「働き方改革」が言われていますが、そんな上からの押し付けによる勤務条件の変更は許してはなりません。
出勤したらずっと子どもたちと共に過ごす教員は、その責務の重さを知っています。
だからこそ子どもたちの実態に合わせて、自分のペースで仕事をすることが重要になってきます。
そして、教員は神様ではなく人間ですから人間らしい生き方を選択すべきです。
そうしてこそ、時には感動的な場面に遭遇するし、また逆に心を痛める場面に直面することさえあるのですから・・・。
官制の「働き方改革」の押し付けを拒否して、まずは自分の日常の足もとを一人の労働者として見つめ直してはいかがでしょうか?
そこからしか、改革は始まらないと思います。
以下に、私が経験した学校現場の記録を示します。
(2013年7月9日)
今、東京都の学校はほとんど午後3時45分から4時半までが休憩時間である。
そして、4時半から最後の勤務が4時45分まである。
ちなみに私の職場は、最後のこの時間に「夕会」という職員打ち合わせがある。
さて、今日も休憩時刻がやってきた。
突然、放送が入る。
「◯◯委員会の方は△△に集まって下さい。」
職員室に行くと、今度は別のグループが何やら話し合っている。
お茶を飲んで雑談してる者はほとんどいない。
勤務時間にワイワイやってるとお叱りを受けるかもしれないが、休憩時間に仕事をしていても咎められることはない。
そんなの当たり前だと思われるかもしれないが、私はおかしいと思う。
休憩時間を与える義務が管理職には課せられているのだから、指導しないのは職務怠慢と言える。
「◯◯さん、その仕事は今やらなければならないものですか? 管理者として休憩を与えないと、私たちが処分されますから・・・」
「ええ、この職場は仕事が多すぎて、休憩時間に仕事しないと残業しなくてはならなくなりますので・・・・・・」なんていう洒落た返答ができる関係の管理職と職員ならまだよいのだが・・・・。
管理職(副校長)も休む間もなく仕事を続けている中では、部下の様子を見る余裕もない。
こんな風になったのはいつからだろうか?
少なくとも私が現役の頃の職場は、ほとんどがお茶を飲んで喋っているか体育館でスポーツをして遊んでいた。
中には机に向かって事務仕事をしている者もいたが、たいていは学期末の多忙な時期か好きな学級だよりなどを書いている人たちだけだった。
だから、職員室は賑やかでいつも笑い声などの騒音状態であった。
こんな中で仕事をやるのは、それなりの事情がある人だけだ。
こんな奇妙な状態が出てきたのは、もちろん休憩を取らない本人たちが悪いのであるが、そもそもの基を作ったのは都教委である。
休憩時間は実質勤務が終了した最後の休息時間の前にあったのである。
だから、休憩開始時刻イコール退勤なのであった。
実質勤務をしなくてよいなら退勤するのも自由である。
それが、休息時間の廃止に伴い、勤務時間の間に置かなくてはならない休憩時間がある意味で邪魔なものになってきたのだ。
それでもかつての職場を知ってる人間たちは、休憩時刻開始は仕事をしない時間の始まりなのだ。
今まではここで退勤したりスポーツをやったりしていたから、仕事なんてもってのほかである。
ある意味、体がそう動くようになっていたのだ。
ところが、それを知らない人たち(特に若者)は、平気で仕事をする。
休憩の意味を説明すると、「要するに自由時間でしょ。だったら仕事しててもいいんですよね」って感じなのである。
真面目というよりは、馬鹿である。
馬鹿がいけなかったら、低能力者である。
いや、それもいけない言い方なら、労働基準法を有効に活用しない愚か者である。
あっ、そっか! 労働基準法なんてしらないのかも・・・。
だったら、やっぱりバカかな・・・・・・。
しかし、それで都教委はよく合格させたな・・・。
あっ、そっか! そんな法律は知らない方が常識の無い都教委にとっては好都合なのか・・・。
それにしても、今の学校現場の長時間労働は度が過ぎる。
これは単に都教委とその忠実な下僕の校長の責任である。
労基法を遵守すると職務が成りゆかなくなる仕事って、いったい何なのだ!
メーデーが始まった頃の労働者の精神はどこへ行ったのか!?
時代は進めど内容は退化している。
人類は時の進行と同じくして文化や諸々の事物が進化するものだと信じてきた私が間違っているのか。
それとも、労働時間延伸は進化なのか?
遅くまで学校に残ってることを楽しんでる者もいるのは事実だ。
しかし、そんな人間に「教育」される子どもたちは哀れだ。
やっぱり、労働者性というものが失われてきたのだろう。
いくら当局に仕事を強要されても、労働者性があれば何らかの抵抗が出てくるはずだ。
もしかしたら、その表現が「うつ病」等の病や「自死」であったら、私たちは座視してはいられない。
失われたものはあまりに大きい。
休憩時間を意識しない人々を、私たちは「潜在的な病気予備軍」ととらえ、コミュニケーションを交わしていかなければならない。
「おい、今日は飲みに行くぞ!」
「仕事ばかりやってると、バカになるぞ!」
「さ、休憩だ!休憩!」
-S.S-
出勤したらずっと子どもたちと共に過ごす教員は、その責務の重さを知っています。
だからこそ子どもたちの実態に合わせて、自分のペースで仕事をすることが重要になってきます。
そして、教員は神様ではなく人間ですから人間らしい生き方を選択すべきです。
そうしてこそ、時には感動的な場面に遭遇するし、また逆に心を痛める場面に直面することさえあるのですから・・・。
官制の「働き方改革」の押し付けを拒否して、まずは自分の日常の足もとを一人の労働者として見つめ直してはいかがでしょうか?
