大正十一年、詩人・野口雨情は、小石川区西丸町の町かどで、子どもたちに童謡を聞かせる会を行ないました。
当時、西丸町・西原町・宮下町あたり(今の文京区千石四丁目)には「百間長屋」とよばれた貧しい人たちの住む町がありました。
明治末には町の人口二千五百人、そのうち千人ほどが学校に行く年令の子どもたちでしたが、わずか六・七十名のみしか就学していなかったようです。
その子どもたちでさえ・・・
「降雨に当たりては、にわかに登校児童減ずるは、雨具の用意無きゆえにて、登校児童は一本の破傘の下に三・四人まるくなって入り来る・・・。(明治三十九年「風俗画報」より)」
雨情は、この町に友人たちと通い文化活動を行いましたが、そのようすを当時の子ども雑誌「金の星」は次のように紹介しています。
「六月十一日夜八時から、野口雨情先生が、貧民窟で有名な東京小石川西丸町の路傍に立って、童謡のお話しをしたり、童謡を歌ったりして、大勢の貧しい家の子供さん達に聞かせました。
子供さん達は、どんなに喜んだことでせう。野口先生の羽織の袖や袴につかまって、涙を浮かべて聞いていました。
野口先生も涙を浮かべて幾度も幾度も歌ひました。
往来の人々も皆立ち止まって、声一つ立てずに聞いていました・・・。
(「金の星」大正十一年八月号より)」
参考文献
・日本童謡史 藤田圭雄著 あかね書房
十五夜お月さん 野口雨情
十五夜お月さん
御機嫌さん
婆やは おいとま とりました
十五夜お月さん
妹は
田舎へ もられて ゆきました
十五夜お月さん
母さんに
も一度 わたしは 遇いたいな
(「郷土教育」710号より)
-中村光夫-
当時、西丸町・西原町・宮下町あたり(今の文京区千石四丁目)には「百間長屋」とよばれた貧しい人たちの住む町がありました。
明治末には町の人口二千五百人、そのうち千人ほどが学校に行く年令の子どもたちでしたが、わずか六・七十名のみしか就学していなかったようです。
その子どもたちでさえ・・・
「降雨に当たりては、にわかに登校児童減ずるは、雨具の用意無きゆえにて、登校児童は一本の破傘の下に三・四人まるくなって入り来る・・・。(明治三十九年「風俗画報」より)」
雨情は、この町に友人たちと通い文化活動を行いましたが、そのようすを当時の子ども雑誌「金の星」は次のように紹介しています。
「六月十一日夜八時から、野口雨情先生が、貧民窟で有名な東京小石川西丸町の路傍に立って、童謡のお話しをしたり、童謡を歌ったりして、大勢の貧しい家の子供さん達に聞かせました。
子供さん達は、どんなに喜んだことでせう。野口先生の羽織の袖や袴につかまって、涙を浮かべて聞いていました。
野口先生も涙を浮かべて幾度も幾度も歌ひました。
往来の人々も皆立ち止まって、声一つ立てずに聞いていました・・・。
(「金の星」大正十一年八月号より)」
参考文献
・日本童謡史 藤田圭雄著 あかね書房
十五夜お月さん 野口雨情
十五夜お月さん
御機嫌さん
婆やは おいとま とりました
十五夜お月さん
妹は
田舎へ もられて ゆきました
十五夜お月さん
母さんに
も一度 わたしは 遇いたいな
(「郷土教育」710号より)
-中村光夫-