いつの頃からだろうか、お昼の弁当の時間になると温められたミルクが飲めるようになった。
これが、例の脱脂粉乳というやつだ。
私は自宅に乳牛が一頭飼育されていたため、毎日牛乳を沸かして飲まされていたので特に驚きもしなかった。
後々、この脱脂粉乳をめぐってなんやかやと言われることもあったが、私は、家で飲む牛乳より淡白で飲みやすかった記憶がある。
変な話だが、私は「家で飲むのは牛乳、学校で飲むのはミルク」と分けて考えていたものだ。
あまり不味いという感じはなかったが、沸かして時間が経ったぬるいミルクが注がれた時はさすがに美味しくはなかった。
さて、冬の寒い時期には、登校すると各自の弁当箱が集められ、大きなケースに入れてから温める機械のようなものに入れていた。
あの熱源は教室にあったダルマストーブのように石炭やコークスだったのか、あるいは他のものだったか分からないが、食べる頃になると弁当から湯気が出るほど温まっていたものだ。
高学年になると、集めることから配ることまで一切を当番が受け持つのであった。
ちなみに、弁当箱は風呂敷等で包まれていたが、私のものはいつも新聞紙で包んであった。
そのまま温めてもよいのだが、包みをはがした方がよく温まると知った私は、いつも一目で分かる野球少年の弁当箱を剥き出しで温めた。
ところが、配る際に熱くて当番は困ったようだった…。
弁当を温めると、困ることもあった。
ぬか漬けが入れてあったりすると、取り出したときにすごい臭いがしたからだ。
必ずしも温めるに適したおかずとは限らず、毎日のように色々な臭いが教室中を漂った。
我が家の定番であった卵焼きは温めると美味しくなったが、さすが連日ともなると飽きてくるのであった。
食に好き嫌いのない私だが、今でも敢えて好んで食べないのが卵焼きなのだ・・・。
この弁当箱だが、高学年になると、薄くて大きい長方形型のものに変わった。
自分でも、大人に近づくのを感じたものだ。
ある時、弁当を食べるのに新聞紙で隠しながら食べる友だちがいた。
私は何故だか分かっていた。
自分でも、そうしたいことがあったからだ。
みんな貧しかった時代だが、次第に金回りの良い家庭も出てきたのか、弁当にトンカツ等の高級品を入れてくる子もいた。
そんな子は例外なのに、梅干し弁当に毛が生えた様な弁当を持ってくる子はついつい比べてしまうのであった…。
中学校でも弁当持参だった。
食べ盛りのこのころ、私の弁当箱はご飯の量が増え、時にはおかず用にもう一つ小さな器を用意してくれることもあった。
弟や妹の弁当も作る母は、本当に大変だったに違いない。
言い忘れたが、私のご飯はいつも黒みがかっていた。
特別な日以外は、いつも栄養満点な麦飯は当たり前だったのだ。
しかし、栄養のために金をかけていたのではなく、米は農家にとって貴重な換金手段、できるだけ自家消費量は抑えて供出(戦後になってもこの言葉が使われ、闇米と区別されていた)するのだった。
畑では、どの家でも一定の麦は耕作していたものだ。
池田勇人首相が「貧乏人は麦を食え」と言った話は後年になって知ったが、我が家はまさにそれを地でいっていたのである。
-S.S-