そこからしか、改革は始まらないと思います。
以下に、私が経験した学校現場の記録を示します。
(2013年7月9日)
今、東京都の学校はほとんど午後3時45分から4時半までが休憩時間である。
そして、4時半から最後の勤務が4時45分まである。
ちなみに私の職場は、最後のこの時間に「夕会」という職員打ち合わせがある。
さて、今日も休憩時刻がやってきた。
突然、放送が入る。
「◯◯委員会の方は△△に集まって下さい。」
職員室に行くと、今度は別のグループが何やら話し合っている。
お茶を飲んで雑談してる者はほとんどいない。
勤務時間にワイワイやってるとお叱りを受けるかもしれないが、休憩時間に仕事をしていても咎められることはない。
そんなの当たり前だと思われるかもしれないが、私はおかしいと思う。
休憩時間を与える義務が管理職には課せられているのだから、指導しないのは職務怠慢と言える。
「◯◯さん、その仕事は今やらなければならないものですか? 管理者として休憩を与えないと、私たちが処分されますから・・・」
「ええ、この職場は仕事が多すぎて、休憩時間に仕事しないと残業しなくてはならなくなりますので・・・・・・」なんていう洒落た返答ができる関係の管理職と職員ならまだよいのだが・・・・。
管理職(副校長)も休む間もなく仕事を続けている中では、部下の様子を見る余裕もない。
こんな風になったのはいつからだろうか?
少なくとも私が現役の頃の職場は、ほとんどがお茶を飲んで喋っているか体育館でスポーツをして遊んでいた。
中には机に向かって事務仕事をしている者もいたが、たいていは学期末の多忙な時期か好きな学級だよりなどを書いている人たちだけだった。
だから、職員室は賑やかでいつも笑い声などの騒音状態であった。
こんな中で仕事をやるのは、それなりの事情がある人だけだ。
こんな奇妙な状態が出てきたのは、もちろん休憩を取らない本人たちが悪いのであるが、そもそもの基を作ったのは都教委である。
休憩時間は実質勤務が終了した最後の休息時間の前にあったのである。
だから、休憩開始時刻イコール退勤なのであった。
実質勤務をしなくてよいなら退勤するのも自由である。
それが、休息時間の廃止に伴い、勤務時間の間に置かなくてはならない休憩時間がある意味で邪魔なものになってきたのだ。
それでもかつての職場を知ってる人間たちは、休憩時刻開始は仕事をしない時間の始まりなのだ。
今まではここで退勤したりスポーツをやったりしていたから、仕事なんてもってのほかである。
ある意味、体がそう動くようになっていたのだ。
ところが、それを知らない人たち(特に若者)は、平気で仕事をする。
休憩の意味を説明すると、「要するに自由時間でしょ。だったら仕事しててもいいんですよね」って感じなのである。
真面目というよりは、馬鹿である。
馬鹿がいけなかったら、低能力者である。
いや、それもいけない言い方なら、労働基準法を有効に活用しない愚か者である。
あっ、そっか! 労働基準法なんてしらないのかも・・・。
だったら、やっぱりバカかな・・・・・・。
しかし、それで都教委はよく合格させたな・・・。
あっ、そっか! そんな法律は知らない方が常識の無い都教委にとっては好都合なのか・・・。
それにしても、今の学校現場の長時間労働は度が過ぎる。
これは単に都教委とその忠実な下僕の校長の責任である。
労基法を遵守すると職務が成りゆかなくなる仕事って、いったい何なのだ!
メーデーが始まった頃の労働者の精神はどこへ行ったのか!?
時代は進めど内容は退化している。
人類は時の進行と同じくして文化や諸々の事物が進化するものだと信じてきた私が間違っているのか。
それとも、労働時間延伸は進化なのか?
遅くまで学校に残ってることを楽しんでる者もいるのは事実だ。
しかし、そんな人間に「教育」される子どもたちは哀れだ。
やっぱり、労働者性というものが失われてきたのだろう。
いくら当局に仕事を強要されても、労働者性があれば何らかの抵抗が出てくるはずだ。
もしかしたら、その表現が「うつ病」等の病や「自死」であったら、私たちは座視してはいられない。
失われたものはあまりに大きい。
休憩時間を意識しない人々を、私たちは「潜在的な病気予備軍」ととらえ、コミュニケーションを交わしていかなければならない。
「おい、今日は飲みに行くぞ!」
「仕事ばかりやってると、バカになるぞ!」
「さ、休憩だ!休憩!」
-S.S-