大正七(一九一八)年、鈴木三重吉は「赤い鳥」を創刊するにあたり一人の画家を選びました。
名は清水良雄、東京美術学校出たての新進洋画家でした。
そして創刊号から四号までのすべてと、その後のほとんどの号の表紙と挿絵を描かせたのです。
この「赤い鳥」の画家・清水良雄は明治二十四(一八九一)年、本郷真砂町に生まれました。
銀行員の父の仕事で神戸・京都で幼児期を過ごし、小石川区礫川小学校を卒業、京華中学をへて東京美術学校に進み、黒田清輝や藤島武二に学びました。
十七才で家の破産・父の死にあい、早くから一人立ちを余儀なくさせられた良雄は、子どもの本の挿絵画家として出発しましたが、大正十四(一九二五)年、三十四才の若さで帝展の審査員に選ばれるなど一定の評価が定まった後も「赤い鳥」「コドモノクニ」「コドモアサヒ」「コドモノヒカリ」「キンダーブック」などに子どものための絵を描き続けました。
そして戦時中は、他の童画家たちが、子どもたちを戦場にかりたてる作品を描きはじめた時、地域に生活するありのままの子どもたちの姿を描き、その落ち着いた態度を守り続けました・・・。
戦後は広島県福山市の郊外に住み、広島大学で教えるかたわら、地元の子ども雑誌「ギンノスズ」や「キンダーブック」、「山本有三国語教科書」などに、子どもたちの生き生きとした姿を表した美しい絵を描き残し、昭和二十九(一九五四)年、六十三才で亡くなりました・・・。
今、私たちには、絵本研究の第一人者・瀬田貞二さんの
「私ひとりの判断でいえば、清水良雄さんは、子どもための絵の新しい創始者の一人であったばかりか、また、いままででその方面でも最高の芸術家であったと思います。」
という言葉が残されています・・・。
◾️参考文献
・ 聞き書き・日本児童出版美術史 上笙一郎著
・ 落穂ひろい 瀬田貞二著
・ 瀬田貞二子どもの本評論集・絵本論 瀬田貞二著
・ 清水良雄童画論 中村光夫(「郷土教育275号)
・ 清水良雄絵本展 中村光夫(「郷土教育ブログ」に連載中)
-M.N-
名は清水良雄、東京美術学校出たての新進洋画家でした。
そして創刊号から四号までのすべてと、その後のほとんどの号の表紙と挿絵を描かせたのです。
この「赤い鳥」の画家・清水良雄は明治二十四(一八九一)年、本郷真砂町に生まれました。
銀行員の父の仕事で神戸・京都で幼児期を過ごし、小石川区礫川小学校を卒業、京華中学をへて東京美術学校に進み、黒田清輝や藤島武二に学びました。
十七才で家の破産・父の死にあい、早くから一人立ちを余儀なくさせられた良雄は、子どもの本の挿絵画家として出発しましたが、大正十四(一九二五)年、三十四才の若さで帝展の審査員に選ばれるなど一定の評価が定まった後も「赤い鳥」「コドモノクニ」「コドモアサヒ」「コドモノヒカリ」「キンダーブック」などに子どものための絵を描き続けました。
そして戦時中は、他の童画家たちが、子どもたちを戦場にかりたてる作品を描きはじめた時、地域に生活するありのままの子どもたちの姿を描き、その落ち着いた態度を守り続けました・・・。
戦後は広島県福山市の郊外に住み、広島大学で教えるかたわら、地元の子ども雑誌「ギンノスズ」や「キンダーブック」、「山本有三国語教科書」などに、子どもたちの生き生きとした姿を表した美しい絵を描き残し、昭和二十九(一九五四)年、六十三才で亡くなりました・・・。
今、私たちには、絵本研究の第一人者・瀬田貞二さんの
「私ひとりの判断でいえば、清水良雄さんは、子どもための絵の新しい創始者の一人であったばかりか、また、いままででその方面でも最高の芸術家であったと思います。」
という言葉が残されています・・・。
◾️参考文献
・ 聞き書き・日本児童出版美術史 上笙一郎著
・ 落穂ひろい 瀬田貞二著
・ 瀬田貞二子どもの本評論集・絵本論 瀬田貞二著
・ 清水良雄童画論 中村光夫(「郷土教育275号)
・ 清水良雄絵本展 中村光夫(「郷土教育ブログ」に連載中)
-M.N-