私は36歳で就職し60歳の定年まで勤めた。
夫と娘が一人いる。
現役の頃は、仕事と家事というよりも毎日のご飯作りに、休日と夜は「活動」で忙しかった。
「活動」というのは最初はフェミニズム運動で、それに「市民運動」。
合い間にプールで泳ぎ、興味のある場所に出かけ、50歳過ぎたころからは登山が加わった。
とにかく楽しいことだけやって生きてきた、というか、来られた。
もちろん仕事も好きだった。
私は楽しいことしかできない性で、50歳前まではほかのひとも同じだと思っていた。
ほかの人が、しんどいけど、嫌だけどやらなくちゃならないからといろいろなことを我慢しながらやっている、という事実を知り、驚愕した。
毎日の晩御飯つくりは疲れるけれど楽しかった。
作りながら次の料理を考えて時間があるとデザートまで作る。
楽しい。
60歳になり仕事を辞めた。
仕事を辞めてやりたいことのリストが30くらいになったので。
福島に自転車旅行に行きたい、大豆から豆腐を作っていきたい、楽に着られるもの、他人のつくったファッションじゃない自分の服を作る、
毎日思うところをほっつき歩きたい、困っている人にもっとおせっかいを焼きたい、故郷で新鮮で安い地場のものでおいしいご飯を作りたい。
だいぶん忘れたが。
その中にはもちろん、思い切り納得できるごはんを作って暮らしたい、というのもあった。
なにしろ共働きは金はあるが時間貧乏だったから。
お金と時間は、もちろんなかなか一緒に来ないのが人生だが。
退職したら、翌月に東日本大震災が来た。
福島にはいけなかったが、大豆から豆腐を作った。
豆によって豆腐の味や風味がちがうと知った。
フェミニストである私が、料理が好きというと、よく「意外に女らしいんですねえ」という反応が返ってきた。
そういうことではないのだが。
そういうふうら見られたくないというこだわりがあった。
現実問題として、たいていの場合経済的自立は必要だ。
それは精神的自立を支える。
パートナーがいる場合、それが男ならばどんな男であろうと。
女・男で暮らし始めると、社会のもつ女・男役割の共同幻想から自由でいることは難しい。
であるから女の経済的自立はまず必要だ。
私は「たいていの場合」と言ったが、不要なこともある。
例えば障碍者が公的/あるいはボランティアの助けを借りて暮らすときとか。
男女平等と心の自由を想う女性ならば、たいてい女だから料理は好きなはずと言われるのは心外だと思う。
また往々にして家事労働はメインの労働ー金稼ぎ、社会運動など―と比べて、その余暇でやるべき、あるいは仕方ないからやること、
という扱いを受けることが多い。
しかしよく考えると、それって変だよなあ。
私は現在、いわゆる運動系でないフツウの女性たちとつき合っているが、私の生活や意見は理解されにくい。
自慢している、あるいは変な奴。
うちでは家族みんなで家事をしている、というと、「それはあなただけよ」と社会的地位の高い男の元妻に言われた。
まあ、いいんですが、人に強引に言われるとすぐ卑屈になるあなたの態度は結婚生活のなかで作られたものではないのですか。
なんとか橋の懸けようはありませんか。
今日の昼ご飯
ピーマンの肉詰め
トウモロコシと胡瓜のサラダ
ミネストローネ(かぼちゃ、ソーセージ、ズッキーニ、玉ねぎ、トマト)
今晩のご飯(予定)
鰯の蒲焼き―娘担当
胡瓜と大根の浅漬け(ほどよい浸かり加減)
チンゲン菜と豚肉、干しシイタケの中華風炒め物
お昼のミネストローネ
蜜柑のゼリー
ーK.M-