明治四十五(一九一一)年、石川啄木は小石川久堅町(現・小石川五丁目)で二十六年間の短い生涯を閉じました。
彼は詩人であるとともに、すぐれた教師でもありました。
彼が二十歳の時に出した短編小説「雲は天才である」には、村の小学校の代用教員になった時のことが、激しい筆で書かれています。
「日本一の代用教員・・・」の意気に燃える青年教師・啄木が火のような情熱で子どもたちに接していく姿が、そしてそれに対して、
「学校には、かしこくも文部大臣からのお達しで定められた教授細目というものが有りますぞ・・・、で、その、本当の教育者というものは、その完全無欠な規定の細目を守って、一ごう乱れざるていに授業を進めていかなければならない・・・」
という校長の態度・・・と。
さらに、啄木の思いに敏感に応えて、学び・唄い、そして行動していく子どもたちのありさまが・・・。
(日本の文学6ー石川啄木ー「小説・雲は天才である」 金の星社刊より)
春まだ浅く 石川啄木
春まだ浅く月若き
生命(いのち)の森の夜の香に
あくがれ出でて我が魂の
ゆめむともなく夢むれば
「自主」の剣(つるぎ)を右手(めて)に持ち
左手(ゆんで)に翳(かざ)す「愛」の旗、
「自由」の駒に跨(また)がりて、
進む理想の路すがら、
今宵生命(いのち)の森の陰
水のほとりに宿かりぬ。
そびゆる山は英傑の
跡を弔ふ墓標(はかじるし)
音なき河は千載に
香る名をこそ流すらむ。
此処は何処と我問へば、
汝(な)が故郷(ふるさと)と月答ふ。
勇める駒の嘶(いなな)くと
思へば夢はふと醒めぬ。
白羽の甲(かぶと)銀の楯(たて)
皆消えはてぬ、さはあれど
ここに消えざる身ぞ一人
理想の路に佇(たたず)みぬ。
雪をいただく岩手山
名さへ優しき姫神の
山の間をながれゆく
千古の水の北上に
心を洗ひ・・・・・。(未完)
*この歌は、昭和二十八年、渋民小学校校歌に制定されました。
(「郷土教育・705号」より)
-M.N-