遠くまで・・・    松山愼介のブログ   

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ
読書会に参加しているので、読んだ本の事を書いていきたいと思います。

井上ひさし『一週間』を読んで

2023-02-24 17:55:02 | 読んだ本
   井上ひさし『一週間』       松山愼介
小松修吉(井上ひさしの父と同名)は、昭和七年頃、新宿で古本屋を営みながら共産党の地下活動をしていた。彼はシベリアに抑留され、そこで酒井という男と知り合う。この酒井も「オヤジのモグラ(党の地下活動家)」で、酒井は新宿の中村屋に勤めていて、小松が住んでいるアパートの二階の部屋に、食パンの中に秘密指令をいれて放り投げる連絡員の役割を果たしていた。
 小松は昭和七年十二月に逮捕され、獄中で転向、昭和九年一月、内地では仕事がないため、満洲に渡る。この満洲行きは職探しだけではなく共産党壊滅の要因をなしたスパイM(飯塚盈延)の行方を追う目的もあった。満洲で職を転々とした後、昭和十五年、満映の地方巡回映写班員として北満州一帯を巡る。七月に黒河省で開拓青年義勇隊で編成される守備隊に加入させられ、ソ連が参戦し捕虜となり、シベリア送りになったのだった。
 井上ひさしは小松の口を借りて、日本軍の捕虜の扱いについて、ドイツ軍捕虜と比較しながら批判している。ドイツ軍の将校や下士官はハーグ陸戦協定、戦時国際法を周知していて、ソ連の無茶な労働責任量(ノルマ)の要求に対し抵抗し、食料も兵隊に平等に配布していた。それに対して、日本軍捕虜は将校、下士官は、秩序を保つという名目のもと旧指揮系統を温存し、食料も兵隊の分をピンハネしていた。
 この作品『一週間』は、シベリアでの捕虜の待遇、スパイM、レーニンの「社会主義の利益は諸民族の利益にまさる」という手紙の三点が中心テーマとなっている。
 スパイMについては、松本清張『昭和史発掘5』の『スパイ〝M〟の謀略』を参考にしていると思われる。スパイMは特高課長毛利基の手先になり、党の家屋資金局を牛耳っていた。当時の委員長・風間丈吉も党の全体を把握することはできず、資金についてはスパイMの言いなりであった。スパイMは活動資金を捻出するために第百銀行大森ギャング事件(昭和七年十月六日)を企図して資金三万円強奪させ、また熱海全国代表者会議に集まった十一名を逮捕させ、同時に東京で風間丈吉らも捕まり、共産党の組織はほぼ壊滅した。結局、スパイMについては、詳しいことは判明せず中途半端になっている。ただ、こういう人間がいたということを書きたかったのだろうか。
 昭和八年六月十日、共産党幹部、佐野、鍋山が転向声明をだしているが、これにはこの大森ギャング事件、昭和八年二月二十日の小林多喜二の拷問死も影響していると思われる、ちなみに佐野学は無期懲役の判決を受けていた。この二人の転向声明をきっかけに、共産党員の転向が相次いだ。後年、赤軍派もM作戦と称して銀行を襲っている。
 レーニンの「社会主義の利益は諸民族の利益にまさる」という手紙については、あまりよくわからない。赤軍関係者は、その手紙を必死に追っているが、真贋を証明するのはむずかしいだろう。ただ、新、旧左翼ともに、スターリン批判は当たり前になったが、レーニン批判は新左翼でも及び腰だった。共産党支持者と思われる井上ひさしが最後の作品でレーニン批判を持ち出したのには関係者は驚いたと思われる。
 マルクスは発展した資本主義国での社会主義革命を想定していた。発展途上国のロシアで革命が起こったのはいいが、非常な困難を伴った。ドイツとの不利な講和、白軍との内戦、アナーキスト、社会革命党の反乱、農民の抵抗が相次いだ。レーニンの社会主義を守るためには何でもやるという革命の変質は、やむを得ない点もあったと思われる。内戦の悲惨な状況は映画『ドクトル・ジバゴ』(パステルナーク原作)を見ればわかる。
 井上ひさしに加筆、訂正する時間があれば、中途半端に終わったスパイMの追及、社会主義国における民族問題について、うまくまとめられただろうか。わたしは、シベリア抑留者の生き様だけに焦点を絞った方が良かったと思う。
 シベリア抑留について、体験された山本憲太郎さんに話を聞いたことがある。それによると、送られた場所によって事情は異なったらしい。極寒の土地では悲惨だったらしいが、山本さんの話では、建物をきちんと建てられなかった最初の冬は苦労をしたが次の年はなんとかなったそうだ。
                                    2022年5月14日

最新の画像もっと見る

コメントを投稿