友人に誘われて『プラン75』をみた。
「75才過ぎると、死を選択できる」法が制定――国が公費で、人里離れた病院のような施設で、睡眠薬を飲み、
苦しまないでガス死させてくれる。
遺体は焼却、残灰は産廃処理者が処分―—家族も坊さんのお経も線香もない。
物体としてオートマティックに処理してくれる。
倍賞千恵子扮する角谷ミチ、78才、ホテルの客室清掃員、仲間とカラオケに行ったり、親しい友人の家に泊まったり、
つつましくも折り目正しく暮らしてきた。
しかし、突然、高齢という理由で職を解雇。
職探し、住探しをするが、どこも断られる。
『プラン75』の窓口に引き寄せられる。
迷いながらも契約、決行日に向かって、身の回りを整理する。
担当スタッフとホットライン。
1回15分、若いスタッフは、本人の思い出を聞き、優しく受け止める。
スタッフの任務は顧客の不安を抑え、つつがなく決行の日を迎えられように伴走すること、ミチは彼女に
「お婆さんの話を聞いてくれてありがとう、付き合ってくれてありがとう。楽しかった。」と電話を置き、
翌日早朝、一人で遠い施設に向かう。
しかし・・・
ミチさんは、体力も気力もしっかりして、働く意思がある。
齢を理由に解雇され、その後仕事が見つからず、経済的に追い詰められ、「プラン75」の契約した。
生きることが嫌になったわけではないし、生きることに疲れたわけでもない。
ミチさんは生きたかった。
家賃が安い公的な住居があり、適当な仕事があり、人間関係があれば、生きていける。
もう一人プラン75を申し込んだ男性、スタッフの音信不通だったユキオ叔父という設定、甥は叔父のアパートを訪ね、
長崎から北海道まで全国の飯場を回り橋やトンネル、ビル工事などにかかわっていたことを知る。
その日の朝、甥は叔父を郊外の施設に送り届ける。
叔父がプラン75を申し込んだのも、経済的理由だ。
親や兄弟など血縁と疎遠になり、親しい友人、知人もなく孤独に生きている。
人間は社会的生き物だから、人間的つながりがなくなれば、生きる力もだんだん希薄になる。
麻生太郎が、10年ほど前だったか、「日本の年寄りは、働くしか能がないから、働かせろ」のようなことを言って、
「年寄りに死ぬまで働けというのか」と抗議が殺到した。
「あんたにそんなこと言われる筋合いはない」私もアタマにきた。
70年代、80年代、会社員が定年後、行くところや、やることを失って、ぬれ落ち葉・・・などと揶揄された時期もあったが、
今はそんな話は遠い昔、殆どのサラリーマンは定年後、再雇用で65才まで働く。
年金が出ないのだから。
65歳以降も、闘病中でない限り仕事に就いている。
勿論、一番の理由は生活のため。
なじみのお豆腐屋さん、71才、「豆腐作りというのは、大豆、季節、天気、その日の温度などで微妙に違う…
私は、これと言って趣味もないから、仕事があって助かる。お客との会話も楽しいし…」
「でも、いやな客もいるでしょう?」
「それが不思議なんですよ。自分が嫌な客だなと思うと、いつの間にか、その人は来なくなる…」
仕事をするということは、社会につながり、人とつながる。
死ぬまで働きたいなんて思わないけれど、社会の中、人間の中で生き続けたい。
悠々自適な生活、趣味に生きる、好きなことをして愉しく生きるーーリタイヤア後の夢。
でも、多くの場合一人ではない。
俳句にしろ、絵画や音楽にしろ、畑仕事でもともに楽しむ仲間が存在する。
昔々の老後のスタイルは、家業を息子に譲り、隠居になる、と、村や町、コミュニティの世話役が回っていくる。
春夏秋冬の行事の段取り、祭りの準備、伝統の祭囃子、踊り、順送りでボランティア活動があった。
70代、80代でもコミュニティの中で役割があり生き生かされた。
人間は老いても、やっぱり社会的な生き物なんだ。
ミチと同い年の私、一人暮らし、二人の甥とも賀状での挨拶程度、頼る気もない。
いやも応もなくやってくる80路、少し年上の友人は、口をそろえて80の峠は厳しい・・・とても不安であるけれど、
高齢者問題の先頭に立っているのだと自覚して、もちろん皆の力を借りながら、
『プラン75』とは違った道を行けるところまで行こうと思う。
ーKa.M-