■藤原純友の生まれは3つの説がある
★藤原冬嗣の流れをくむ藤原良範の子(中流貴族)
★藤原氏とは無縁の越智一族
伊予国の土豪・高橋友久の子が
藤原良範の養子となり
藤原純友と称した
(良範は一時期、伊予守をつとめ、その際に高橋氏とつながりができたのか。しかし血筋を重んじる貴族が、在地の土豪の子を養子に迎えるというのは考えにくい)
★藤原良範の隠し子
藤原良範が伊予守時代に、高橋氏の娘と密かに関係を結び、その間に生れたのが純友で、高橋友久の息子として育てられ、のちに藤原良範の子と認知され、藤原純友を称するようになった
■藤原純友が生まれたのは、伊予の大州。肱川のほとりに開けた盆地にある。
大州は霧深い。町の中央を水量豊かな肱川が流れ、いつも川霧が立ち込めている。
水が豊富だからか、木々の緑はみずみずしく、春になると花々が野山に明かりを灯したように美しく咲く
純友がはじめて都へ上ったのは、元服してのちのこと。地方豪族の子弟が都へ上るのは、朝廷に仕えてなにがしかの官職をもらい、経歴にハクをつけるためだ。
下っ端役人であっても、故郷の人々の見る目が違う。それだけでも十分地方豪族たちをまとめ上げていく力となる。
■上洛後の純友は、実父藤原良範のつてをたどって、下級役人に任官した。任官できただけまだましな方で、同じように京へ上った平将門は、摂関家の藤原忠平に仕えながら、ついに官職を得ることができなかった。やはり純友の場合、父である良範の尽力が大きかった
実父の許しを得て、藤原純友と名乗ったのも、宮仕えのときだ
■京での宮仕えのあと、藤原純友は伊予国へ戻り、伊予国府の三等官である「伊予のじょう」となった
一等官の守
二等官の介は、中央の貴族がつとめ
三等官以下は在地豪族がつとめる
純友の職は土豪としてはトップの役職で、武力を背景に裁判、治安維持などをつかさどっていた
順風満帆。何不自由のない恵まれた若き土豪
■933年
このころ瀬戸内海では、あたり一帯を航行する船を襲い、物資を横領する海賊たちの動きが活発になっていた
海賊たちはもともと漁師や船乗りで、瀬戸内海や北九州沿岸を生活の場としていた海人の流れを引く者たちだった。その船上生活者たちが力をつけ、徒党を組んで海賊行為をはたらくようになっていた
目ち余る海賊たちの横行に、朝廷は瀬戸内海沿岸諸国に警固使が派遣された。純友の伊予国にも警固使が下ってきた
伊予で育ちの純友は、瀬戸内海交通を握る海賊たちとも関わりを持っていた。純友は、中央から来た警固使の横柄な態度に腹を立てて衝突。ついには「伊予のじょう」の職を辞して大州の館へ引き上げてしまった
まだこの時期の純友は朝廷への反逆の意志を明確に持っていなかった