遷都を拒否する強硬策を決意した

■平城側では遷都命令がすんなり実現すると楽観視していたので、敵地ともいうべき平安京でうろうろしていた平城上皇の黒幕である薬子の兄・藤原仲成を逮捕し拘禁

そして嵯峨天皇は詔を出す
〈詔の内容〉
「すべては藤原薬子の詐謀
兄仲成はそれを教正しないばかりか、彼女の威を借りて伊予親王とその夫人吉子を惨死せしめ、その罪は数えきれず。兄妹の悪業を指弾して処罰する」
嵯峨天皇は遷都という国家的事件を、すべて仲成と薬子兄妹の罪にして、平城は全く無関係のごとくかばおうとした。(平城を敵とすれば、事態の収拾が困難になるので、平城に反省を求める和解策に出た)

■しかし平城は、嵯峨天皇の詔に激怒し、数人の兵をしたがえ、薬子とともに東国めざした
平城側は遷都命令は思うがままに実現すると楽観視して挙兵準備など全くしていなかった。見通しが甘く、無計画すぎる

すでに嵯峨朝では上皇の東国行きを予知し、藤原仲成を射殺した上で坂上田村麻呂に兵を与え、美濃道を出撃させていた。平城一行は大和国越田村で朝廷方の兵に行く手を遮られ、平城宮に引き返し平城は出家、薬子は毒を飲んで死んだ、、、
とだけしか伝えられていない


■事件の後始末にしても、高岳親王(平城皇子)が皇太子の地位を奪われ、二人の参議が左遷されたのみであっさり片づけられている

国を揺さぶる大事件だったにも関わらず、結果があまりにもあっけなさすぎる、、これは平城の独善的な発言や命令があまりにも裏表のない他愛がないものだった。だから嵯峨天皇は平城を憎めずかばい通し、すべての罪を薬子と仲成におしつけ、平城もまた嵯峨天皇の庇護に甘んじたからである





魔族・藤原氏【発言に責任を持たない平城上皇「やはり天皇に戻りたい」】操る藤原薬子

2021-10-06 07:40:56 | 日記
前回のつづき

■平城上皇は旧都の奈良を落ちつき先と定めた。「ただひたすら伊予親王の怨霊の染み付いてる平安京さえ離れられれば」という思いが強かったので、平城の復位を望む藤原薬子と仲成兄妹が謀り、平城古都にある東大寺を中心とした寺勢力などを味方に加えるために、平城上皇を奈良に誘った

■嵯峨天皇は平城上皇のために、奈良での上皇親宮築造のため、五か国の租米を建設費にあて、大工など職人2500人を提供
そして仲成を造平城宮使長官に任命し、平城上皇を重んじる待遇をした

ところが嵯峨天皇が、民間の疲弊と朝廷の財政難が悪化したため、平城がはじめた観察使の特典である食封(手当みたいなもの)を停止し、観察使を参議兼任にしたことで平城の感情を刺激し、これが両者の反目抗争のきっかけとなった

■健康を回復した平城は
「観察使と参議とを兼ねさせるのは、両方の職務が中途半端になってしまう。いっそ観察使など廃止せよ」
という上皇の詔を出した
これは上皇の天皇への政治干渉である。これでは2つの朝廷が存在しているのと同様といえた

実際のところ薬子や仲成だけでなく、病気が治った平城自身が、たった3年で皇位を譲ったことを悔やんでいた

【やがて起こる「薬子の変」について
嵯峨天皇は、この2つの朝廷は藤原薬子が、威権をほしいままにするためにつくられたものである、と詔で名言している】

ともあれ二所朝廷は、世を混乱させるばかりであったから、極力平城との対立を避けたい嵯峨側としても、これ以上遠慮しているわけにはいかなくなった

魔族・藤原氏【平城天皇、またもや怨霊にとり憑かれ皇位を弟に譲る】藤原兄妹がっかり

2021-10-06 06:44:19 | 日記
平城天皇は、早良親王の怨霊への恐怖感からひどいノイローゼになったほど、気の小さな迷信家だったから伊予親王の死についても平静でいられるわけはなかった
事件の翌年808年暮れ頃からまたしてもひどい不眠不食の状態となり、たえず何かにおびえ、動悸が高まった。当時の言葉で「風病」といわれた神経系の疾患で、今でいう躁鬱病のようなものである

またしても早良親王母子の祟りと思い合わせた平城天皇は、ついにこの恐怖にたえかねて、翌年突然皇太弟・神野親王へ譲位。神野親王は何度も固辞したが聞き入れられなかったので4月13日即位の式をあげ嵯峨天皇となる。そして平城へのせめてもの配慮として、平城の皇子を皇太子にたてた

平城を唯一の出世の頼みとしていた薬子と仲成は、大反対だったが、物の怪にとり憑かれてヒステリック状態の平城をどうなだめるすべもなかった