東京新聞では毎週金曜日の「発言」蘭に、若い人たちの声を載せている。
これらの投稿は、いずれも学校行事の「準備」に費やす時間に疑問を呈したものだ。
元教員の立場からすると忸怩たる思いに駆られる。
私もこの彼らと同様に感じていながらも根本的に変えることが出来なかったからである。
自分が行事を計画実施する担当になった時こそ練習時間を極力減らすことに努めはしたが、大きく削減したり学校全体で見直す運動には発展させることができなかった…。
特に小学校の場合、保護者や地域からまるでスポーツや文化の祭典として展開されることが期待されているように受け取る風潮が根強く残っている。
要するに見世物として位置付けられているのだ。であるならば、「本番」までには練習を何度も積み重ねて少しでも「立派」な姿を見せる必要がある。
即ち、練習の積み重ねこそ大事であり、本番はその結果を短時間で公開するだけのものに過ぎないのである。
こんなものが、果たして「演じる」子どもたちにとってどんな意味があるのか、深く掘り下げて考えたことがあるだろうか…。
教員の中には何度も練習を繰り返し少しずつ技量が高まることに満足感を抱く者がいる。
この際、指導される子どもたちは学びの主体者と言うより役者であり選手になっているのだ。
コーチや監督によって演技指導などを指導される客体と化す子どもたちなのである。
しかし、もしかしたらこの時代、保護者や地域が旧来のようなものは求めているとは限らないのではないか…。
もう一度、原点に立って学校行事について考える必要があるように思う。
日本の学校が忙しく子どもも職員も余裕のない現実は、この行事にもあることは既にわかっている。
学校の主人公は子どもであることを再認識して、このような子どもたちの声を聴く耳を持つことから始めてみてはどうだろうか。
-S.S-